Ⅵ
真弓が厨から樟ねてきたという、ひと山の包子を夢中で頬張る。外はすっかり暗くなっていた。
白い包子の中は味のついた刻んだ野菜や茸、味付きの豚ひき肉が詰められ、一口齧るごとに湯気とともに肉汁が溢れる。ふわっとした生地は軽やかで、発酵した小麦特有の苦みと甘さが後を引き、幾らでも食べられそうだ。
そんなに慌てなくても、と周囲からの苦笑を買いつつ、久し振りのまともな食事と呼べそうなものに俺はしばらくがつがつと貪り、空腹を満たすことにする。少量の肉入り包子は下級の召使いのために供されるものらしいが、今の俺にはこれで充分だった。
咀嚼の合間に茶碗を手に取り、熱い茶とともに流し込む。口元を拭った、そのときだった。格子の嵌め込まれた丸い窓の向こう、ちらりと紫色に光るものを目の端に捉えた。
初めは気のせいかと思った。手元の包子に目をやり、食事に戻る。それから数秒も経たない内に、冴家の女官たちが「あれを」と口々に言うので、つられて俺も顔を上げる。
紫に発光するものが、ひらひらと宙を舞っていた。吊り下げられた照明の傍を、欄間の前を、ゆっくりと上下しながら横切る。窓の隙間から入り込んだのだろう。細かな光粒が残像のよう、天井に撒き散らされた。
そこにいる全員が、しばしその浮遊物に目を奪われる。ぼんやりと、遠くから何かを問いかけるような、妖しげで朧げな光。目を凝らせばそれがただの不定形の光ではなく、蝶の形をしていることに気付く。
──紫色の蝶々。誘うように踊る、夢幻の翅。
きゃあ、と袖下で顔を隠し、怯えるような素振りを見せるのは若い者ばかり。真弓などは堂々としたものだった。
「騒ぐな。子ども騙しのまやかしだ」
そうだろう? 彼女の目が俺に向く。俺は口の中のものを飲み込んで曖昧に頷き、あたかも会話を理解したように近くに降りてきた蝶に手を伸ばした。一度躊躇って指を引っ込めた後、思い切って斜めに右手を振り下ろして宙を裂く。
指先が触れた瞬間、静電気のような軽い痛みが走ったように思えたが、それきりだった。ゆっくり瞬きをする。既に蝶はどこにもいなかった。濃紫の鱗粉を散らし、跡形もなく消えた幻覚の代わりに、ぱたりと床に落ちたのは四つに折り畳まれた紙だった。
「……」
拾い上げる。手に触れたのは、確かな現実の紙の質感。紙の表面は乾いていて、煌めく繊維とともに漉かれ、一目で高価なものと分かる。宛名として、細筆で俺の名が書かれていた。
引っ繰り返したり、照明に透かしたりして怪しげな仕掛けがないか探すと、俺は慎重に紙を開く。
「……何の騒ぎ」
奥の間から、冴家の御方が姿を現した。女官たちが僅かに身を引く。彼女の目は、初めから俺が発端であるかのような、非難がましい色を帯びていたが、俺はそれに甘んじることにする。
「文が」途切れかけた声を、咳払いして繋ぐ。「届けられました」
誰から、と御方の青い目が問うた。俺は開いた紙面をちらりと見やり、何と答えていいか口籠る。中身は、翔から俺へ宛てた手紙だった。しかし、巫山戯た蝶々の仕掛けを施したのは翔でも司旦でもないだろう。
沈黙の後、御方は何かを理解したようだった。人形じみた無表情を崩さないまま、聞こえるか聞こえないかの声で小さく呟く。千伽ね、と。
「そのようですね」
真弓が頷き、俺はそれに追従する。
千伽は幻術を操るという、一風変わったスコノスを持つ。以前も手紙に仕掛けられた彼のまやかしを目にしたことがあるが、いずれも術者の自己顕示欲を示す、気取った演出に思えてならない。
御方は静かに着物を引き摺り、寝椅子に腰掛ける。裾に施された純白の花々の刺繍が、さらりと衣擦れとともに寝椅子から滑り落ちる。近習の一人が沸かした湯を運び、粛々と茶の支度を始めた。
彼女は文の内容に興味などなさそうだったが、そこに書かれていたことを報告するのはここで一晩匿われた者の義務であるように思われた。
俺は改めて文の上から下まで目でなぞり、内容を簡潔に要約する。
「……翔と司旦は、朧家の別邸にいるらしいです。今晩、落ち合おうとのことでした」
文の下には一枚の簡易な地図が重なっていた。この辺りをよく知った司旦が、人目を忍べる道筋を描き出してくれたようだった。翔と司旦はあのあと馬車から抜け出し、誰にも見つからないよう朧家の別邸に匿われたらしい。
書いてあることを疑う余地はあまりなかった。直筆らしい文章は紛うことなく相棒の筆跡だし、罠に誘い込むような危険な不自然さもない。
いや、正確に言えば、俺はそれが罠でも構わないと思った。文に仕掛けられた蝶の幻術は、お前がそこにいることを私は知っているぞ、という千伽からの遠回しの脅迫のようにも思われたが、何故だか俺は怖くなかった。
怖くない。
「……」
冴家の御方と真弓に手紙を渡す。彼女たちが読んでいる間、俺は温くなった茶を飲み、一息つく。
早々に興味を失った御方から文を受け取り、真弓は上から下までじっくりと目を通していた。そこに何か不正の穴がないか探しているかのように。
「で、どうする気なんだい、これ」
ひらひらと紙を振って、真弓は文を投げ寄越す。ふわり、と勢いが殺されて半端に舞う二枚の紙。
俺は格子の嵌め込まれた小窓に目を移し、そこに忍び寄る夜の気配を嗅いだ。庭に植えられた花や木に濾過された空気。夜と夕暮れが混濁した藍空が、滑稽なほどきれいに切り抜かれている。
「──行きます」
「いいのか」
「ご心配ありがとうございます」
一旦振り返り、真弓と、御方を見る。
「千伽様や白狐様のためだけではありません。ただ、それが必要なことだと思うからです。俺はきっと、何かをするためにここに来たんです」
恩や義理ではない。少なくとも人間同士で交わされる感情のもつれとは別のところにある、義務感。本能が言っている。逃げてはいけない。戦え、と。
豊隆が、玃如が、その他のあらゆる目に見えない力が俺を都へと導いた。この強烈な本能に逆らう術を俺は知らない。コウキがこの件の中心に関わっていることも、ただの偶然とは思えなかった。
「ま、そこまで言うならあたしたちは止めないよ」真弓は逞しい肩を竦めて見せる。「ただ、もう少し夜が更けてから行くといい」
もっと食え、と勧められ、皿に残った包子を一口齧って、俺は黙って頷いた。この先、またいつ腰を据えて食事が出来るか分からない。
***
「……そういえば、六十二年前の一件で、影家の関係者は皆粛清されたものだと思っていました」
ふと、別れ際になって、俺は口を開く。
白狐さんが妻帯していたこと自体驚きだったが、彼に最も近しい妻という立場の彼女が生き残っていたというのは、ほとんど奇跡に近いように思われた。
──否。奇跡、という言葉では誤魔化しきれない、何者かの意図や采配があったことは容易く想像がつく。
御方はこちらを見なかった。声が聞こえていないのではないか、という素っ気なさで、陶器人形のような端正な横顔をつんと背けている。そこから言葉が紡がれたのも、よくできた絡繰りを思わせた。
「白狐は綺羅に約束させた。“騒動は影家の内々のみで収める”と」
こちらがたじろぐほどの冷ややかな声。御方はここでないどこかを見ている。
「私は影家の血も引いていないし、影家に嫁いだわけでもない。私は白狐という男に嫁いだ。結婚当初、影家と冴家でそういう誓約をした。あの夫はそれを逆手にとって、影家に無関係の私が死罪にならないよう綺羅にああいう限定的な約束をさせた」
「……」
そうして守られたというのに、彼女は少しも嬉しそうではなかった。無機質な表情に、憤りのような感情の片鱗がちらりと過る。怒っている顔すらこの人は美しいのか。
彼女に聞こえないよう真弓が耳打ちするところによれば、御方は、当時の望家の儲君──現在の皇帝にあたる男──に密かに目を掛けられていた、という。
白狐さんを失脚させた後、あわよくば未亡人になった御方を自分の後宮に──そういう下世話な思惑も少なからずあったのだろう。
なるほど。都の門衛が皇帝の名の下、冴家の御方をあっさり通したのはそうした経緯のためか。俺は知らず顔を顰める。
しかし、下世話とはいえよくありそうな話だ。権力の潮流から言えば皇帝の傘下に保護された方が身の安全は保障されるだろうに、御方が今も独りなのは白狐さんとの操を守ったことにほかならない。愛、というか、一途だ。
勝手に感心している内に、全てを見透かす目で、御方は柳のように細い眉を顰める。如何にも、一番言われたくないことを言われた、というような、静かに逆鱗に触れた表情だった。
「一途に尽くす価値もないわよ、白狐は」
「え」
「自己犠牲は、責任ある大人がやっていいものじゃない。それで妻を守ったつもりになるなんて、お笑い草だわ」
思わぬ辛辣な物言いに、俺はちょっと気圧される。
白狐さんがどういうつもりだったか知り得ないが、家の存亡が危機に瀕する状況で、自身の伴侶に危害がないようぎりぎりで配慮した彼に対し、それはなかなか厳しい意見なのではないか。
それとも、結婚したことのない俺に、発言権はないだろうか。
「男は強くあり女を守るべしとか、女は器量よく男に尽くすべしとか、そういうの嫌い」
「はあ」たじたじと頷くほかない。言いたいことは分からなくもないが、きっと実感が湧くにはこちらの年季が足りない。
御方は束の間口を噤み、自分が喋りすぎたことを反省するような苦々しさを浮かべた。眉間に皺が寄せられても尚、白い額はうっとりするような柔らかい曲線を描いている。
やがて彼女は首をこちらに向けた。あの少女のような眼差しに、しなやかで険しい女の強さが覗く。
「もし白狐に会うことがあればこう伝えて頂戴。私は今も昔も従順な妻じゃないわ。貴方の死を見届ける殊勝な心持ちで都に来たわけじゃない。私は私よ。だから貴方も貴方らしく在りなさい、と」
──なるほど芯の強そうな人だ、と思う。そこがいいのかもしれない。




