Ⅰ
白狐は囹圄という、皇居敷地にある牢舎に閉じ込められていた。
牢とはいっても下郎を放り込むような粗末なものでなく、床には清潔な板が貼られ、天蓋付きの寝台までついた贅沢な造りだ。しかし、出入り口を隔てる格子は白狐を惨めな気分にさせるには充分だった。
内朝にあるという囹圄は、幼い頃からその噂だけは聞いていた。謀反、謀大逆、謀叛、悪逆、不道、大不敬、不孝、不睦、不義、内乱──政に叛くいずれかの重罪を犯した者たちが投獄され、剕だの劓だの、身の毛も弥立つような刑罰を待つ舎だという。
子どもを脅かす他愛ない御伽噺だと思ったそれは、大人になって現実のものだと知った。そのときですら、自分が放り込まれる日が来るとは思わなかったというのに。
白狐は鈍く痛む蟀谷を押さえ、寝台に腰掛けている。気がついたときには、既にここにいた。窓がないため時間の経過がはっきりしないが、運ばれてきた食事の回数を数えれば、四、五日ほど経っているように思える。
初めは酷かった頭痛のため起き上がることも出来なかったが、今は幾分思考する余裕があった。白狐をここに連れて来たのは、あのイダニ連合国の救世主だろう。頭の芯にしつこく残った鈍痛と混濁は、彼が操った移動の奇術のせいだとおよそ見当がついていた。
地図上の長い直進距離を瞬時に移動する奇術は、イダニ連合国のニィを持つ者だけが使う。斯く言う白狐もニィを宿してはいるものの、そういった術を使いこなすほど身体には馴染まなかった。
選ばれなかったのだ、と漠然と思う。また、選ばれなかった。
昔からこうだ。白狐は、人に愛される才能があった。無害な笑顔を振りまき、器用に世渡りする自信もあった。しかし、いつも幼馴染の千伽にだけは敵わなかった。
天才だとか鬼才だとか呼ばれた幼馴染は、誰よりも才能に恵まれ、目立つことにかけては抜きん出ていた。人目を惹く、というのは彼の才能のひとつで、容姿や所作の美しさも、生きながら書聖と呼ばれた名筆も、結局はそこに帰結するのだと思う。
千伽は、否応なしに他人を魅了する。いつしか彼に付けられた魔性という渾名は、憧憬と畏怖の念を以て人々の口から口へ伝わり、本人も満更ではなさそうだったように思える。
確かにあのとき、千伽の存在は、白狐の繊細な心に僅かな劣等感を生むのには充分だった。しかし、今にしてみれば微笑ましい話だ。こんなにも小さな傷を大事に抱え、自身の凡庸さを憎んでいたのか、と。何事にも優れた幼馴染の隣に立つことは億劫ではあったが、彼と並んで双頭と称されることは誇りでもあったのだ。
白狐は自身の失われた右目に手を伸ばす。かつての疵は乾いたまま黒ずみ、火傷の痕のようになっている。痛みこそないが、触れればあのときの視神経が根こそぎ引き千切られた激痛が蘇るようだった。
ニィの不死性を以てしても、この疵ばかりは癒えることがない。つまりは、そういうことなのだ。
ニィは白狐を選ばなかった。それだけだ。
ふと、足音が聞こえたような気がして、白狐は僅かに顔を上げる。格子の外は板張りの通路で、遠くにある出入り口の戸の開閉の音すらよく響く。
守監と何者かが言葉を交わす声、短い会話。やがてカツカツと、神経質なほど単調な足音が近づく。それがすぐ目の前の格子で止まるので、白狐は渋々彼と目を合わせた。
初めに思ったのは、似合わないな、という感想だった。影家の近習の衣裳は木綿の軽装だ。裏向きでは護衛も兼ねるから、儀礼的でない普段着であれば尚更、袖や襟元に紐を潜らせた動きやすいものが好まれる。イダニ連合国の救世主が着るには、幾分軽すぎて不格好だ。
「気分はどうだ?」
体調を訊いているのか煽っているのか判然としない。救世主は貼り付けたような無表情で、感情の機微が読み取れなかった。尤も、白狐は彼の問いに答える気など端からないのだが。
「……」
黙って彼の目を睨む。長い年月が積み重ねた重みと釣り合わない、若すぎる容姿。
なるほど顔立ちばかりはまだ十六歳の皓輝とよく似ているが、薄い皮膚の下には現実離れした生真面目さと、数千年もの間それを貫いた頑固な信条が根を張っている。どこか顔色が悪く見えるのは、疲労のためだろうか。
「ご自慢の髪を切って悪かったな」
救世主が目線で指す先には、すっかり無残な有様になった白狐の頭髪。揉み合いになったとき、どさくさに紛れて切られたのだった。刃と触れた毛先が、解れた布のようにばらばらと宙に舞った光景が蘇る。
「……ただの、白いだけの髪ですよ。何の価値もない」
救世主が怪訝そうな面持ちをする。そのとき初めて、白狐は自分が微笑していることに気付いた。ざんばら髪を指で梳き、こんなもの、と心で呟く。
こんな白いだけの髪に霊性だの何だの価値をつけて、縋っていた。皆の期待を裏切ることが怖かった。自分が特別だと信じていたかった。愚かなことをしていたものだ。
「それより、あなたは随分顔色が優れないようですが?」
目蓋を持ち上げて問えば、救世主は顔を顰めた。初めて彼の表情が僅かに動いたように思えた。
「お前の蛇に噛まれた」
「相変わらず頼もしい懐刀ですね、司旦は」
小さく笑う。救世主が牽制するように、格子の向こうから見下ろしてくる。
「思いのほか、元気そうで何よりだ。ここで死なれては困るからな。その調子でいてくれ」
「……」
困る、という言い方は他人行儀で、本心はどうでも良さそうだった。彼は白狐のことなど端から興味はない。昨年、直接そう言われた。
じゃあ彼が何故今こうして白狐の様子を見に来たのか、といえば、それは義務感以外の何物でもないだろう。
「あなたのお友達は、高みの見物ですか」
「綺羅は今、影家の当主なんだよ。こんな場所にほいほい来るか」
影家の当主──白狐は苦いものを口にしたような気分になる。それは本来、白狐が父から継ぐべき肩書だった。それを奪われた屈辱と、慚愧の念が込み上げるが、顔に出すのはもっと恥ずべきことのように思われた。
「良い御身分ですね」
「そう。お前がなるはずだった身分だ」
救世主は眉ひとつ動かさず、ふと思い出したように言う。「そういえば、八日後にお前は処刑されるらしいぞ」
「は?」
ほれ、やるよ、と軽く手渡すような調子で言われ、白狐はさすがに面食らう。色々な困惑があった。人間の死を必要以上に厭い、不老不死の世界こそ理想と説く救世主がこんなにもあっさりと宣告を運んできていいのかとか、どれだけ自分はこの救世主に嫌われているのだろうとか、こんな春先に処刑を執行していいのかとか、疑問が浮かんでは口にする前に通りすぎる。
死罪は法で定められた最も重い刑罰ゆえ、執行には幾つかの風変りな慣習がある。罪人の怨念が農作物に影響を及ぼすことを畏れ、秋分を過ぎ、立春になる前でなければ処してはならぬというのもそのひとつだった。白狐は己が死罪になることに今更驚きはないが、さすがに朧省で田植えが始まっているであろうこの時期に強行するとは思わなかった。
それは皇帝が祟りや怨讐など悪霊の存在を顧みないという不遜の表われであり、それを諫めるような右腕の不在の証明であり、白狐は親の仇でありながら現皇帝の不遇を少し気の毒に思った。
だからといって許すつもりは更々ないし、大人しく殺されるつもりもないのだが。
白狐は黙ったまま、救世主を見据える。彼に動揺を気取られたくなかった。救世主も表情を崩さない。
「皇帝は認めないが、心のどこかでお前を畏れている」
「知っています」
「だが俺が思うに、あの男はもっとお前を畏れるべきだ」
ただ瞬きだけをする。言っていることの意味は分かったが、意図は読めなかった。
「あの男は生まれながらの霊性も、人を拐す魔性もなかった。せいぜい奴にあったのは埃っぽい書斎で詩作に耽り、ささやかな孤独を愛する文才だけだ。可哀想に、あの男は優秀だが、それは文机の上の話でしかない。真に必要なのは、詩才などではなく、人の心を掌握する術だというのに」
救世主の口ぶりは、自身の経験を少なからず踏まえているように思えた。民意を動かすのは権力ではない──この男は、それをよく知っている。
「お前を殺せば、大きな反動が起こるだろう。天学で言うところの陰と陽の均衡が崩れることになる。皇帝はそれを知りながら、侮っている。何とかなる、と思っている」
馬鹿だな、と薄い嘲笑。白狐は眉を顰める。
「あなたはどっちの味方なんですか」
「お前の味方ではない」
「でしょうね」
「だが、あの皇帝の味方と思われるのはもっと不愉快だ」
「そこまで?」この男の嗜好がよく分からない。救世主の面を被ったときは、全ての人間を等しく愛するような心の広さを見せるのに。
「俺はな」白狐の心を見透かしたように、救世主は苦々しく顔を顰めた。「高みの見物と決め込んで何もしない奴が一番嫌いなんだよ。いつでも何でも出来るような振りをして、その実自分からは絶対に何もしないような奴がな」
なるほど、彼がこちらを嫌悪するのはそういう理由なのか。白狐は初めて彼の仮面の裏側を垣間見たような気がした。
「それで、あなたは自分が嫌いな人間や国は死のうがどうなろうが構わない、とお考えなのですね。そうやって踏み躙ったものの上に、理想の世界を建てるつもりだと」
「棘のある言い方をする」
顔を顰めながらも、こちらと対等なやり取りなど端から期待していないのだろう。救世主の口ぶりはどこまでも淡白だ。
「誤解なきように言っておくが、嫌いだからといって過度に人命を蔑ろにしたりしない」
「何の罪もない、人の家族を殺しておいてよくもそんなことが言えますね」
知らず、声に力が籠る。何十年経とうと克服しようのない感情の綻びが、唇を小刻みに震わせた。
「お前の父と妹を処刑したのは、綺羅だ。俺は綺羅の判断に従った」
「言い逃れをするおつもりで?」
「いや? 誰の判断にせよ、咎を背負うべきは俺と綺羅だろう。存分に俺たちを憎むがいい。それも必要なことだ。それに」
救世主は一度言葉を切る。感情をどこかに押しやったような、事前に用意したような物言いだった。
「一応言っておくが、俺たちは、お前を死なせるつもりはない」
「は?」
「綺羅の意向だ。あいつはお前にご執心らしい。正確に言えば、お前の中に流れる月天子の血に、だが」
白狐は訝る。「……あなたたちは一体、僕をどうする気なんですか」
「死なせない。生きていてもらう」
彼らしい簡素な解答。頼もしい、とは思わなかった。疑念ばかりが募ってゆく。
月天子の血に執心している──何故?
「……」
白狐に答えは与えられない。救世主の沈黙は、知る必要はない、と語っていた。いずれ分かる、と。脳に宿る本能は、自分で考えろ、と言っていた。考えれば何か分かる、という直感もあった。
「安心するといい」救世主は眉一つ動かさないが、その無表情が却って癪に障る。「お前はいつも通り、何もしなければいいんだ」
互いに表情を動かさない。石像にでもなったかのように、身じろぎひとつせず、黙っている。息を吐いた、救世主はもう何も語る気はなさそうだった。
「では、次に会うときは天壇の神明裁判で」
そう言い残し、踵を返した彼の背を見送る。何かを言い返そうかと思ったが、それよりも自分が何かの尻尾を掴みかけたことを相手に気取られてはならないと口を閉ざす。
遠く、囹圄の錠が下りる音がした。白狐は天井を仰ぎ、思案を巡らす。無性に幼馴染に会いたくなった。話をしたい。頭のいい千伽に話せば、答えを与えられるだろう。
千伽──千伽は、白狐にとってかけがえのない幼馴染であると同時に、得体の知れない素養を持った男でもあった。
かつて千伽の父親は存命の内に、息子が皇帝になることがないよう、清心派の中で取り決めた。つまり、帝位は影家の白狐に譲る、と。実の父ですら、千伽の存在を持て余していたのである。
帝位を譲る、と千伽が白狐に面と向かって言ったことはない。ただ。千伽の破天荒な振る舞いや派手な女遊びは結果的に朧家の悪評となり、彼を帝位から遠ざけた。それがどれだけ意図的なものだったか今となっては知り得ない。
千伽が帝冠について口に出すことといえば、「私が戴くことはないさ。爺どもに嫌われているからな」などというあっけらかんとした笑いだけで、そうやって皇帝の座を平然と投げ捨ててしまえる幼馴染の奔放さが、白狐は昔から羨ましかった。
二人が成人した頃には、清心派の中で朧家と影家の表向きの力関係は自然と影家に傾いていた。実際の実力とは裏腹に、だ。
何かを、違えているのではないか。六十二年前、我々は何か、見落としてしまったのではないか。
──結局自分は、選ばれなかったんだよな。髪を掻き上げて白狐は呟く。これから何が起こるか見当もつかなかった。




