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明後日の空模様 朝廷編  作者: こく
第十二話 冴家の姫
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 目が醒めたとき、すっかり陽は昇って明るくなっていた。格子窓の透き間が投げ寄越す朝の気配は、目が潰れるほど眩い。

 俺は起き上がれなかった。どこが悪い、というよりは全身が重くて辛い。鉛を流し込まれたよう、手足が思うように動かない。放浪生活の疲労が蓄積され、重たくのしかかっているかのようだった。

 見上げた先に、木の組まれた天井。ここはどこだ、と呆然とし、自分が冴家の正邸にいることをどうにか思い出す。人目に付かない、宴の御道具を仕舞っておく奥の間を借りて、休んでいたのだった。

 壁に仕切られた庇のような一室。御方の私室と通じた廊下との出入り口には擦り硝子が嵌められ、大きな芍薬が描かれている。

 一段高くなった板間、直に寝具を敷いただけの急ごしらえの寝床ではあるが、長らく放浪生活してきた俺にとっては、雨風が凌げる場所で布団に入ること自体が贅沢だ。

 周囲には寄木の美しい衣裳匣や、猫足のついた飾り棚、屏風、琵琶や筝に似た弦楽器、銀の装身具や脇息、彩色の施された陶磁器などあらゆるものが所狭しと並べられている。

 よく手入れされているのかどれも埃ひとつない。古いものに染みついた、何とも言えない乾燥した安らぎが、こんな状況でも落ち着きを生む。俺は腫れた目で瞬きし、まだ起きたくないと布団に貼りついて横着する。


 それでも、のんびりすることが許される立場ではない。

 気力を振り絞って起き上がったところ、余程酷い顔色をしていたのだろう。廊下を出て早々に出くわした真弓に「まだ寝てろ。死体みたいな顔して出てくるんじゃねぇ」などと厳しい口調で一蹴された。

 心配、というより、醜いものを見たくないという本心からの不快感なのだろう。一切遠慮のない彼女に背を叩かれ、俺は仕方なく踵を返して室に戻った。

 そこに置いてある、如何にも高じきな御道具を避け、よろよろ寝具に潜り込み、二度寝と決め込むことにする。

 何にも邪魔されない、深い眠りだった。夢も見ない、ただの濃密な空白。次に目が醒めたのは夕方だった。そのときには幾分すっきりして身体も楽になっていた。


「……うう」


 ぐんと身体を伸ばし、立て続けに二回欠伸をした。起き上がり、鈍った身体を目覚めさせるよう、軽く腕や腰を回して体操する。一日の終わりの光が格子窓の間から差し、宙を舞う金色の塵をゆっくりと映していた。

 鈍い光に照らされ、古い骨董品や陶器、年季の入った穏やかな木の匂いが立ち上る。ふと世捨て人の主の家にあった白狐さんの私室の景色が目蓋に蘇った。灼けた畳の匂いと、埃っぽく濡れた暗がり、細々とした骨董ともがらくたともつかない蒐集物の数々──。

 思えば、彼もこうした古物を集めるのが好きだった。立てかけられた弦楽器の、螺鈿細工の虹色をぼうっと眺め、時折彼がそうした楽器を爪弾いていたなと思い返す。


「夢か」


 布団の上に腰掛け、出し抜けに、そんなことを考えてみるが、そうではないことも知っていた。昨夜、冴家の御方が告げた「夫」という言葉──年端のいかない少女のように、あの澄んだ瞳。

 何度反芻しても、寝ても覚めても、浮かんでくるのは、白狐さんって結婚していたのか……という気の抜けた感想だけだった。

 本人が自称するところによれば、彼は年齢三百を超え、ネクロ・エグロでもそれなりの長命である。朝廷という政治の中枢で生まれ育った男であれば尚のこと、伴侶がいても不思議ではない。

 その相手が八家の門閥貴族のひとつ、冴家の御方であっても、不思議どころか、なるほど釣り合いが取れていると納得せざるを得ない。

 納得せざるを得ないが、違和感はある。そも、世捨て人の家で暮らしていた頃の彼は、そんな素振り全く見せなかった。翔ですら知らないのではないか。


「逆に訊くけど、本当に何も知らないの?」と眉を顰めていた司旦の顔が思い出される。なるほどあれはそういう意味だったのか、と今更気付く。


 世捨て人としてそれなりの期間を共に過ごしながら、俺も翔も、白狐さんのことを何も知らなかったのだ。

 しばらく経ってから、真弓がやって来た。


「お、やっと起きたか」


 ずかずか足を踏み入れた彼女は、片手に銀盤を持っている。


「おはようございます」


「おう」彼女は短く頷き、水の張った銀盤をこちらに差し出す。「顔と手を洗え」


 水は冷たく、きれいだった。両手で掬えば、微かに花の匂いがする。顔から滴を滴らせながら眠気を拭えば、「顔色が良くなった」と言われた。

 間近で見れば彼女の顔立ちは化粧っけがなく、凛々しい。男らしい言動ばかり目立っているが、まあ気が強そうな美人だ。まじまじと見つめられていることに気づき、俺は気まずい横目をやる。


「……なあ、お前。いくつだ?」


「十六」


「まだ子どもじゃないか」


 背がでかいから気付かなかった、と言われ、一歩理解が遅れる。

 そうか、子どもか、と。長らく子ども扱いされなかったので忘れていた。見る人によっては、俺はまだ子どもなのだ。


「親はどうした」


「ちゃんと生きていますよ。多分、ですけど」


「お前を捨てたのか?」


「……」一瞬言葉を失い、辛うじて否定を引き出す。「いや」


 昔は愛してくれていた。今はそうじゃない。それだけのことを口にする気になれず、「どうしてそんなことを訊くんですか」と極力棘のない言い回しで訊ねた。


「御方が気にしていた」


「俺は、ここにいる誰にも危害を加えるつもりはありません」


「ははは、そうか」


 乾いた笑いは、俺が何やら的外れなことを言ったらしいということを示唆していた。


「なあお前。どうしてここに来た?」


「え?」


「大方、白狐様に助けられた、とかだろう。あの翔とかいう()()()も、行き場のないところを拾われたんだろ」


「……はい」一方的に言われるまま、まるで犬猫のような言い方をするのだな、と思う。


「白狐様に恩義を感じて、助けたいと思ったのか?」


「……」


 それは上手く答えられない。正解でもあり、同時に不正解でもある。翔であれば即座に頷いただろうか。


「あたしは気に食わないのさ」真弓は急に立ち上がり、窓の外に目を向ける。上背のある彼女を下から見上げれば、女性とは思えないちょっとした威圧感があった。


「これは朝廷内部の問題であって、お前らみたいに関係のない子どもが首を突っ込んでいい話じゃねえ」


「……」


「何を吹き込まれたか知らねえが、お前らの力を利用しようとした大人がいたってことは分かる。何も知らないことをいいことに、人を手駒みたいに扱うのは許されねえことだし、大の大人が、情けない話でもある」


 それは、千伽のことだろうか。綺羅のことだろうか。それとも、司旦のことだろうか。恐らく彼女はその全てを見透かした上でどこか憤っている。

 何も知らない──彼女は、或いは御方は、昨夜に露呈した俺の無知ぶりに何か思うところがあったのかもしれない。確かに、白狐さんの件に関しては事情を知らないまま無謀なことばかりしているし、そこに付き纏う責任を千伽や司旦が肩代わりしてくれるとは思えない。

 いいか、と真弓はしゃがんで、俺を指さす。ぶっきらぼうだが、彼女なりの思いやりが感じられる言い方だった。


「この国の朝廷に関わるってことは、お前が考えているより重大なことだ。多分、思いもよらない方向に人生が変わる。ここに連れて来たあたしたちが言うことじゃないが、逃げ出してくれても構わねえぞ」


「でも、俺には返すべき借りがあります」


「子どもの力を借りるほど落ちぶれた連中のことなんざ放っておけ」


 俺は何か反論しようと口を開きかけ、やめた。彼女の言っていることは、ある種において正しかった。

 卑怯な手を使って俺を騙した千伽のこと、俺と光を救ってくれた白狐さんのこと。彼らには返すべき借りがあり、同時に俺を少なからず束縛している。真弓の目から見て、そう映ったとしてもおかしくはない。


 ──しかし、俺の原動力はそれだけではないのだ。

 豊隆が俺との意識と繋げた一瞬の交信。まだ終わらない、と告げられた、あの夜。俺は自分でも分からない使命を負った。それを彼女たちに説明することは出来ない。

 それよりも、俺は真弓の、妙にさっぱりした物言いが気にかかっていた。

 この件から俺を遠ざけんとする彼女には、何としてでも白狐さんを助けるという絶対的な意志が感じられなかった。むしろ、助ける必要はないという投げ遣りな節すらあった。


「しかし、冴家の意向としては」俺は、咳払いをする。「白狐さ……様の処刑を阻止したいのではないんですか? そのために御方は入京したんですよね」


 呑み込み難いものを入れたように口籠り、ちらりと窺う。「お二人は、夫婦だったんですよね?」と。


「それは、御方が決めることだ」


 真弓は肩を竦めて見せる。俺は口を噤んだ。他人が介入できない、私的な男女の問題を前にしたような、疎外感。影家と冴家の夫婦関係に何があったのか、俺は知り得ない。


「言っておくが」不意に真弓は苦々しく口を開く。「白狐様は何もしないぞ」


「え?」


「誰かを助けたい心意気は買うが、あの男のために無理をする必要はない。少なくともあたしはそう思っている」


「……」


 真意を測りかね、俺はどこか遠くに投げかけるような彼女の表情を見つめる。それが以前七星(チーシィン)の首が言っていたことと重なるのは、奇妙な一致だった。


「──ま、ややこしい問題は大人に投げて、お前は適当に逃げてもいいんだぜってことだ」


 それだけは忘れるなよ。こちらの肩を叩き、彼女は満足したように踵を返した。「あとで、何か食うもん樟ねてきてやるよ」と言い残された言葉は、幾分優しさのようなものが含まれていた。

 音を立てて閉まる戸。夕闇に染まる室内で、ぽつんと置き去りにされた自分の影。俺はぼんやりと呆けたように、沈みゆく太陽の残光を追う。


 何だか、遠くまで来てしまった──そんな間抜けな実感がようやく湧いてきた。




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