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明後日の空模様 朝廷編  作者: こく
第十三話 深夜
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 朧家の庭園のひとつに、竹林があるという。

 司旦の地図は正門を通らず、裏手から大きく竹林まで遠回りした道筋を示していた。警備の手が薄いのだろう。庭園の途方もない広さに驚き呆れながら、俺は素朴な竹垣に区切られた小さな門までようやく辿り着いた。そのときには、あの別れ際に綺羅が見せた不気味な表情を幾分忘れることができた。

 裏門と呼ばれる入り口は幾つかあるようで、司旦の地図はここを通るように記している。確かに、見張りらしき気配はなく、辺りはしんと静まり返っていた。恐る恐る、門に嵌められた木戸に手を掛ける。

 軽く軋みながら開いた戸は軽く、ひらひらこちらを誘っている。素早く体を滑り込ませて門を閉じる俺の影を、雲間から覗いた月が照らしていた。


「──」


 そよ風が頬を撫でる。竹葉の囁きが、水のように密やかに流れる。門の中は、見上げるほど高い竹林が延々と広がっていた。

 夜の暗がりに紛れ、その全貌は窺えない。冷ややかなほどの風通しと、仄かに差し込む月光だけが、その広大さを教える。真っすぐと天に向かって伸びた竹、竹、竹の林──静けさが鼓膜に染み入るようだ。

 小路の土を踏む音が、じゃり、じゃり、と響く。月明かりを浴びた竹は、水墨で描かれたようだった。どこからか、微かに清流が奔る水音が聞こえる。しゃらしゃらと、葉が揺れる。

 ごく自然に茂ったような竹林も、その実人工的な意図が少なからずある。小路を横切る細い水流と、飾り気のない木の橋。濡れた落ち葉。その先に、暗闇に沈むようにして建てられた小さな亭──どれも風景にしっとり馴染み、調和している。

 亭とは伝統的な庭園に設けられる東屋のことだが、そこで休んで景観を楽しむというより、亭そのものが庭の一部として配されることが好まれる。竹林に囲まれた亭はひっそりと平たく、壁のない、柱と欄干と屋根だけの簡素な造りだった。


 俺は周囲を窺い、足音を忍ばせて亭に近付く。彩色は乏しい。形は五角形で、瓦で葺かれた攢尖頂の屋根は装飾された笠を思わせる。軒から釣り下がる房のような提灯には明かりがない。どことなく鄙びた印象があるが、それは意図的な趣向であるように思われた。

 石造りの階段を上がり、俺は欄干に手を触れた。木肌はひやりと冷たく、長らく人が立ち入らなかった場所らしいと分かる。地図を広げた俺は、そこが司旦の記した標の到着地点と一致していることを確かめ、懐に仕舞った。

 竹の葉越しに月を透かし、息を吐く。翔たちはまだ来ていないのだろう。或いは、俺が遅すぎたのかもしれない。ぐるりと外を見回したあと、俺はふと柱の一本に何やら文字が書かれていることに気付く。


「……」


 近付いてみれば、随分前に筆で書かれた詩句らしい。墨はすっかり掠れているが、それでも筆致の技巧が窺えた。巧い、というのは字の形が整っているというより、情緒を良く表現している、といった方が近い。秋風に落ちる葉と菊の花の名残を謳った七言の詩は、心に染み入るように寂しかった。

 書聖か、と呟く。以前千伽が字を書いた扇が鬼市子で騒動を起こしたことを思い出す。彼の書の才は世間も知るところであるが、俺はどちらかといえば、ふと思うままその場で詠んだと思われる詩の感性に気取られた。派手さはなく、慎ましやかで、あの千伽の印象とは随分違う──。


「ムカつくよね」


 突然背後の近いところから声が響いたので、俺は飛び上がった。半ば転がるようにして振り返るが、そこには誰もいない。現実では有り得ないほど気配がない。ただ存外敵意のないその口調から、「司旦か?」と震え声で問う。


「そうだよ」途端に、司旦が目の前から現れたので、声も出せず後ろに仰け反った。ごく当然のように、何もないところから暗幕を捲るようにして現れたのである。


「驚くな。千伽様に幻術を掛けてもらった。姿を消す、簡単な幻術だよ」


「姿を、消す?」


「子どもの悪戯みたいなもんだ」それよりも、と司旦は面倒くさそうに自身の笠の端を少し上げる。「随分遅かったじゃないか。たくあんくんが心配してたよ」


「翔もいるのか?」ちらりと肩越しを窺う。司旦は答えない。


 目線を左右に動かしたとき、背後から着物の裾を引っ張られた。驚いて身体を捻ると視界の端から相棒が景色を切るようにして現れたので、俺は動揺しきりである。全く何もないところから、人間が突然飛び出てきたのだ。


「すごいなぁ」翔は自分の手や腕を見て、暢気な声を出した。「本当に見えなくなるんだな。変なの」


 その様子は目新しいものを目にした子どもそのもので、ああいつもの翔だなと俺は懐かしさすら覚える。一方で、如何なる状況でも大概は楽しもうとする翔の気質は、司旦の目には鬱陶しく映るようだった。


「たくあんくん、夜目が効かないって言うから留守番させたかったんだけどな」


 それでも肩を竦める司旦は、翔を疎ましく思いながらそれを大っぴらには表に出さない年齢の余裕を感じさせた。翔は亭の中を興味深そうに歩き回っている。


「司旦だけだったら皓輝が警戒するかもしれないから、俺もついてきたんだ」


「なるほど」


 俺はとりあえず頷き、柱に書かれた詩句を見上げた。「ムカつくっていうのは?」


「そのままの意味」


 司旦は近寄り難いものを前にしたように、柱を見た後、顔を顰めている。冷たい風が吹き抜ける。きいきい、波打つように竹が撓った。


「千伽様が書いたんだよな?」


「そう」


 口籠り、司旦は黙る。翔は詩句をじっと見つめ、その見事な筆跡に釘付けになっていた。「書聖か」と呟く声が聞こえる。翔もまた俺と同じことを思ったのかもしれなかった。

 沈黙があった。薄暗く、湿った静けさが満ちる。かなり長いこと口を噤んだ司旦は、ずっと言い出せなかったことを打ち明けるように零す。


「千伽様が皇帝になるべきだ、という人も少しいたんだ」


「……」


 俺と翔は顔を見合わせるが、何も言えない。それは裏を返せば、白狐さんが皇帝に相応しくないという意でもある。司旦は再度、詩句を目でなぞって眉を下げた。


「才能があるっていうのは、ずるいな」


 絞り出した司旦の言葉は、彼の人生の重責そのもののように辛く、誰も受け止めようがない。翔が小さな声で「行こうよ」と促す。暗闇の中に長く留まりたくない、とその目が言っていた。


「この幻術ってずっと効果がある訳じゃないんだろ」


「そうだね」司旦は俺と翔に目線を移し、自身の掌を見せる。


「いいか、朧家の主は千伽様だけど、だからといってここが安全という訳じゃない。間者の一人、二人いてもおかしくはないし、俺たちがここにいることが公になることはまずい」


 だから、姿を消したまま別邸まで移動するぞ。司旦の顔がすこぶる真剣なので、俺は言われるまま頷く。千伽の幻術がどういったものなのか、見当もつかない。


「えーと、俺はどうすればいいんだ?」


「たくあんくんと手でも繋いでいけばいい。千伽様の術は、“こうだ”と念じる気持ちによって効力が現れる。“自分は誰にも見えない”と信じて、絶対に疑うな。疑問は術を弱くする」


 司旦の説明は、字面ばかりは簡単なことだったが、実際にはとても困難なことのように思われた。仕組みのよく分からないものを頭から信じるというのは、俺にとってはなかなかすぐ出来るものではない。


「いいか。この幻術っていうのは、心に作用するものなんだよ」


「はあ」こちらを指さす司旦は、端から俺が疑心暗鬼であることを見透かしたように淀みなく言葉を並べる。


「“見えない”と思ったらそれは見えなくなる。道端ですれ違った人の顔をよく思い出せないのと同じように、実際には存在しているのに、情報が頭を通り抜けてしまう。姿を消す幻術は、気付かれないほど小さな隙間を相手の心に開ける力だ。そしてその精度は、俺たちが如何に上手く操るか、という精神面にかかっている」


「わ、分かったような分からないような」俺は咳払いし、首を上下に振る。「とりあえず、俺は翔から離れなければいいんだな」


「変な音や声は立てるなよ。誰かいるのか? なんて相手に疑われたらおしまいだ」


 疑問は、術を弱くする。司旦は再度同じ構文を繰り返し、息をついた。「じゃあ行こうか」と。




 ***




 朧家の庭園は広い。外塀を回ったときからおおよそ分かっていたことだが、中に入ればその途方もない規模に圧倒される。竹林を抜け、眼下に広がったのは山水画に描かれるような、月明かりを浴びた園林だった。

 古くから貴族の庭の美学とは、築山があり、川があり、池があり、丘があり、あたかも地上ないし仙界の縮図であるかのような景観を理想とする。朧家もまた広大な土地を庭園に割いては各場所ごとに四季折々の意匠を凝らしているという。

 なるほど確かに多種多様な木や花が植えられていると感心する一方、そのどれもがさしたる手入れの痕跡もなく、思うまま伸びるに任せているのが印象深い。何と言うか、思ったよりも野性的だ。

 先を行く司旦は慣れているとばかりに迷わず径を駆けていく。昼間に咲き残り、夜露に濡れた菖蒲の花の青さや、水際で白く光る水芭蕉など月夜に映る花々を追いながら、俺と翔と司旦は緩く弧を描く橋を渡り、千伽が待つという朧家の別邸を目指した。


 途中、二人ほど不寝番をやり過ごした。他人の気配がする度に司旦は立ち止まっては唇に指を当て、その場に伏せて息を止める。万一見つかればどうなるのか、しゃがんで周囲を窺う俺の鼓動は痛いほど速い。

 姿が見えなくなるという例の幻術は、初めこそ何の実感も湧かなかった。俺の目から見れば司旦も翔もそこにいるし、何なら翔は俺の手を強く握っている。どう見ても、三人が平然と姿を晒し、足音を忍ばせて庭園を横断しているに過ぎない。


 ただ一度、篝火の傍にいた庭の不寝番のすぐ横を通ったとき、俺はその効力を認めた。影が映らないよう気を付けながら、岩陰に沿うようにそろりと進む。背中越しに振り返れば、不寝番の男は息遣いが聞こえるほどすぐ傍にいるのに、まるでこちらに気付く素振りも見せない。

 まるで自分が透明人間になったかのように錯覚し、つい一瞬脚を止めてしまったのを翔に手を引かれ、俺たちは素早くその場から離れた。不寝番はちらりともこちらを見なかった。

 朧家の別邸は、もうすぐそこだ。


「……着いた」


 翔が口の動きで教える。別邸は、東西の棟が分かれ、そこに住むというより、道楽のためにやってきて鳥の声を聴くような構造だった。

 俺たちは庭園に面した回廊から上がり、別棟まで続く柱列を抜ける。白亜の壁は夜闇に浮かび、造りは重厚な印象があった。


「先代が建てたんだ」


 司旦の案内は、明かりのない空間に溶けて消える。屋内は畳が張られ、手前で履物を脱ぐように言われた。脱いだものを懐に仕舞い、足を踏み入れた途端、幽かな虹色の光沢に目を奪われる。

 玄関口の一間は、木造の壁も柱も天井も艶な漆塗り。黒色の上に散りばめられた無数の夜光貝が、四季の花鳥風月を描いている。小さな、神秘的な銀河を秘めているかのような──粋を凝らした職人技に俺はしばし言葉を失った。

 廊下の左右に続く襖は箔が延べられ、雄大な松の木などが描かれている。どこを見ても息継ぎの猶予のない、壮麗で、しかし少しも下品には見えない細かな装飾で埋め尽くされていた。


「……すごいな」


「都にいれば、こういうのは珍しくない」


 司旦は肩を竦める。その響きは金持ちの道楽に辟易とした向きがあり、俺は何とも言えない相槌で濁した。確かに呆れるほど手間と金を掛けているが、悪趣味な放蕩と一蹴するには惜しい代物だ。

 その印象は、奥の間で待っていた千伽を見て確信に変わる。主が寛ぐように調度品を配された室内は、壁一面が豪奢な黒漆螺鈿。星が散った夜の世界に無数の鶴が舞う。一枚一枚精巧に表現されたその羽毛に、黄金梅花の燭がゆらゆら火色を添える。

 かなり派手ではあるが、その中央で脇息に寄り掛かる千伽の存在感にぴたりと嵌り、なるほど相応しいと思えた。彼のような男にこそ相応しい、と。


「千伽様、連れてきました」


「……」


 司旦に連れられるまま、俺は襖の手前で脚を止める。目蓋を持ち上げた、千伽と目が合った。どきりと心臓が跳ねる。あの焼け跡の世捨て人の家で出会ったときのことを思い出した。畏怖、というのが近かった。

 千伽は何も言わない。彼の着物は黒絹で、煌めく綾糸で文様が縫い取られ、それが畳の上に無造作に広がる様はさながら艶めいた蝶翅だった。剥き出しになった額にすっと墨で引いたような眉が凛々しく、顔立ちはやはり人間離れして美しい。若々しさよりも一歩、二歩前進したような年齢の見目で、どこにも隙が無い。

 優美な印象とは裏腹に、千伽の持つ威圧感は容赦なく相手を屈服させんとする。それが無意識に放っているものなのかそうじゃないのか判断がつかないだけに、俺はこの男を恐ろしく思う。


「──生きていたか」微かに、千伽の口元が笑った。俺はそのことに苛立ちを覚えた。一体誰のせいでここまで散々苦労して死に掛けたと思っている。


 喧嘩腰の挨拶を口に仕掛けるが、司旦が目配せでやめろと訴える。確かに、今ここで千伽に真っ向から仕掛けるのは賢いことではないと分かってはいる。

 分かってはいるのだが、それ以上挑発されては罵詈雑言のひとつも浴びせてやりたくもなる。俺は黒々と濡れた千伽の目の奥に、揶揄するような揺らぎを見た。


「そう怖い顔をするな」


「……」


 俺は口を結び、じっと千伽の顔を凝視する。「俺には、怒る権利がありますよね」


「お前が? 私に?」


 笑った、と思う。喜怒哀楽の感情を超越したような、人を委縮させる魔性の笑い。瞬きをすれば、千伽は俺の正面に立っていた。


「調子に乗るなよ、餓鬼」


 目前に立ちはだかった千伽は、物理的な背の高さ以上に体感的な大きさがある。それはまるで壁のように堅牢で、決して俺などが頭脳で叶う相手ではないとすぐに理解できた。

 喉が上下に震える。殴られる、と直感した。いっそこちらから殴ってやろうか、とも思った。あのとき俺をそうしたように、後先考えずこの男をぶん殴ってやりたかった。袖の下で握った拳を、翔が心配そうな顔で見ているのが分かる。




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