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明後日の空模様 朝廷編  作者: こく
第十三話 深夜
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 司旦が書いたと思しき地図は人目を避けた裏道ばかり示し、解読にやや手間取った。

 ただでさえこの辺りの地理に明るくない俺にとり、都は未知の場所だ。目印になるようなものも、地図上では簡易な記号として平面化される。それを正しく見つけられるかあまり自信がなかった。

 すっかり夜も更けた頃。冴家の正邸を後にした俺は一人で街中へと出た。服装は上下綿の軽装で、男物の笠で顔を隠している。手には提灯。懐に忍ばせた豻の短角刀は、軍人のほか帯刀を許されない都の中において唯一隠し持った護身の道具だった。

 側溝が設けられた、人気のない街路を往く。ごく細い路地などを除けば多くの街路は清潔に舗装され、大層な金がかかっていると感心する。俺は地図の道筋を足早に進みながら、入京したときは分からなかった都の構造を横目で観察した。


 皇国における都市といえば、十六都邑をはじめとする、商業を中心に人々や情報が往来する交通の要だ。しかしここは完全な政治都市である。その造りはどこまでも人工的で、意図的なものだ。行き交う人々の顔ぶれも、空気も全く印象が異なる。

 何よりも広い。路と路に区切られたひとつの区間を坊と呼ぶが、都にはそうした大まかな坊が二百以上ある。坊の中は十六分割され、そこに人々が暮らす家や公共の建物が身を寄せ合う。城壁に囲われた途方もない規模の空間に、人口百万人が蝟集し、二つの大きな市場が東西を貫き、水路が縦横に奔り、歓楽街や官庁街、文教地区がある。

 遠目から、こんな夜分にもかかわらず明るい提灯の幾つも灯った、豪奢な一連の屋根が窺えた。初めはあれが皇城かと勘違いしたが、どうやら広壮な妓楼らしい。都の規模ともなれば、花柳街もさぞ華やかなのだろう。


 皇城──いわゆる朝廷の物理的象徴──は、かつては都の中心部に建てられていたようだが、規模が大きくなるにつれ城下を離れ、最東の方角に新築されたらしかった。今では都市に住む人々ですらおいそれとは近づけない聖域とされ、広大な敷地を割いている。恐らく、その内部もまた東京ドーム何個分、という尺度で測られる規模であろう。

 八家の貴族の正邸も、風水による土地の吉凶に倣い、それぞれが八方の高地に門を構える。各邸宅に行くには、街中を横切り、版築固めの馬車路を通って登っていくほかない。

 冴家は都の北方にあった。朧家の邸は東方に門を構える。


 俺は袖の下に仕舞った地図を脳裏に浮かべながら、坊の数を数え、路を曲がった。そこには深い水路が横たわり、夜の暗がりに黒々と水を湛えている。横幅は五メートルほど。小舟がどうにかすれ違える程度の広さしかない。とはいえ、飛び越えることは出来ないので橋まで歩かねばならない。

 寝静まった住宅街の壁に沿い、水路の流れを追う。澱んだ水が停滞し、仄かに腐ったような悪臭を漂わせた。人が暮らす生活圏にいるのだという心地良さと懐かしさを覚える。

 水路に架かった石橋を渡り、俺は司旦の地図の通りに人気のないうらぶれた裏通りに出たことを確認した。周囲は閑静な人家が軒を連ね、用心のため提灯の明かりは消すことにする。


「──……」


 時に、直感、というものはすごい能力なのかもしれない。考えるよりも先に身体が動く。

 足音を忍ばせ、俺はその場から駆け出した。

 自分の息遣いがやけに大きい。緊張、というより高揚。突然人間としての理性が遠ざかり、忘れかけていた本能が目を醒ます。走れ、と脳が命じる。


 やがて自然と足が止まったのは、天院のような門構えの建物の前だった。

 外観は木造で、大きいが破れ寺のように寂れた趣がある。あまり人通りのある場所とも思えない坊の一角で、周囲は楡の喬木が植えられ、それが余計に人を遠ざけるような陰鬱を醸していた。入り組んだ水路の行き止まりには、菱の葉がびっしりと生え、水面を覆っている。

 首を伸ばし、門の向こうの瓦屋根を仰ぐ。一体何のための建造物なのか分からない。天院にしては少々飾り気がないが──俺は周囲に人がいないことを確認し、木陰に隠れ、地図を開く。

 景色と照らし合わせて現在地を確認するが、暗いので手古摺った。何某院、と孑宸語で書かれた字を何度か角度を変えながら読み、首を捻る。

 途端にびくりと身体が撥ねた。誰かの足音が聞こえる。

 土、のような柔らかいものを踏む音。門の向こうに何かの気配がある。今まさに、誰かが建物から出てきたのだろう。心臓が早鐘のように煩く弾んだ。俺は震える手で地図をくしゃくしゃに仕舞う。


 衝動に駆られたとき、自分でも信じられないほど大胆なことをする。以前もこんなことがあったように思えるが、考える猶予はない。俺は背丈よりもやや高い門塀に飛びつき、一息によじ登る。

 突き動く、呼吸、鼓動。息が苦しい。漆喰の門塀から覗き込んだ先には、方形の中庭がある。やはりあまり手入れのされていない、枯れ草の伸びた景色。そこにぽつんと佇む男のことを、俺はよく知っている。

 その人影を見とめたとき、俺は頭を引っ込めようかそのまま身を乗り出そうか一瞬躊躇した。逡巡するだけの理性はまだ少し残っていたようだ。

 しかし無意味だった。男が俺の目線の気付き、こちらを振り向いたのである。


「……」


 俺は無言で手を振る。そのときの男の表情の変化を、俺は誰かと共有できなかったことを残念に思った。尤も、それは同時に己の顔でもある訳だが。


「ばっ……」


 コウキの顔が驚きと焦燥で引き攣る。何かを言いかけた口は、はくはくと動くばかりで声にならない。

 刹那、コウキは素早かった。目にも留まらぬ速さで地面を蹴り、一瞬で俺の目前に来たかと思えばこちらの身体を掴んで門塀の外へと引き摺り下ろしたのである。

 大きな痛みはない。気付けば地面に半ば倒れ、胸倉を掴まれていた。およそ半年ぶりに再会したコウキは、笑えるほど動揺していた。


「おま、ばっ、馬鹿じゃないのか」


 唾がかかるので、俺は眉を顰める。まあ落ち着けよ、と彼の腕を押し退け、己と瓜二つの顔を見上げた。笑いを噛み殺し、我ながら能天気な声が出る。


「久し振りだな。こんなところで何をしているんだ?」


「俺の台詞だよ」


 馬鹿じゃないのか、と繰り返し、コウキはそれ以上呆れてものが言えないといった様子で天を仰ぐ。楡の木がつくり出す暗がりが、頭上から覆い被さっていた

 コウキ。イダニ連合国で救世主と呼ばれる男。そして、かつて俺の主だった元ネクロ・エグロ──俺というスコノスを切り離し、その見返りに不老不死を手に入れた愚か者。

 俺は、知らず口元を緩めている。想定外の形とはいえ、主と再会したことが率直に嬉しかった。


「お前がいるような気がして来てみたら、やっぱりいた」


「スコノスの嗅覚、恐ろしいな」


 コウキは露骨に顔を顰める。嗅覚とは比喩だが、確かに俺にはコウキの居場所を突き止める本能のようなものがあるらしい。

 当然だろう。ネクロ・エグロとは、宿主とスコノスで陰陽一対を成す生き物。切り離されたからといって、同一の魂を共有していた頃の記憶は容易く消えるものではない。

 尤も、俺は自身がスコノスだった頃のことをさっぱり覚えていないのだが、それでも主であるコウキのことは今でも恋しく思うし、彼の存在が俺を生かす理由になっているといっても過言ではない。


「なあ、おい。知っているぞ」俺はコウキの胸元を指さす。「影家の近習をしているのだろう。今度は一体どんな悪巧みをしているんだ?」


「人聞きの悪いことを……」


「一家を粛清しておいて何を言う。お前と綺羅が共謀していることなどお見通しだ。あの綺羅も、イダニ連合国の者なんだな」


 つらつらと言葉を並べると、コウキは露骨に嫌そうな顔をした。彼のこととなると俺は驚くほど怖れ知らずで、饒舌になる。もしかすると、本来のスコノスとしての俺はこういった性質だったのかもしれない、と思う。

 主は苦々しい表情を浮かべ、口の端に皺を寄せていた。


「誤解しているなら言っておくが、此度の件に関して首謀は綺羅であって、どちらかといえば俺は不本意な立場なんだよ」


 それが何としてでも言い返さねば気が済まない子どものような口ぶりなので、俺は口元を緩めそうになる。これ以上神経を逆撫ですれば何をされるか分からないのだが。


「そんなことは俺でなくても分かる。救世主を名乗る立場上、不用意に人を殺すのはお前らしくない。翔も見抜いていたぞ」


「あいつもいるのか?」コウキは僅かに困惑を浮かべる。「というか、お前は都で何をしている?」


 俺は自分で首を傾げる。何をしているかと問われると、答えにくい。今の俺にあるのは何かをしなければという使命感だけで、それは人助けであるようにも思えるし、もっと漠然とした大きな目的があるようにも思える。

 主と再会した今、司旦の地図や朧家正邸で待つ翔のことなど具体的な事柄は脇に追いやられ、コウキ以外どうでも良くなってしまうのはスコノスの悪い癖だろうか。とはいえ、豊隆の件や朧家や冴家の動きを彼に話すのは賢明でないと思うだけの理性が残っていたのは有難かった。


「俺が何をしているかなんて、お前には関係ないだろう」


「大有りだよ。俺はお前に、目の前をうろちょろされたくないんだ」


 大きな溜息を吐き出し、コウキは言う。「今回は、お前に構っている暇はないんだよ」


「しかし、白狐さんが絡めば俺がしゃしゃり出てくることくらい分かるだろう」


「人助けをするほどの優しい心がけがあったとは、スコノスも随分人間らしくなったものだな」


 俺は軽く歯を見せ、皮肉を躱した。


「報恩を尊ぶのは当然のことだ。人間らしさは問題ではない」


「……」


 己と同じ顔が歪む。そこに薄っすら恐怖のような感情が過ったのを見たとき、俺はまた自分が自分でなくなっているような感覚を覚えた。今、言葉を吐いたのは俺の口だろうか。無意識に手を口許にやり、そこに自分の唇があることを確かめる。

 今のは俺でなく、ミライの言葉なのかもしれない。思わず口の端を押さえたまま訊ねる。


「……俺は昔、お前に同じことを言ったか?」


「さてな」逸らされた不機嫌な顔に、肯定だと悟る。なるほど、報恩か。俺は何故だか妙に納得した。


 世捨て人の家が焼けてからの自分の一連の行動意義が、一言に凝縮されたような、何かがすとんと腑に落ちる感覚だった。そう、やはり逃げてはならない。返すべき義理を返すのは、当然のことだ。

 俺は子どもではない。


「それはそうと」半ば話題を逸らそうと、俺は先程コウキが出てきた建物を見やる。「まだ俺の質問に答えていないだろう。こんな夜更けに、お前はここで何をしていたんだ?」


「俺が何をしているかなんて、お前には関係ない」


「大有りだ」俺を真似たコウキにそのままやり返し、首を傾げた。「天院か? 随分うらぶれているように見えるが」


居養院(キョヨウイン)だ。お前はもう少し小さな声で話せないのか」


 咎められ、俺は声を低めた。「居養院?」


「……」


 そのときの一瞬の沈黙に、俺は己惚れたくなる。はっと、顔を上げたコウキの目は落胆しているように見えた。それは思い出を共有できないことへの失意ではないだろうか。或いは、己惚れすぎかもしれない。


「覚えていないのか」


「何が?」


「いい。忘れろ」首を振る。「今のお前には関係のないことだ」


「そう言われると余計気になる」


 首を傾げれば、コウキは口を開いて何かを言おうとした。その頭上を何かが翳める。小さな、黒い影だった。鳥だ、と反射的に思う。


 鳥だ。




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