Ⅳ
「お前、私たちの側に来ないか?」
「は?」
「そう悪い話ではないはずだ」俺が何か言いかけたのを手で遮り、綺羅はゆっくりと説明する。
「私たちは白狐を殺すつもりはないし、そもそも皓輝、お前は妹を探すために生きているのではなかったか? 私たちとともに来れば、光の居所に連れて行ってやることも出来る。お前がこの国に執心する理由などないはずだ」
「……」
まあ確かに、と。すとんと腑に落ちる。白狐さんを殺さない、という綺羅の言い分がどれだけ信用に値するのかはさておき、いつまでもこの皇国に留まる必要はない。そう認めざるを得ない状態であることは確かだ。
コウキの方といえば全く不本意そうに唇を尖らせ、この提案が綺羅の独断であることを悟る。
「それは、お前たちの方に何か利があるとは思えないんだが、俺に手を貸す理由は何だ?」
「利はある。孑宸皇国を裏で牛耳る千伽になど渡して使い捨てにされては困るのでな。白狐と同様に、お前には生きていてもらわなければ」
「……」
生きていてもらわなければ。その言葉に、まだ、という枕詞が聞こえたのは疑心暗鬼のし過ぎだろうか。意味深だな、と呟けば、綺羅は微笑みを浮かべただけだった。
この男を信じる材料は皆無で、それこそ綺羅への信頼は千伽のそれとほとんど等しい。綺羅の側には恐らく光がいて、千伽の側には白狐さんと翔がいる。ただそれだけの違いに過ぎない。
心が揺らいだ、というより、どちらに転んでもおおよそ五分五分なのだという諦めのような境地になる。綺羅や千伽はこの先も正しい意味で味方にはなり得ないという確信があるし、何なら彼らを利用してやるくらいの強かさがあってもいいのかもしれない。
「──あー、そういえば」俺はひとつ思い出して、咳払いをする。「コウキ。次に会うとき俺の首をやると言ったな。光と引き換えに。その辺りはどうなんだ?」
所在なく佇んでいたコウキに目を向ければ、隣の綺羅はやれやれ、と前髪を掴む。
「阿呆が。勝手にそんな取り決めをするな。死なれては私が困る」
「……残念ながら、今はまだそのときではない」
コウキは綺羅の声など聞こえていないかのようにため息をついた。俺は思わず挑発的に口角を上げる。
「そんなことを言って、いつまでも殺さないつもりなんじゃないか」一歩近づき、真っ向から目を見据える。「お前に、俺を殺すほどの度胸があるのか?」
「調子に乗るなよ、クソスコノス」
いきなり胸倉を掴まれる。上体が半ば持ち上げられるような強い力。息がかかるような距離でコウキに睨まれた。怖くはない。が、一応、黙る程度の節度はある。
「まあ待て。そうカリカリするな」
綺羅は俺とコウキの肩を押し留め、面倒くさそうに仲裁した。そうして俺を見上げた綺羅の両目は、何かを言い含めるようで、丸きり騙そうというつもりはなさそうだった。
「うちの救世主が勝手に決めた約束など、今は忘れろ。勝手にお前の首を取られてはこちらが困る。お前の身の安全は保障するから、こちらにつくといい。何なら光は返してやる。元々神隠しに巻き込まれたのも、イダニ連合国に流れ着いたのも不慮の事故だ」
ではどうするべきか。俺は千伽と綺羅から手に入りそうな情報とその信用を天秤にかけた。逡巡を悟られないように目線を下向け、「もし、俺がお前らの方につくなら──」口を開きかける。
そのときだった。
空が軽くひび割れた、ように思えた。さっと顔を上げる。黒々と広がる夜空に、一閃、紫色に光ったものがあった。少し遅れて、低い遠鳴りが聞こえる。
「……雨も降っていないのに」
「雷乃発声」
「何か言ったか?」
「いや、何でもない。もう五月だ」
俺は首を振り、綺羅の胡乱な目を躱す。
豊隆だ──とすぐに分かった。直感だった。どこかで俺を見ているであろう、雷を司る神鳥を探そうかと思ったが、やめる。代わりに俺はゆっくりと綺羅に向き直った。
「悪いが、その話は断らせてもらう」
「何か不都合なことが?」
「どっちについても不都合なことは起こるだろうがな」俺は苦々しく笑う。これでいいんだろ、と心の中で豊隆に話しかけた。「翔が待っているから、早く行かなきゃ」
そう言って朧家の方を気にする素振りは、芝居がかって見えなかっただろうか。まあいいか、と思う。彼らに豊隆と俺との繋がりを気取られなければ、何でもいい。
コウキがいる手前残念な話だが、早くこの場を離れなければならなかった。綺羅は、そうか、と独り言のように呟き、顎に指を当てている。引き留められると厄介だと思ったが、意外にも綺羅はあっさりと「お前がそっちを選ぶなら、それでいい」と肩を竦めた。
「私に強要する権利はないからな」
「それでいいのか?」自分で言っておきながら、俺は訝る。「俺が千伽の側についた方が、お前らに不都合があるんじゃないのか」
「まあ、さっきはああ言ったが、千伽がお前を使い捨てにすることはないだろう。正確には、出来ないと思う」
「何故?」
綺羅は薄く笑う。それは彼には何気ない微笑だったかもしれないが、ぞっと寒気を誘った。彼の目線は夜空を仰ぎ、何かを探すようにゆったりと彷徨う。
目が合った。緊張が走ったのは俺だけだろうか。何故? と綺羅の口が柔らかく訊き返す。
「今のお前がこの国の命運を握っているからだ」
命運。漠然とした言葉の割に、綺羅の目には思わぬ真剣味があった。間近で指さされ、呆然とその場に立ち尽くしたのは一瞬のこと。俺は動転しながら「じゃ、じゃあ」と数歩後退る。
綺羅のそれを深く掘り下げるより、逃げなくては、という恐怖が俺を駆り立てた。命運を握っている、というのは大袈裟な脅迫のように思われたが、一瞬交わった綺羅の眼差しは単なるはったりとも思えぬ凄みがあり、俺はひとまず考えることを辞める。
「お前らがそれでいいなら、俺はこれで失礼する。コウキ、また会おう」
及び腰になりながら、片手を上げて踵を返す。ちらりと最後に見たコウキの顔は不機嫌そうだったが、この場に主がいてまだ良かったと思う。
小走りに駆け出しても尚、背中を掴んで引き留められやしないか、そういった生物的な怯えが付き纏う。
雲上渓谷で会ったときのように、“何かを知っている”綺羅は得体の知れない生き物のようだった。思わせぶりな態度は以前からあったが、今回は綺羅本人が事態の中心に深く関わっているのだということが俺を妙に焦らせる。
早く翔がいるところに行こう。振り返る勇気はない。微かに震える指先で開いた地図で朧家へ向かう道筋を辿りながら、俺の足は自然と早くなった。
***
「脅かし過ぎじゃないか」
闇の向こうに消えた背中を見送り、コウキは咎めるように言う。ニィの力によってそれなりに長い年月を生きてきたコウキすら、綺羅のことは時に不気味に映る。不老不死者の中でも、綺羅は特に別格だ。
自身のスコノスがそんな彼と真正面に対峙したことは、単に気の毒で不運なことに映った。一方綺羅本人は、いつものようにコウキの言うことなど気にも留めない。
「別に嘘ではないさ」自身の掌を透かすように、彼は骨っぽい指を広げた。
「逆にあいつが生きていればこの国は安泰、という訳でもなし。運命というのは、厄介なものだ」
そうして皓輝が逃げた路地の先を見やり、まつ毛を伏せる。彼には、走り去った皓輝の身体に幾つもの糸が絡まり、躓き、尚もがこうとしているかのように映っているのだろうか。皓輝に糸を掛けたのは綺羅本人であり、同時にコウキ本人でもあるのだが。
「それにしても、先程の雷を見たか? 紫電だったな」
綺羅の声は場違いに明るく、上機嫌だ。石像に声を充てたようで、コウキの耳には却って空虚に響く。
「紫、というのは幸先が良い」
「俺には不吉の象徴のように見える」
コウキは顔を顰めて、先程細い稲妻が光ったところを窺った。
「雷は天帝の怒りだと? そういう、古い信仰をお前も覚えているのだな」
馬鹿にされたように感じたのは、常日頃から言われるよう、自分の性根が堅物すぎるのだろうか。コウキは軽く首を捻り、反論するのは止めておく。代わりに、拍子抜けするほどあっさり再会を果たしたスコノスのことを考えた。
「なあ、ミライは朧家の正邸に行ったのか? 千伽に加担するとは、我がスコノスながら趣味が悪い」
「もうお前のスコノスではないだろう。それに、皓輝はお前のスコノスとは違う」
コウキは眉を顰める。
「皓輝は、ミライだ」
「本当にそう思うか?」綺羅は口の端を持ち上げる。「皓輝に記憶はないぞ。昔、お前が助けた孤児の遊び相手になっていたことすら覚えていない。本当に同一の存在だと言い切れるか? 記憶のない罪人を裁くのか?」
「……」
思ってもみないことを指摘され、口を噤む。それは、と反駁しかけるが、綺羅の方はこの話題にさしたる頓着もないようだった。
「……まあいい。今はそういう話がしたい訳じゃない。皓輝に記憶がない、というのは吉兆だ」
それについては、さしあたりコウキも同感である。居養院の門壁を乗り越えて手を振ってきたあの男は、否応なしに過去の人型スコノスの動物的な所作を想起させた。翳りのないつらつらとした話しぶりも、偉そうに報恩を説いてみせたのも、在りし日のミライそのものだった。
コウキにとってミライは疎ましく、憎たらしく、切っても切り離せない自身の半身である。綺羅はああ言うが、切り離した今でも自分がミライの存在と呼応し、共鳴していることが嫌でも分かった。
ミライが、昔のことを全て忘れた状態でもこれなのだ。記憶があれば更に鬱陶しく、頭の痛い存在になっていたことは間違いない。光と引き換えに首をもらう、と数か月前に宣言したのは確かに早計だったかもしれないが、いずれはどうにかしなければならない存在であることは間違いない──。
一方綺羅は目に見えないものを見るように、うらぶれた暗がりに目を凝らしていた。水路の緩やかな流れが二人の足元を静かに這い、深夜の静けさを一層際立たせる。
「皓輝の、スコノスだった頃の記憶を消したのはあれなんだろうな」
“あれ”などと抽象的な言い方をした割に、コウキはそれが何を指しているのかすぐに分かった。振り向いて、瞬きする。「お前じゃないのか」と。
「まさか。いくらニィとてそこまで器用な真似は出来ない。誰かの頭から記憶を消す、というのはその人を殺すに等しい、大それた行為だよ」
「……平気で人殺しをする癖に、よく言う」
綺羅はコウキの苦言など耳も貸さない。ちゃんとあれは機能しているのだ、と一人で悦に浸っている。
意思のある行動でも、最早呪いじみた防衛本能だったとしても、どちらでもいい。あれはまだ皓輝の中で確かに生きている。
「この先、皓輝の記憶が戻ることはないだろう。あれはそれを許さない。あれが皓輝にしがみ付いている限り、皓輝はきちんと人間らしく生きていける。だから安心するといい」
「しがみ付かれていると、いずれお前が困るんじゃないのか」眉間に皺を寄せすぎて、額が痛くなってきた。
「時が来たら引き剥がすさ。お前とスコノスをそうしたように」
「そうしたら、ミライは死ぬか?」
「死ぬよ。宿主のないスコノスは生きていけない」
綺羅はしれっと笑う。この二枚舌め、とコウキは内心で毒づいた。平然と嘘をつき、人の命を露ほどとも思わない綺羅のことが、コウキは好きではなかった。
「嘘はついていないぞ? 少なくとも、今皓輝に死なれるとかなりまずいのは事実だ。この国もまずいし、うちの国もまずい」
だが、しばらくは泳がせておこう。今は白狐の件の方が先決だ。
楡の木越しに、綺羅は薄っすら曇った夜更けの空を仰いだ。出会ったときから何も変わらない、歳を取らない横顔。コウキには何かを言いかけ、やめる。
「さて、邸に戻るか」
「おい、面倒でも歩けよ。お前があちこち飛び回るから、朝廷で妙な噂が立つのだ」
姿を変じようと袖を広げた綺羅の着物をすかさず掴み、コウキはため息をつく。
やれやれ、と。投げ遣りに歩き出した二人の背に、西の空の彼方から、遠雷が轟いた気がした。




