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明後日の空模様 朝廷編  作者: こく
第十四話 天命に聴す
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「禁軍が?」


「国賊を匿っている咎にて、当今皇上が千伽様に話があるとのことです」


 俺と翔は顔を見合わせる。外に意識を向ければ、にわかに正邸の方角が騒がしいように思えた。嫌な予感が喉元をせり上がる。


「それって……」


 禁軍は皇帝だけが持つことを許されたこの国の軍隊である。実質的に皇帝の私軍であるため、彼の指先ひとつでどこへでも差し向けることが出来る。司旦から聞いた話によれば、白狐さんの父親と妹を連行したのもこの禁軍だった。


「窮地、という訳か。なるほど」


 千伽はどこか苦笑するように口許を緩めている。笑ってはいたが、目線の鋭さが事の重大さを物語っていた。


「誰かが、俺や蜥蜴くんたちがここにいることを密告したんだ。そうでなければこの素早さは説明できない」


「……」


 咄嗟に俺は開きかけた喉を閉じる。綺羅だ、と思った。俺たちが朧家の正邸にいることを知っているのは、コウキと綺羅をおいて他にいない、はずだ。

 去り際の二人の様子を思い返し、そこに一抹の疑問がないでもなかったが、俺にはそれ以外思いつきようがなかった。そして、綺羅に寝返りを誘われた後ろめたさか、俺が先程コウキたちに遭遇したことを千伽たちに告げるつもりはなかった。今、千伽たちからの信頼を失するのは得策ではない。

 心の内に浮かぶものを紛らわそうと、俺は眉間に眉を寄せ、深刻なことを考えるような表情を装う。司旦はじっとこちらを見ていたが、俺は気付かない振りをしてやり過ごした。


「禁軍を動かせるのは皇帝だけ」千伽は独り言のように呟く。「……ではない」


 じゃあ他に誰がいるのか──戸惑う俺と翔の目に、千伽の口が僅かに動いたのが見えた。声はなかったが、その唇は確かに小さく何かを紡いでいた。


 まな。


「──?」


 苦々しい、微笑。彼らしからぬ、仄暗く、憂いを帯びて伏せたまつ毛。俺たちが疑問を呈する前に、千伽はさっと立ち上がる。よし、と彼は言った。その横顔に、暗さは消えていた。


「さて、こうして我々はめでたく国賊となった訳だ」


「まだ、そうと決まった訳では……」


「禁軍が動いたというのはほぼそれに等しい。連中にとって事実なぞどうでもいいことだ。皇帝が黒といえば全てが黒になる。疑わしきはそれだけで奴らにとっての罪だからな」


 そんな、理不尽な。翔が顔を青褪めさせる。「一体どうするんですか」


「何、そう慌てるな。私を誰だと心得る。禁軍を前に、無策で姿を現すほど追い詰められている訳ではない。……良いか」


 千伽の物言いには理屈抜きの落ち着きがあった。自信、と言っても良かった。彼は委縮する俺と翔を指さす。


「やり方を変える気はない。お前らはお前らの出来ることを、私は私のやるべきことをやるだけだ」


「しかし、どうやって」


「司旦」


 呼ばれて、司旦は頷いた。夜の暗がりがその顔を翳らせていた。


「この二人を竹林まで連れていけ」


「はい」


「明日の夜まで生き延びろ」


 司旦の目線に促され、俺たちは立ち上がる。「逃げる当てが?」


「恐らく禁軍は裏門も固めているだろう。隠れる場所まで案内するからついてこい」


 気圧され、従うほかない俺たちを千伽が呼び留めた。「おい」と言われ、振り向くと存外近くに彼の顔があったので怯む。目を瞑れ、と千伽は声を出さずに言う。


「……」


 額の辺りに何かをされた感覚があった。千伽の指が近付いたのだろう。その一点が仄かに熱を帯びたようで、俺は恐る恐る瞼を上げる。端正な顔が間近にあって、ゆらゆらと紫色に揺れている千伽のふたつの瞳に何故だか身体が縮み上がるのを感じた。

 スコノスの力? これが?


(まじな)い程度のものだが、それがお前たちを守ってくれよう」


「幻術、ですか?」


 翔が身を窄めるように問うが、千伽は答えなかった。代わりに歩き出した司旦に向け、「お前は今宵の内に囹圄(レイギョ)へ忍び込め」と言う。


「白狐に一通り経緯を話しておいた方がいいだろう」


「分かりました。千伽様、きっと御無事で」


 踵を返した司旦に連れられ、俺たちは別邸の奥へと向かう。心臓が早鐘のように打っていた。夜の暗闇がそうさせるのか、騒々しさを孕んだ空気の匂いのためか。ここに来てようやく俺は自分たちが死ぬのかもしれないという現実的な恐怖を冷たい壁のように感じた。

 見つかれば死ぬ。千伽が捕らえられても、きっと死ぬ。運命の差はほんの半歩道を踏み外す程度でしかない。裏口に通ずる長い廊下を進みながら、俺は最悪の事態のことを考えないよう小さく首を振った。




 ***




「俺たちは今、他者から姿を見えにくくされている」


 埃っぽい空気に体を沈めながら、俺は不安を紛らわせるよう司旦の言葉を反芻している。


「それは千伽様の幻術か?」


 翔は何かに縋るように言った。暗に、それは本当にスコノスなのか? と問うているようだった。司旦は淡々と、ともすれば鬱陶しそうに答える。


「さっきの幻術よりはきっといいものだよ」


「どういう効果が?」


 竹林の亭の床にあった隠し戸を引っ張り上げながら、司旦はその土埃に対してか翔の執拗さに対してか大袈裟に顔を顰めた。


「千伽様のスコノスは、千伽様が“こうだったらいいのに”と考えたものを現実にする力だ。それは物にも人にも作用するし、広く言えば将来起こり得る事象まで影響を及ぼす」


 亭の床石を捲り上げた下には更に木製の戸が嵌め込まれ、そこを開けるとぽっかりと四角い穴が開いている。地下室、と呼ぶべきなのか。少なくとも人間が降りることを想定した細い足場が下に向かって点々と打ち込まれ、途中で闇に呑まれて見えなくなっていた。

 その深さにぞっとしながら、「将来にまで影響を及ぼす?」と俺はぎこちなく聞き返す。こんな状況でなければ冗談かと思いたくなる言葉だった。


「つまりだな、千伽様がお前たちの幸運を祈れば、それはただの言葉ではなく現実に効果が現れる“本物の幸運”になる。千伽様がお前たちの無事を祈れば……」


「俺たちは無事ってこと?」


「そういうことだ」


 司旦は周囲の様子を窺うように少し視線を外した後、地下へ降りろと急かした。その口ぶりからして、司旦はもう何度も千伽がそうして現実を書き換えるのを目の当たりにしてきたのだろう。


「この下は古い隠し通路になっている。とはいえ通路としての役目はもう果たしていない。ずっと昔はこの場所に偽装代わりの蔵が建っていて、地下通路の入り口として使われていたんだが、庭を広げて竹林を植えたとき取り払われてな。蔵と通路を繋ぐ地下の一部だけ残ったんだ」


「じゃあもう道は塞がっているのか?」翔が上目遣いに問う。


「ほとんどはそうだろうな。都の地下はこうやって秘密の通り道が張り巡らされていて、俺も全てを把握している訳ではないけど」


「どうして都って場所はこうも物騒なのかな」


 足場を下りながら、俺は呟かずにはいられない。司旦は肩を竦めた。


「さてね。貴族様の考えることなんて俺には分からないが、きっと隠れてやりたいことなんて山ほどあるんだろ。朧家のご先祖にでも感謝するんだな」


 俺たちと一緒に来るのかと思われた司旦は、首を横に振って地上に残った。囹圄という皇城内の牢に入れられている白狐さんのところへ向かうのだと言う。

 上手く行けば、夜が明けた頃にまた会えると言い残し、司旦は素早く出入り口を戸で塞いだ。真っ暗になった地下室の中、遥か頭上の天井で敷石を直し、土か何かを被せているくぐもった音が聞こえ──それきりになった。


「……」


 そうして俺と翔は、音と匂いしか頼りにならないような暗闇の中に閉じ込められ、今に至る。ぴたりと上が封じられた今、風の囁きも笹のざわめきも一切耳に届かない。鼓膜を圧すような静寂に、自分たちの息遣いだけが微かに響く。

 蔵として使われていた時代の名残らしく四方の壁には切り出しの石が詰まれ、慎重に辿ってみればかなり広い空間であることが分かる。ごつごつとした石壁をなぞっていた手触りがふっと途切れ、どうやらその穴が地下通路へと繋がる入り口らしい。ひとつふたつではなく、複数の穴口が設けられていることから、相当複雑な造りなのだろう。先の見えない奥が塞がっているのかどうか判断が付かない。


「なあ皓輝、あまり離れないでくれよ」


 翔の声がするので、近くに行く。足元でぱりんと何かの破片が割れる音がする。鳥目の翔が、この状況を俺よりも恐れているのは当然のことだ。そういえばあの晩も、世捨て人の家で地下の貯蔵庫に閉じ込められたんだっけと思い出す。

 どれだけ時間が経ったのか分からない。千伽はどうなったのだろう。朧家に迫った禁軍とやらは、もう彼を見つけただろうか。もしそうだとして、皇帝直属の部隊に真っ向から姿を見せた場合捕らえられて殺される以外のイメージが浮かばないのは、隣の翔がらしくないほど強張った顔をしていたためだろうか。どれだけ振り払おうとしても、嫌な想像が次々と浮かんで尽きない。


「……皓輝」


 おもむろに翔が声を押し殺す。目を凝らさずとも、蒼白な顔をしているのが分かった。


「どう思う? 千伽様のスコノスのこと」


「え?」不意に問いかけられ、俺は少し考えた。深刻そうな顔をしているかと思えばそんなことか、と俺は思ったが、翔には深刻な話題のようだった。


「……そうだな。現実を都合よく変えるなんて正直信じられないけど、実際にこうして目の当たりにすると黙るほかないというか」


 自分の手がそこにあることを確かめ、指を握る。


「怖い、と思う」


「……」


 翔は黙っている。俺の答えとは違う方向のことを考えているよう、虚空を見つめている。


「司旦はニィを、人の意志に呼応する力を持っていると言った。人の願いを叶えるものだと。それがどれだけ信用に値するか分からないけど、俺は想像を現実に変える千伽様のスコノスの特性によく似ていると思う」


「うん」


 言いたいことは分かった。翔は眦を強くする。


「お前は何か感じなかったか? 同じスコノスとして、何か違和感はなかった?」


「そう言われてもな……」


 囁き声で返す。確かに聞けば聞くほど規格外の力であることは間違いないが、俺とてスコノスとそうでない人ならざる者の区別がはっきりついている訳ではない。一年余りを長遐の山で過ごした俺は、自分自身と、翔のスコノスを除いてこの人間に宿る精霊の姿をまともに見たことがなかったのだ。


「翔は千伽のスコノスがニィだと思うのか?」


「分からない」こういうときの翔は本当に煮え切らない。大抵のことは一人で察してしまうのに、答えを口にすることには誰よりも慎重だった。


「しかし、そうは言っても今はこの力を頼みにするしか……」


 ない、という言葉は暗闇に吸い込まれる。俺は胃が競り上がってくるのを感じた。

 はっきりと、何者かの足音が降ってきた。それは確実に、この場所を目的に向かってきている。一人二人ではない。声を隠す様子もない。であれば、司旦や千伽ではない。

 助けて、と脊髄で祈ったのは、かつてないほど物理的に追い詰められていたためか。俺たちにかけられた千伽の呪いはどこへ行った。焦りのため震え出す身体を押さえ、打開策を考える。逃げるか、立ち向かうか。

 俺は翔の手を掴む。頭上で、敷石をどけるような音が聞こえたのと同時だった。


 賭けるしかない。


 直感とともに、暗闇の道をひとつ選ぶ。人が一人やっと通れるような狭い通路だ。穴の口ばかりは石で固められていたものの、中は土が剥き出しになり、肩にぶつかったところからぽろぽろ崩れてくる。

 万一崩れたら、閉じ込められるのかもしれない。この地下通路の先がまともな場所に通じている確証もない。ぱしゃりと足元で水溜りらしき冷たいものが撥ねる。喉に貼り付く土の埃っぽさに饐えた黴の匂いが混じり、息がしにくい。

 翔は俺に手を引かれるまま、浅い呼吸をしながらついてくる。時折後方を気にする素振りを見せるのは、もし敵の姿が見えたら先手を打とうと考えているのか。しかしこんな狭すぎる場所でスコノスを呼べば、それこそ天井が崩落しかねない。

 人の気配。背後から迫る数人の足音を現実に捉えたとき、俺の脳裏は様々なことが一度に過った。

 捕まる、死ぬという直截的な恐怖と、どうにかして逃げ切らねばと一縷の望みに賭ける自分、もう駄目だとその場に膝を折りたくなる絶望と、力技でどうにかしようという謎の強気が混在し、そのいずれも思考の軸に定められないほど冷静さを欠いている。


 しかし焦りの全てが、足を止めるとともに散ってゆく。背中がひんやりと冷えていった。目の前を塞ぐ現実に、ただ子どものように混乱した。行き止まり、そんなことがあっていいのか?

 地下通路のほとんどの道は塞がっているという言葉を思えば、ただその内の一本を引き当てたに過ぎないのに、俺は心のどこかで自分が幸運を拾い上げると信じていたのだ。何故だか、本気で。


 先に進めないことを察した翔が、その一瞬で何を考えたか、手に取るように分かる。だからこそ駄目だと声に出した。この場でスコノスを使えば、どうやっても巻き込まれる。追手を殺す? 天井か壁に風穴を開ける? 仮に上手くいったとして、そこから無事に逃げられる保証はどこにもない。

 俺たちが立ち止まったことを察したのだろう。暗闇の向こうから迫る足音がゆっくりと、より慎重になる。獲物を狙う猫のように、追い詰めた鼠を捕り逃さぬように。眩暈すらする死の恐怖に、俺はもしかするとまだ掌の上で転がされたのではと後悔する。

 そもそも千伽が俺たちに言ったのは目を瞑っていろという言葉だけで、無事を祈るなどとは一言も口にしなかったではないか。そう、一言も。

 千伽の呪いとやらは、俺たちが思っていたような効果ではなかったのではないか。


 じゃり、と地面を踏む音が聞こえる。気配を断っていたのか、想定していたよりも遥かに早く、追いつかれたというより不意にそこから現れたと言った方が正しかった。身動きの取れない俺は、翔の手を掴んだまま、初めてその人の顔を暗がりに捉える。


「……」


 掠れて声が出なかった。え、と言いそうになった口を震わせ、束の間恐怖も忘れてその顔を凝視する。光のないこの通路で、翔はその人の顔が見えただろうか。露わになった額に、墨を引いたような形の良い眉。くっきりとした黒い目に、端正な顔つき。闇一色に塗り潰されたところにぼんやり浮かぶように現れた顔は、まるで千伽のようだった。

 一瞬過ぎれば別人だと分かる。しかし、残像のように影は残り続けた。真っ直ぐこちらを見据える眼差しに、引き結ばれた唇に、全く同じ千伽の表情が重なる。


「抵抗しないとは、良い心がけです」


 声を聞けば、まず間違いなく千伽でないと確信を持てた。しかし俺が一層困惑したのはその人が男なのか女なのか判断が付かなかったためで、そのどちらでもないような曖昧な声と体つきに思わず一歩後退る。踵に、行き止まりの土壁がこつんとぶつかった。


「静かなのも結構。こんな夜に騒ぎ立てたくなどないのです、本当は」


「……お前は」


 翔が消え入るように訊く。その油断のない目付きに、翔はまだ諦めていないのだと悟る。相手は答えの代わりに、馬鹿にしているのか哀れんでいるのか、斜めに傾けた視線を寄越した。


「あなたたちの考えなどお見通しです。朧家の君の力を借りれば逃げ切れると踏んだのでしょうが、とうにそんな()()如きで乗り切れる盤面ではないのです。それすら理解できないとは、私は朧家の君のことを買い被っていたのかもしれません」


 待て、と言いそうになる。肺が苦しい。この人は、千伽の能力のことを知っている? 知った上で、正面突破してきたのか? 一体どうやって。


「大概無理な話なのです。()()()()()()()()()()()()()()()()()


 言葉を失う。それは負けを認めたようなものだった。疑念は力を弱くするのだと、繰り返し言った司旦の言葉を今更ながら思い出す。

 俺たちは一筋の糸のような希望を、自ら手放してしまったのだろうか。

 戦意を失った俺たちに、その人は冷淡に告げた。


「私の名は万和(マナ)と申します。以後お見知りおきを。とは言っても、どうせ明日までの命でしょうが」


「……」


 明日の夜まで生き延びろ。千伽はそう言ったはずだ。じゃあこれはどういうことだ。この先起こりうること、それを先読みして千伽が書き換えたはずの筋──。

 今置かれているこの状況が、千伽の策の過程なのか結末なのか分からないまま、俺はこのややこしい因果について考えるのをやめた。




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