Ⅴ
俺はひどく後悔した。今日ほど万有引力を恨んだ日はないだろう。
目の前に散乱する惨状。やってしまった、と心臓が引き絞られるような心地は、そう長くは続かない。外から叫び声のようなものが響く。「何の音だ」と口々に騒ぐ七星たちの怒声が。
強く腕を引かれる。翔だ。逃げるぞ、と大きいのか小さいのか最早よく分からない声音をぶつける。俺は萎えて動かない脚をどうにか叱咤し、立ち上がらんとする。力を入れようとして初めて、自身の身体が震えていることに気づいた。
「逃げるって、ど、どこへ」
「どこか遠くへ」
そんな漠然とした意識で、七星たちを振り切れるとは到底思えなかった。相手は秘密裏の任務をこなす隠密隊である。暗中の追跡など、むしろ彼らの本領なのではないか。
といっても、恐怖に竦んだ本能はここでへたり込んでいることをよしとしなかった。高まる殺気。勢いのまま、俺たちは仔犬がもつれるようにして回廊を駆けた。既に居場所がばれてしまっているのだから、足音を消す必要はないと思った。
暗闇に、呼吸すら阻まれる。
俺は内心で、世捨て人の主が助け舟を出してくれることに期待していた。もし彼が朝廷の高貴な身分の人なら、七星を引き留めることくらい出来たはずだ。しかし想いは虚しく、追手の勢いが留まる気配は一切ない。
俺はその事実に動揺した。何故、白狐さんが俺たちを見捨てるような真似をしたのかと。
泡を食うようにして、競って裏口へと走る。自室へ寄って武器でも取りに行きたかったが、そんな暇もない。丸腰で、裸足で、自分たちの命ただひとつを守ることだけに必死だった。
明かりのない閑散とした居間を横切ろうとした途端、不吉な音が壁越しに伝わる。ああ、と翔が茫然と漏らす。走る速度を緩めたつもりはない。ただ、次の瞬間起こった出来事は否応なしに俺たちの足を止めた。
バリバリ、と。──初めはそれが何の音か分からなかった。家全体が揺れているような、まるで巨大な獣が屋根の辺りに噛み付いているような、そんな不穏。ぞくりと嫌な悪寒が背筋に這い寄る。
直後、外壁と柱が凄まじい悲鳴を上げ、縁側に面した雨戸が粉微塵に破れ去った。木床に破片が飛び散る。
突風が頬を打った。風のスコノスだろう。
背中が痛い。半ば腰を抜かしていたようで、俺は風に巻き上げられた居間の調度品とともに壁際でがくがく膝を笑わせていた。
大きな風穴を空けられた雨戸の向こう、人影が見える。七星の一人だった。
旋風が駆けた。刹那、翔が呻く。瞬きする間もなく、男は翔を床に押し倒していた。さすがは暗殺者の手腕といったところか。いや、感心している場合ではない。
振り翳される男の手刀。翔の反応は素早い。電光石火で男の鳩尾に拳を叩き込み、怯ませる。そして片手で合図し、自身のスコノスを呼びつけた。
宣戦布告。スコノスという精霊を宿すネクロ・エグロにとって、自身のスコノスを召喚することは武器を取り出すよりももっと真剣な殺意を意味する。全てのスコノスが戦いに適した形をしている訳ではない。しかし翔のスコノスは──見ての通りである。
「雨戸は横に引いて開けるものだろうが!!」
殺気立った怒鳴り声とともに七星が弾かれ、翔は飛び起きる。構える両者。宙を揺らめく、痩せ細った女の陽炎。世界でも稀に見る、人の形をしたスコノス。翔の人生を文字通り破滅へと追いやるほど強力な力を持った彼女は、滅多に姿を現さない。躊躇なく相手を殺すという覚悟がない限り、制御不能で見境なく相手を破壊する彼女を呼ぶのは翔自身の自殺行為にもなり得るからだ。
不可視の風の刃が煌めく。彼らの眼中に俺はいない。
俺はすっかり気が動転していた。相棒の勘を信じると言ったとはいえ、これほどまでに直球の殺意を剥き出しにされるとは。命を狙われる心当たりはなかった。
何故彼らは俺たちを殺そうとするのか。何かの口封じのつもりなのか。理由を話すでもなく、襲撃を仕掛けてきた七星は賊と差異がない。ただただ身体が言うことを聞かず、恐怖と衝動だけが俺の心臓を突き動かしていた。
「──……」
天井や壁を削って繰り広げられる死闘。世捨て人たちの団欒の間はあっという間に踏み荒らされ、今や風のスコノスと殺気の渦巻く戦場と化していた。横凪にされ、砕けた長椅子も、いつも和気藹々と食事をとっていた食卓も、思い出も何もかも壊されていく様子を、ただ唖然と眺める他ない。
風が激しくぶつかり、軋むような音を散らす。恐らく、この状況で一番傷ついているのが翔であることは想像に難くない。二十年間、この家に最も愛着を持っていたのは翔だった。激しく振るわれる拳に、その乱暴な怒りに任せた一閃に、翔の心の悲鳴が聞こえるようだった。
目に見えない風の衝撃波が頭上を掠める。たちまち俺の背後の壁は崩れ、飾り物の水墨画が幾つも無残に千切れた。ついでに、俺の髪も。
このままでは家が潰れる。そう悟った途端、怒声じみた翔の叫びに飛び上がる。
「逃げろ皓輝!!」
「……あ」
上手く言葉が出ない。翔の顔面に降りかかる七星の手刀が、空を切る。身を翻し、翔は相手の男を蹴り飛ばした。「ここはいいから!」
翔が泣いている。激昂か、或は興奮か。その目尻から溢れる涙の筋を拭いもせず、髪を振り乱し、相棒は俺に向かって邪魔だと言った。
再び、家が揺れる。今度は土台そのものが軋んでいるかのようだ。何事かと思う間もなく、腹の底に響く衝撃が走った。俺の身体は弾かれたように飛ばされ、床に転がる。
肋骨の辺りが酷く軋んだ。息が出来ない。埃とも土煙ともつかぬ澱んだ空気がもうもうと立ち込め、咳き込む。何かが爆発したらしい。恐らく、他のスコノスの力で。
床に倒れている俺を、誰かが力強く引っ張り上げた。翔、と俺は途切れ途切れに呼ぶ。二の腕の辺りを痛いほど掴まれ、間近で見る相棒に戦慄した。粉塵を浴び、爛々と燃える碧眼に。
俺たちが見つめあったのは僅か数秒だっただろう。相棒はしゃくりあげるように泣きながら、意外にもしっかり正気を保った声で言った。
「生きてまた会おう」
ほんの刹那、時が止まったようだった。音はなく、翔の力強い言葉だけが残響する。ああ、と俺は頷いていた。いや、頷くほかなかった。手が離れた直後、俺は突き飛ばされる。「逃げろ!」と相棒の叫びが背中に遠ざかった。
息が止まっていた。喉が絞まり、悲鳴も出ない。俺にできるのは、ただ翔を信じることだけだった。信じているよ、と俺は心の中で繰り返した。それはとても無力で惨めな行為に違いなかった。
厨房に飛び込み、裏口を目指す。家中で黒煙が燻り、蔓延していた。木材が焼け焦げる嫌な匂いがする。思わず鼻を塞いだ。きっとこの煙を吸えば中毒死するだろうとすぐに悟る。
──先程の爆発で、引火した。
残してきた翔もこの異変に気づいただろうか。俺は後ろ髪引かれた。しかし振り返る間もなく、今度は己の置かれている窮地に愕然とする。
裏口が開かない。押しても引いてもびくともしない。まるで扉そのものが凍り付いてしまったかのように、どんなに力を込めても、僅かな隙間さえできない。
いよいよパニックになる。涙で歪む視界の端に、陽炎にも似た熱気がちらちら揺らめき始める。顔面が熱い。七星に放たれた炎が次々と燃え移り、あっという間に厨房を煙と火で取り囲む。
俺は形振り構わず、裏口の木の扉に体当たりをかました。それ以外に開ける方法が思いつかなかった。何度も何度も身体をぶつけさせ、その跳ね返る固さに焦燥感が募る。何故こんなにも固く閉ざされているのか。
違う、これ引き戸だ。
気づいたときには理性よりもその他の動物的衝動の方が上回っていた。ただ扉を引けばよかったものを、痺れを切らした俺は絶叫する。取り囲んでいた炎を一瞬で消し飛ばし、目の前の哀れな扉をも木っ端微塵に破壊してしまった。
音の霊の力を、こんなにも簡単に呼び出せたのは初めてだった。ただ反動で尻餅をついた俺は、なかなか立ち上がれない。破片が当たったのか頬が痛い。早く、早く逃げなくては。俺の咆哮を聞きつけた七星が、こちらへ向かってくる足音がする。俺は無理矢理立ち上がるようにして、自身の身体を引き摺り、よろめきながら駆け出した。
眩暈がする。一酸化炭素中毒になっているのか、はたまた霊力を使ったせいか、定かでない。ぐにゃりと地面が柔らかく歪み、足がめり込む。
真正面から転んでも、そこで立ち止まる訳にはいかなかった。土と煤で汚れ、部屋着は真っ黒だ。気力を振り絞り、地面を蹴る。俺の頬は濡れていた。
裏口に直結する東屋にも火の手は回っている。炎に食い散らかされ、焼けた梁が落ちてきた。首を窄めて駆け抜けるほかなく、まるで生きた心地がしない。がらがらと崩れる木材の震動すら火という怪物に呑み込まれていく。
外はいつしか小雨が降っていた。
俺は、一度背後を振り返ってみた。そして予想を上回る悲惨な光景に、声を失う。
赤々と燃え上がる炎が、空を焦がしていた。灰色の煙が昇ってゆく。火の手は家中のあらゆる場所に燃え広がり、煤を吐き出し、最早手の施しようがないほどだった。壁から、窓から踊り狂う炎の片鱗が見え隠れする。鼻先を焦がす不快な匂い。ただただ立ち尽くすほかない。
「……」
たった一年。されど一年。世話になり、暮らしてきた家だった。我が家と思ったことはなかったが、世捨て人たちとの日々は家族のようなぬくもりがあった。──まさか、こんな形で終わることになろうとは。
くねる火が嘲り笑っているようだった。所詮、お前はこれしきの存在なのだと。
誰かの声が近付く。翔ではない。ましてや、白狐さんの声でもなかった。この無力な俺に、何ができたというのか。俺はただ唇を噛み、踵を返す。そして絶え間なく降りしきる雨粒を浴びながら、悪霊渦巻く夜の苔森へと消えていった。
その後ろには、炎々と燃え盛る火霊が木造の家を呑み込み、崩れ落ちていく惨状があるだけだった。
世捨て人の日々は終わる。こんなにも呆気なく、突然に。
***
長年暮らしてきた家に火が放たれるのを、白狐は黙って見ていた。古びているし、木造の家屋だからよく燃えることだろう。
真っ赤な炎が噴き上がり、空まで焼け落とさんばかりに炎上する光景は、あまりの悲惨さに現実味を欠いている。何だか白狐には他人事のように思えた。火を放った張本人である七星が後ろにいるのも、不快を通り越して不思議な気分だった。
四名いた七星は、半数にまで減っている。いなくなった二人は逃げた鼠を追ったらしい。わざわざ、皇帝の手足が追うほどのものでもないだろうに。残された両名の七星と白狐は揃って並び、何をするでもなく火事の惨状に照らされていた。
「あの餓鬼を、助けに行かないんですか」首は眩しさに目を細めながら、さしたる興味もなさそうに訊く。挑発によって白狐の隙を探り当てようとしている。目の前でスコノスを使って玄関に火を放ったのも、ただ動揺を誘っただけなのだろう。彼の良心は、七星として仄暗い任務をこなす内に麻痺してしまったのだろうか。
「賢明なご判断です」
何も答えない白狐をどう捉えたのか、首は小馬鹿にした風に笑う。白狐は沈黙を貫いた。
ここで七星に歯向かえば、餌を与えることになる。皇帝に弓引いたという、彼らにとっての格好の餌を。
「子どもを二人見殺しにするとは、さすが影家の狐は賢いと噂されるだけのことはありますね」
安い挑発に乗るのは賢明ではなかった。世捨て人の主──いや、影家の狐はただ口を閉ざす。その無反応が気に食わなかった訳でもないだろうが、七星の首は僅かに屈んで白狐にしか聞こえない言葉を囁き、踵を返した。
「その背に刃があることをお忘れなく」と。
「逃げた鼠は仲間に追いかけさせます。じきに戻るんで、その間に馬の支度を」
脅迫としか取れない言葉が、耳の奥に残響している。白狐は己の無力が歯痒かった。しかし道中、不敬罪をこじつけて首を斬られるのは御免である。
白狐は自分の首に、自分の命以上の価値があることを知っていた。そして、七星たちが虎視眈々と付け入る隙を探していることも。彼らは決して、影家の狐を好意的に考えてはいない。
ただ、白狐の目を引く若者がいる。他の三人に対し、先程から微動だにしない一名の七星。真っ赤な襟巻を首に、暗殺者らしからぬ奇抜な色の着物を纏うこの若者。
火事で炎上する家にも関心がなさそうに、ただ表情もなく俯いている彼へ、白狐は無声音で呼びかける。
「──司旦」
後ろから手首を掴んでも、返事はなかった。目線も寄越さず、瞼をぴくりともさせない。白狐はそれで構わなかった。彼が背に負っているものの重さを思えば、むしろよくここまで来てくれたものだと感心するほどだった。
ただひとつ、伝えなければならないことがあったのだ。白狐は音もなく、司旦の耳元にそっと口を寄せる。奴隷生まれの印がついた、その耳に。
「……あなたの背に、蝶の翅が見えます」
「──」
ほんの束の間、司旦が息を止めた気配があった。だらりと垂れたままの手が、一瞬だけ力を帯びる。握られた拳はすぐに解かれたが、白狐はそれを見逃さなかった。
しっとりと濡れた樹陰の向こうから、首が戻ってくる。数頭の馬と御付きの少年を引き連れて。白狐は目線を逸らさず、気づかれないように司旦の手首を離した。
司旦は、真っ直ぐ馬へと歩き出す。相変わらず、何も言わない。振り返りもせず、しかしその背が何を語っているのか白狐には何となく分かるのだった。
「……都に、行かなければ」
蚊の鳴くように、声を出す。不名誉でも構わない。何としても生まれ故郷たる清虚の都へと帰らねば。自分には、清算しなければならない過去がある。
そのために、これは仕方のない犠牲だったと思える日がいつかくるのだろうか。