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明後日の空模様 朝廷編  作者: こく
第十四話 天命に聴す
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「蜥蜴くん、千伽様に喧嘩を売るな」


 司旦の声が飛んでくる。窘めるという真剣味は薄く、どちらかといえば呆れたような節すらある。微かに緊張の緩んだ空気に、俺はきっと振り向いた。


「先に売ったのは向こうなんじゃないか」


「安心しろ」と司旦。「確かに敵に回せば死ぬほどムカつくが、味方にいればこれほど頼もしいクズはいない」


「全部聞こえてんぞ」


 ゆるり、千伽は黒水晶の瞳を細めて司旦を見下ろすが、司旦はさらりと肩を竦めただけで臆する素振りはない。その態度に水を差されたか、くるりと足の向きを変えて床に敷いた円座に腰を下ろす。千伽が動くたびに、肌に染みついたような香と煙草の匂いが撒き散らされた。


「まあ、いい」脇息に肘を乗せ、彼は形の良い顎を撫でる。「結果的に、生きていたのは都合が良いな。私は寛容だ。無礼な口を利いたことは今だけ忘れてやる」


 俺は司旦と翔を順に見て、口を閉じることにする。突っかかった俺の方が悪いとばかりの態度は癪だったが、彼の“寛容”が継続している内に訊かなければならない話があるはずだった。

 千伽は顎をしゃくって、その場で座るように示す。俺と翔は銘々で畳の上に腰を下ろし、司旦は千伽の隣、俺たちに向かい合うような恰好で座った。


「お前と長遐で会ったときは遠望の術越しでしかなかったからな。こうして実際に見えるのは初めてか」


「あれは一体何だったんですか」


「幻術だ。いや、厳密に言うと少し違うが」


 説明を面倒くさがった千伽に代わるよう、司旦が口を挟む。


「朧家は代々幻術を操る家系なんだ」


「つまらんまやかしさ」千伽はすかさず言い返す。「何事も本物には敵わんものだ」


 謙遜というより本当にそう思っているらしかった。俺は何だかそれが意外だったし、単にそれだけではないような裏も感じた。この千伽という男に、天がただのまやかしなどというつまらないものを与えるだろうか?

 司旦が何かを補足しようと半ば口を開くが、千伽は「後でいい」と手で遮る。


「ああ、そういえばお前にはまだ身元を明かしていなかったか?」彼の目が俺を射抜く。気圧されるように頷けば、千伽は低い声で名乗った。


「朧家の当主、千伽だ。門閥貴族八家のひとつ、朧省を治めている。もう知っているだろうが、白狐は同い年の幼馴染だ」


「……」


 無礼を承知で、見れば見るほど、あの白狐さんと釣り合いが取れるとも思えない。この千伽と白狐さんの間に如何なる会話が生まれるのかさっぱり見当もつかなかった。


「一応、六十二年前の例の一件前までは儲君の一人でもあった。まあ、尤も私は皇帝になる気なぞ端からなかったがね」


「何故ですか?」


「白狐がなるべきだと思ったからだ」


 きっぱりとした物言いに、俺は少し呆気にとられた。薄々分かってはいたが、千伽はやはり幼馴染に帝位を譲ろうとしていたのだ。俺にはそれが謎だった。皇帝という、この国の頂点に立つ絶対的な支配者の肩書きは、野心に乏しい白狐さんよりも千伽のような不遜で聡明な人間にこそ相応しいように思えた。


「……まあ、この話に今更意味はないな。帝冠を戴いたのは、私でも白狐でもなく、望家のあいつだ」


「現皇帝をあいつ呼ばわりですか」


「何、あれでいて儲君三人はそう悪い仲ではなかったのさ。ただ道を過ち、三者三様に二度と戻れないところにまで来てしまっただけだ」


 千伽は自嘲気味に、少し間を置くような素振りを見せた。そこに寂しさなどはなかったが、そういった感傷を捨てて前に進まなければならない政情の厳しさも垣間見えた。


「白狐さんに、帝位を譲ろうというのは千伽様の意思ですか? それとも、朧家の意向?」


「白狐様と呼べ、馬鹿者。……両方だ」千伽は翔に目を向ける。「保守の清心派の中でも私は嫌われていたし、誰もが白狐こそ次の皇帝に相応しいと考えていたさ」


 清心派とは、皇国の朝廷に連なる派閥のひとつである。名前の響きの通り、清廉潔白を信念として重んじ、穢れなき政を理想とする。元はインテリ貴族層が腐敗政治に対し、皮肉交じりに自称したのが、長い歴史を経て皇帝と対立する一派となった。粛清事件の前まで、影家はその筆頭だったという。


「確かに白狐様は“清心”を名乗るに相応しい人物ではありますね」


 嫌味ではなく、俺は本心からそう呟く。千伽は浅慮を詰るように鼻を鳴らした。


「勘違いしているようだな。執政を担うものは汚いもんだと相場が決まっているが、だからといって執政に逆らうものが清廉潔白になる訳じゃあない。結局、同じ穴の狢ってやつだ」


「……白狐様は、あまりそういう風には見えませんが」


「どうだか」


 く、く、と喉を痛めたように千伽は笑い、懐から煙管を取り出した。指先に灯った火で火皿を炙れば、緩やかに紫煙が立つ。「さて、状況を整理しよう」と彼は宣う。


「事の発端は六十二年前、儲君三人の政争にイダニ連合国の連中が加担したことに始まる訳だが」


 はい、と。俺と翔の首肯が重なる。その“イダニ連合国の連中”とつい先ほど遭遇したことは、俺は誰にも明かしていない。


「連中が何を目的にしているのか、だいたい予想がついてきたのでな」


「本当ですか?」


「まあ落ち着け」


 彼は話し好きな風を装って、自分の手の内を明かさんとしている。その抜け目なさは、真弓の言う情けない大人というより、手段を選ばない大人と言った方が近かった。彼はまだ、俺を何かに利用しようとしている。それが察せられたので、俺は心の機微を悟られないよう姿勢を正した。


「もう日を跨いだな。今日、日が暮れる頃に白狐の神明裁判が行われる」


「神明裁判?」


「神明ノ儀、とも呼ばれる」千伽は俺の目を見た。「本来ならば数年に一度、或は有事の際に必ず行われる。災害があったとき、飢饉があったとき、皇帝が〈天石〉を拝して天帝に伺いを立てる。それが神明ノ儀、だ」


 つまり、占術の一種である。祭に乗じて立つ胡乱げな穹廬のそれとは違う、政治的な意味合いの強い儀式。人だけでは扱いきれない大きな決断を天に委ねる習慣が、現在の朝廷にも深く根付いている証拠でもある。


「天石というのは……」


「何だ。世捨て人は『天介地書』も読まんのか」


「随分前に読みましたけど」俺は弁明するように口を尖らせる。「天石は、月天子の心臓ですよね。あの、言い伝えによると」


「そういうことになっている」


 千伽は片目を細めて頷く。


「……かつて雰王山の卵から孵った二人の天子は、それぞれが胸に天火の欠片と天石の欠片を宿していた。今この国にある天石は、第二王朝末期に月天子が行方を晦ませた際に置いていったものだ。以来天壇に安置され、祀られるうちに月天子の心臓だと呼ばれるようになった」


「そういうことになっている」俺は千伽の言葉を繰り返す。


 彼の黒く濡れた目は宙に留まり、あたかもそこに天石があるかのように一点を見つめ続けた。その瞳がゆらりと紫色に翳って見えたのは気のせいだろうか。


「心臓というのは比喩だろうが、それに比する機能を持っていたのは確かだ。あれはまだ生きている」


「生きている?」まさか、と喉まで出かける。「石が生きているんですか?」


「さてな。そもそもあれは石かどうかも定かでないし、生き物と表現できるのかも分からない」


「意志がある?」


「石だけに」


「触れるに相応しくない者を殺す力を持っていることは確かだ」下らない口を挟んだ翔を無視し、千伽は続ける。


「白狐の神明裁判とはすなわち、白狐の処刑の場でもある訳だ。天壇で天石を拝し、披瀝に不義あらば死ぬ」


 “真実の口”だ。俺は誰にも聞こえない声で呟く。口に手を入れ、偽りの心あらば手を噛み千切るというローマの彫刻。人には分かり得ない真偽を神に問うのは、やはりどの地域でも変わらない。

 であれば、白狐さんが死ぬことはない。俺と翔は同時にそう考えた。不当な濡れ衣で六十二年もの間世捨て人として暮らしてきたあの人を、天が見放すはずがない。

 天に裁かれるべきは悪評を吹聴して影家を貶めた前皇帝のほうであり、そんな望家を唆した綺羅である。


「──しかし、朝廷ではもう百年余り、神明ノ儀を執り行っていない」


 息を押し出すように、司旦が口を開いた。俺と翔の目が向く。


「神明ノ儀をするのは、何も悪いときばかりじゃない。本来、新皇帝が位を継ぐときも〈天石〉で占いをする。天石を通じ、天に認められて初めて皇帝は自分が月天子の正統な子孫であると、正式に名乗れる訳だ」


「では、六十二年前に当今皇上が皇帝となったとき、神明ノ儀は行わなかったんですね……」


 然り、と千伽が頷いた。


「そうだ。あの皇帝は周囲の反対を押し切って、神明ノ儀をやらなかった」


 何故か? それは想像に容易い。


「皇帝は影家の儲君を貶めたという罪悪感があった。それも天性の白髪を持った天の御子と呼ばれた男を、だ」


「天から見放されることを畏れたんですね」


「もし皇帝の冠を戴いたときに、神から天子たる資格なしと告げられたら大変な騒ぎになる。だから、神明ノ儀を行わなかった。自らの矜持を守るため」


 司旦の口ぶりが憎々しげに歪むが、それも無理はない。現皇帝は彼の主を貶めた仇敵で、そのやり方は司旦が最も嫌いと言っていいほど後汚い。濁だ、と思う。清心に対する濁。古くから揶揄されてきた腐敗の極致。

 それがまかり通る政情であるということが何よりも恐ろしい。

 俺と翔はそれぞれが少なからぬ義憤に駆られた。それは強い摩擦で火が生まれるように、ごく健全な怒りだ。こちらを薄ら嘲笑し、千伽は口角を上げる。彼の言葉が生々しく蘇った。

 執政を担うものは汚いもんだと相場が決まっているが、だからといって執政に逆らうものが清廉潔白になる訳じゃあない。


「相手が人ならば幾らでも買収なり懐柔なり粛清なりできるのだが、天はそうもいくまい。人の信仰心というやつも、一度根付けばなかなか動かせるものじゃない」


「当今皇上もそれを理解していると」


「そうだ。あれからもずっと、皇帝は〈天石〉を使って卜部をすることを避け続けた。恐れていたのだろう。自分が不当な手段で皇帝になったという自覚が薄々あったからこそ、天の意志を過剰に恐れた」


 だからこそ影家の狐は朝廷で裁かれ、処刑されなければならない。

 千伽がかつて俺に語った言葉だ。白狐さんを公で殺して初めて、皇帝は己こそが唯一無二の正当な天子であると証明できる。この茶番劇は、表向きは叛逆者の抹殺だが、皇帝の真の意図は足元を固めるための端的な人気取りだ、と。

 これはパフォーマンスだ。


「よくもそのために、神明ノ儀をする気になったものですね」


「あの皇帝はここ数十年、天文院と揉めていてな。直属の翰林天文院を無理に改革させて、自分の意に従う巫女ばかりを集めている」


「まさか、神明裁判の判決すらも捻じ曲げるつもりだと?」


「……」千伽の沈黙は肯定を示していた。俺の問いに答えを口にすることは、天を汚辱するに等しい行為だと弁えているようで、俺も翔も二の句が継げない。


 壁に染み入るような冷ややかなものが室を満たした。少し間が空いたところに、司旦が小さな声で零す。


「正確に言えば、綺羅に焚き附けられたんだろうな」


「何故?」翔の声が頓狂に裏返った。「綺羅の目的は何なんだ? 当今皇上が天石を前に失権するのを狙っているのか?」


 俺も同じことを考えていた。茶番劇じみた皇帝の思惑が上手くいくはずがない。人が天を欺くことなど許されない。綺羅はそれを分かって皇帝を唆し、前代未聞の大胆なやり方で国家転覆を謀っているのではないか。


「違う」千伽の声はきっぱりとして、確信に満ちていた。彼の瞳が、何かを映して紫色に揺らぐ。その妖艶な魔性に、俺は知らず寒慄した。


「奴らは、天石を奪おうとしている」


 な、と喉に引っ掛かった声がそのまま留まる。千伽の確信に満ちた言葉は、疑念を挟み込む余地がない。彼の声は、天石を奪うという冒瀆行為への静かな戦慄のため、固く強張っていた。

 とはいえ俺も、天石がどれほど重大なものなのかぴんとこない。政治的、宗教的価値はおおよそ推察できるものの、天石そのものについてはまるで知識がないのである。神話や噂話という曖昧なもので覆いを被せられ、実体が隠されている。


「さっきも言った通り、天石は月天子の心臓だと伝えられているが、その真相は定かではない」


 それだけではない、と千伽は続ける。


「天石が如何なるものか、誰にも分からない。私ですらも。この国の誰もが、その名を知り、その神話を信じながら、天石がどのような力を秘めているのか正しく理解していない。あれは歴史を証明する遺物でも、権威を誇示する装飾でもなく、ただの天壇の奥の眠れる国宝だ」


 眠れる。その言い方は、まるで天石に何らかの自我があり、いつか目覚める日を見越しているような響きがあった。分からないと言いながら、千伽は天石の正体を見極めようと憶測を重ねてきたのだろう。

 確かに千伽の言う通り、天石は無意識に畏れられ、語ることすら憚られるような代物だ。その結果人々の記憶に上ることが少なく、信仰の拠り所と呼ぶには今ひとつ実感の湧かない秘宝となっている。地味、といえば語弊があるが、重要な意味を持つほど目立っていないのは確かだ。


「でもきっと、イダニ連合国の連中は天石が何なのか知っている。少なくとも、こちらよりはずっとその重要性を理解している。だから奪おうとしているんですよね」


 司旦は言う。それがまずいのだ、と芯の通った声が深刻さを伝える。恐らく連中は天石に具体的な利用価値を見出した。

 ──利用? と自分に問う。“神”は俺たちが正しく認識できるものじゃないし、ましてや都合よく利用できるものでもない。この世界に来たばかりの頃、翔は俺をそうやって窘めた。

 あのときは漠然と、俺の軽率さが翔の信仰を踏み躙り、気分を害したのだと思っていた。しかし今なら違うとはっきり言える。

 翔は神や霊といった自然界の理不尽な存在をよく熟知している。一年以上の時を長遐の山岳で過ごし、俺は人間の力だけではどうにもならない超自然が存在すること、だからといって人間の無力を嘆く必要がないことを知った。

 自然を超越したものどもを自らの益にしようと企む連中を見ると、かつての己を見ているような既視感を覚える。同時に、世捨て人の日常にあった古くからの自然への信仰がこの国、引いては世界全体において恒常でないことも実感する。

 千伽は手にしたままの煙管をゆるりと傾け、その煙の行く先を目でなぞった。


「奴らは待っていたんだ。神明裁判に立ち会えるのは、それなりの身分──すなわち、八家の貴族の当主のみ。だからわざわざ白狐を貶めるような真似をして、まんまと影家の座を奪い、六十二年かけて周囲から信頼を買った」


「天石は、普段はどのように保管されているんですか?」


「天壇に、門閥貴族の先祖代々の霊を祀る大廟がある。綺羅はこれまで何度も近づこうとしていたが、あそこは常に厳重に守られているから中に入ることは出来なかった。そも、天壇自体が冬至節など、朝廷における重要な儀礼をおこなう聖所。一応肩書の上では影家の当主になった綺羅も、正統な血統でないという理由から国家儀礼には長らく参列を許されなかった」


 そうか……と翔が一人で呟いている。その重みを噛み締めるように、表情は僅かに翳っているように見えた。「六十二年っていうのは、そういうことか」と。


「白狐様の命を奪うことが目的なら、すぐに殺してしまえば良かった。こんなにも年月を掛けたのは、朝廷の年中行事や催事に参列を許されるほど周囲との信頼を築くためだった、ってこと」


「じゃあ白狐様は、奴らにとっては神明ノ儀を執行させるための呼び水に過ぎないということか?」


「さあね」司旦は肩を竦める。「そこまでは分からない」


 白狐を殺すつもりはない。綺羅は確かにそう言った。彼にとっての白狐さんの有用性とは、天石を表舞台に出すという価値だけだろうか。


「──相も変わらず」自分の声を耳にして初めて、思考が口から漏れ出していたことに気付く。


「相も変わらず、イダニ連合国は人間を道具のように利用しますね」


 まるで昔から彼らのことを知っているような口ぶりで話してしまったが、千伽たちはさして気にしなかったらしい。

 俺の脳裏に過ったのは、翔を拷問にかけた上足蹴にしたコウキのことで、救世を説くあの男が裏では非道な行為をしていることはやはり矛盾と言わざるを得ない。とはいえ、本人たちもそれをよく理解しているはずだ。理解した上で信念を貫くのは、それだけ彼らが長い年月を費やし、あるべき感情を置き去りにしてしまったからなのだろうか。

 綺羅の薄っぺらで虚しい無表情も、固い殻に閉じこもったようなコウキの頑なさも、生身の人間にはない病的な逸脱を感じさせる。コウキに関しては、あの男をそこまで追い詰めた原因の一端は俺にもあるのかもしれないが。


「私は前皇帝のやり方を否定しない」




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