Ⅳ
「司旦。お前は今宵の内に囹圄へ忍び込め」
千伽の命令を背負い、司旦は皇居に向かって都の大路を走っていた。言われるまでもない、と思った。彼の姿は幻術に隠され、淡い影だけが石畳を滑るように駆けていた。
幾度となく潜り抜けた修羅場。こういった緊張には慣れている。高揚はしていたが、手足の震えはない。意識はぴんと張り巡らされ、暗闇の向こうを見通せるほど冴えていた。
ちらりと後ろを振り返る。今のところ追手の気配はない。しかし、油断は出来なかった。
千伽が察した通り、禁軍を寄越したのは“あの方”だろう。皇帝ではない。頭は悪くないが、愚鈍で優柔不断な皇帝が、こんなにも迅速に軍を動かせるはずがないのだ。
あの方──万和様。皇帝の手足となって朝廷を暗躍する、宦官の一人。千伽の、腹違いの弟。
万和であれば、千伽が優れた幻術を使うことをよく知っている。それが時に幻術という枠を超えた力を発揮することも。知っているということはそれだけ術が破られやすいことを意味する。この状況において千伽最大の天敵は、皇帝ではなくむしろ万和だった。
誰が万和に密告したのか、恐らく皓輝は知っているのだろう。千伽の別邸を出る直前、そういった訳知り顔を必死に押し隠していた。嘘や偽りに敏感な司旦の目は誤魔化せない。
やれやれ、と思う。やはりあの世捨て人の二人を味方と信用することは無理か。
足取りに迷いはない。大きな声では言えないが、司旦は皇居に忍び込むことには慣れていた。
毎朝皇帝の前で執り行われる正衙は広寒宮で行われるが、奴婢の身分である司旦は足を踏み入れることを許されていない。政治の場は聖域で、それゆえ白狐のため皇城に忍び込むのは司旦にとって日常茶飯事だった。
「……」
素早く石壁に背をつける。自身の足元から伸びる影が、地面に残っていないことを確かめて息を潜めた。
身体を伸ばして様子を窺えば、宮中警護を司る三班たちの影が見える。提灯を手に左右に首を動かし、しきりに何かを探すよう目を配っている。この時間に彼らが出歩くというのは非常であり、恐らく司旦たちの動きを警戒しているのだろう。
司旦は脳内に皇城の地形を思い浮かべた。門は大小合わせて三つあるが、どこから、どうやって入るか見計らわねばならない。幻術は既に破られたものと思って動いた方が良さそうだ。
さて、どう動くべきか。逡巡した司旦の爪先が寸でのところで止まる。光。ぱ、と目の前で刃物が閃いたように錯覚した。大路が一瞬白く照らされ、かと思えば轟音が降り注ぎ、地面が揺れる。
咄嗟に司旦は均衡を崩して膝をついた。本能的にひれ伏したくなるような、人知を超えた音と震動だった。はっと顔を上げる。微かに鼻をつく焦げ臭さ。遠くからくぐもったどよめきのようなものが聞こえた。
「落雷……?」
声が震えた。暗闇の帳に霞む皇城の釣り上がった屋根の先が崩れ、瑠璃瓦の破片が老人の歯のようにぼろぼろと零れている。更に目を凝らせば、直撃したと思しき箇所から煙がか細く立ち昇っているのも見えた。
火事、というほど大きな損害ではなさそうだ。しかし、先程の光と音の速さから察するに再び近くに落ちる危険は大いに考えられた。暗雲立ち込める空を仰いでも雨の気配はない。
とはいえ、そもそもこの異様な雷はただの天候によるものではないだろう──。
再び、雷光。紫色の光が一閃、目の奥にまで突き刺さる。皇城前はにわかに騒がしくなった。考えるより先に司旦は動いた。この好機を逃してはならない。
後に一連の事件の発端として語り継がれる落雷騒ぎの混乱に乗じ、ひとつの影が皇城の周壁を目指して走り出した。
***
夜明けの兆しが差す。内朝にある囹圄の廊下は誰もいない。
砂っぽいざらつきが染みついた木壁や梁は、明るい色合いにもかかわらず黒々とした陰が貼りついている。四隅から滲み出る陰鬱さは、ここに閉じ込められて死んでいった囚人の怨念なのかもしれない。
例の落雷騒ぎの余韻はまだ皇城のそこかしこに残り、浮足立った雰囲気に紛れて囹圄内部に忍び込むのは司旦にとってそう難しい話ではなかった。交代に紛れ、守監の目を盗んで手短に千伽の計画を伝えるにもさしあたり充分である。
異質な待遇の表われだろう。政治犯を収容する監獄は、白狐を閉じ込めている一室を除けば無人だった。
「考え事ですか? 白狐様」
白狐は顔を上げる。目を凝らさねば分からないほど巧妙に幻術を掛けられてはいるが、昔から幼馴染の悪戯に付き合ってきた白狐は司旦の姿を朧げに捉えることが出来た。
「え、まあ」白狐は顎に指を添わせて、ちらりと外を見やる。「何だか、大事になってしまいましたね」
「とっくの昔に大事ですけど」
司旦は呆れて肩を竦める。騒ぎの中心にいる白狐が誰よりも能天気で現状を掴めないでいる。まるで、そこだけ凪いでいる台風の目のように。
夕刻には処刑されるというのに危ういほど現実感のないままぼんやりしている主を見て、司旦は懐かしくなった。初めて出会った日も、それから過ごしてきた日々も、彼はずっとこんな調子だった。浮世離れして、時に驚くほど自分の命に対して投げ遣りになる。
他人とはずれた道をふらふら歩きたがる主の生き方が、彼なりの処世術なのか単なる気まぐれなのか未だに判断しかねていた。まあ、そんなこと今はどうでもいい。白狐本人が何と言おうと、既に事態は動き始め、こちらの力ではどうにもならないところまで進んでいる。
「皇城に雷は落ちるし、一体どうなってしまうんでしょうね」
司旦は黙る。互いに口にこそ出さなかったが、大方感じていることは同じだった。あの落雷は神の意思によるものではないか──豊隆が何らかの目的を以て、わざわざ皇帝権力の物理的象徴である皇城の屋根を狙ったのではないか、と。
狼狽がないと言えば嘘になる。雰王山で皓輝が豊隆と意思疎通らしきものをしている光景を目の当たりにしたとは言え、神のやり方はあまりに強引で乱暴だった。
司旦は千伽の考えに改めて不安を覚える。やはり豊隆を都合よく味方につけようという発想は間違っている。神は人間の理解を超えた存在で、今回の落雷騒ぎを豊隆の好意的な徴だと喜べるほど司旦は楽観的な方ではなかった。むしろ神の力の巨大さをまざまざと見せつけるための、司旦たちへの警告じみたもののようにすら思えた。
このままでは白狐の帰るべき場所すら破壊してしまう。そういった戦慄を覚えた。皇国が長らく築いてきた政治の秩序すら、豊隆の爪先ひとつで呆気なく崩壊させられるのだという恐怖。
豊隆は誰の味方なのか? 否、誰の味方でもない。皓輝の味方ですら、ない。千伽はあの紫色の稲妻を見て何を思っただろう。
「そういえば、禁軍が来たと聞きましたが、千伽は無事なんでしょうか?」
「大丈夫だと思いますよ」
不幸中の幸いと呼ぶべきか。万和率いる禁軍に投降を命じられた千伽のことは、落雷騒ぎの一件のどさくさに紛れて有耶無耶になっていた。
政の中枢に雷が落ちるという前代未聞の異事。不吉が過ぎるこの事件を影家の祟りだの白狐を守る神性の怒りだの畏れる者も当然少なくなく、朝廷内の動揺を鎮める方が皇帝側にとっては先決だったのだろう。
「朧家を囲ったのも、所詮はそういった演出に過ぎません。貴様らに目をつけているという無言の脅迫です」
「しかし、万和くんが宦官になっていたとは知りませんでした」白狐はそのことについて心から狼狽えているようだった。「あの子が小さかった頃、一緒に遊んであげたこともあったのに」
「……」
素直で可愛い子だった、と懐古する白狐の記憶は、残念ながら数十年前で止まっている。司旦は口を開きかけ、やめた。万和にまつわる悲劇的な話で、今の主を悲しませるべきではないと思った。
「僕がいない間にも、色々なことがあったのですね」
白狐は感慨深げに息を吐く。そうして昔話のついでのように、付け足した。「さゆは、元気ですか?」
「それはご自分で確かめてください」
司旦はにべもない。眉を下げて微苦笑する白狐の表情は、妻の顔色を窺うことに慣れている男そのものだった。
確かに司旦にとって白狐は一生を誓った主ではあるが、その夫婦間の問題は当人たちが解決すべきで、せいぜい意気地ない主の尻を蹴り飛ばす程度しか介入する気はない。気難しいことで知られるさゆが相手ならば尚更だ。その気難しい女を伴侶に選んだのは他でもない白狐なのだから。
格子の嵌められた外向きの窓からは、早朝の冷ややかな空気と遠く霞む喧騒が流れてくる。霧雨が降っているのだろう。しっとりと濡れた匂いが静寂に沁みる。
妻を想っているのか、それ以外のことに耽っているのか。ふと黙った白狐の眼差しは遠い星に願いをかけるようで、司旦は束の間その横顔に口を噤む。
「……生きなければ」白狐は自分に言い聞かせるように呟く。「何があっても、生きなければ」
かつて、火事で異民族の近習を亡くした頃を思い出す。白狐はいつもそうして生きてきた。心を引き摺る不条理なことがあっても、感情を二の次に、人形として前に進むことを選んだ。
時折投げ遣りになるのはその息苦しさの反動なのか。結局白狐を前に進ませるのは、痛々しいほどの義務感だ。
「白狐様」
思わず二人を隔てる格子に手をかけ、司旦は主を見つめる。透明な硝子玉の目が、残された左目が、司旦を見つめ返す。
「もしも、都よりも長遐で世捨て人として暮らす方が、いいと仰れば──」
「司旦」
白狐の掌が重なる。細い指が、穏やかな体温とともに司旦の手を包んだ。
「いいんです」
「しかし」
「ちゃんと分かっています。僕は、分かった上でここに帰ってきたんです」
朝廷は牢獄だった。白狐は籠の鳥だった。それでも尚、白狐はここへ帰ろうというのか。
白狐は司旦の手を握ったまま微笑む。儚さよりも、どこか力強さを感じさせる優しい表情だった。
「さゆがいて、千伽がいて、あなたがいて、この都に何の不足がありましょうか?」
「……」
「冥府の果てまで付いてきてくれるのでしょう?」
お道化た口ぶり。司旦はやっとの思いで頷く。「あなたとなら、どこへでも」
白狐は満足したように司旦の手を離す。何だか泣きたいような気持ちになりながら、司旦は心の片隅で安堵していた。主が長遐での自由な生活よりも、都の不自由な人生を選んでくれたことに。
白狐の窮屈な生い立ちを思えばそれは悲しい選択に違いなかったが、どれだけ苦しくとも自分の宿命から逃げ出さないのが主その人なのだとも思った。故に、司旦がその決意に口を挟めることなど何ひとつなかった。
「それに、僕はこの六十二年にも意味があったと思うのです」
霧雨を嗅ぐように顔を上げる白狐に、司旦は首を傾げた。「どんな意味が?」
「……」
白狐は答えない。声は聞こえているが、答えるつもりはないといった様子だった。その代わりのように、白狐はぽつりと呟く。俯いてさらりと流れた白髪の隙間から見えた口許は、自嘲、のようなものが浮かんでいた。
「千伽にはこれまで守られてばかりでした。たまには恩を売るのも悪くないでしょう」
「え?」
司旦は瞬くが、やはり主は笑うばかりで答えない。それよりも、そろそろ人が来ますよと白狐は促す。司旦は顔を上げた。
窓の外から仄暗い光が差す。通路に朝陽の筋が斜めに落ちた。東から、青褪めた太陽が昇る。──どこか騒然とした都に朝が来る。
神明ノ儀、当日。ひっそりとした皇城の牢獄で、影家の主従は人知れず顔を見合わせ、頷いた。
「それでは、あとは天に運を任せましょう」
「万事、上手くいきますよう」
色褪せた夜明けに溶けるよう、司旦の気配はふっと消える。白狐は一人残され、朝餉を運んでくる守監を待つただの囚人となる。
それでも司旦は何らかの方法を使って神明裁判の場に忍び込むだろう。頼もしい近習を持ったことに小さく微笑し、白狐は久しく感じることのなかった仲間の力強さを噛み締めていた。




