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明後日の空模様 朝廷編  作者: こく
第十二話 冴家の姫
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 秘密を抱えた一行が都についたのはその日の夜遅くだった。

 広寒清虚とは月にある伝説の都に準えた美称であり、正面の櫓門への橋は銀陛(ギンヘイ)──銀の(きざはし)と呼ばれる。真っ白な石畳が敷き詰められた橋は、がらんとだだっ広く、星明かりを静かに弾いていた。夢と現を繋げる、幻の架け橋のようでもあった。

 遠く、松の梢の先端の向こうに塔のような建築物が垣間見える。敵が都に近付かないよう昼夜監視する哨戒塔である。石造りの外観は、都が持つ煌びやかなイメージには遠く、どちらかといえば不愛想な佇まいだった。

 水の流れが足元から響く。都と外界を隔てる、民河の支流。長い長い、緩やかに弧を描く橋を渡り、一行は焦るでもない足取りで都の櫓門へと差しかかった。


 皇国の全ての人が住む邑、都市がそうであるよう、清虚の都もまた城郭に囲われているが、その門の規模は今まで見たどの城市よりも堅牢だった。

 それは門というよりも、ひとつの建造物だった。柱の一本一本は両手で抱えきれないほど太い。見上げるほど高い石積みの土台に、三層ほどの城楼が建てられている。北側と南側にそれぞれ砦じみた棟があり、こんな時間でも皓々と明かりが灯っていた。

 土台に埋め込まれるようにして造られた観音開きの門には、複数の門衛が立っている。篝火に照らされ、暗がりに並ぶ彼らは、機械的で生気を失った置物に見えた。がらがらと車輪の音を鳴らし、二頭立ての馬車は櫓門の手前で脚を止める。

 白木の馬車に付き従う女性の一行から、一人が前に進みでた。男たちに何事か話し、頷く。門衛は先頭の旗手が持つ水色の旗を見て、目線で他の二人に合図をする。


「当今皇上から、冴家の御君は如何なるときもお通しするようにと言付かっております。どうぞお通り下さい」


 許しが下りると、行列の中にいる仗たちがそれぞれ首を垂れ、帯刀していた太刀を外して足元に置いた。それが入京する際の礼儀らしかった。一人の長身の仗が震える手で太刀を置き損ない、かしゃんと乾いた音を立てる。


「……」


 門衛が胡乱げな眼差しを寄越すが、長身の仗は何食わぬ顔でその場に太刀を置き直し、行列に戻った。その横顔が必要以上の緊張で強張っていたことも、よく見れば多少の化粧では誤魔化しきれない性別の錯綜があったことも、夜闇に紛れて彼らの目に留まらなかったようだ。

 きいい、と。ひどく重々しい開門。巨大な生き物が夜の向こうでゆっくり動き出すような、息を殺した軋みと、その分厚さに圧倒される。如何にも遅鈍そうな観音開きの戸が縦に割れる。表面に打ち留められた金属板が、ぬめりと黒光りした。

 門がゆっくりと開かれるにつれ、左右に重々しい旋風が生まれる。馬たちの白い毛並みが逆立った。同時に馬車の垂れ布が大きく靡き、それとなく目線がいく。


「──」


 無言の緊張が走った。しかし、周囲の付き人が慌ててそれを押さえるわけにもいかない。行列の一行が門衛の前で不自然な挙動をすることは、馬車の中に隠しているものを見られるのと同じくらいまずかった。

 固唾を飲み、どうかこれ以上風が吹かないようにと祈る。彼女たちの目線の端で、薄絹の垂れ幕はひらひらと優雅な波形を描いた。中ほどまで門を開けたところで、門衛は眉を下げて言う。


「ご無礼をお許しください。風がお強かったようで」


 誰も、何も言わない。強張った沈黙の中、白木の馬車は再び動き出す。鈍く、痺れるような緩慢さだった。

 がらがらがら、と。ゆっくり車輪が軋み、転がる。しめやかに、足音を殺して女性たちが続く。冴家の旗が垂れ、後ろに波打つ。

 門衛に見送られ、物静かな一行は真夜中の都へと足を踏み入れて行った。




 ***




 生きた心地がしなかった──震える指先をさり気なく握り、俺は前を向く。

 そろそろ日付が変わる頃合い。ようやく入京を果たした俺たちは、どこか陰鬱に軒を連ねる街並みを抜け、冴家の邸へと向かう。

 笠で顔を覆っていたので、都の中を具に観察する猶予はなかった。ただ、都という言葉から連想される碁盤の目状に整備された神経質な景観と、こんな時刻にも関わらず明かりの灯った繁華街の賑わいは窺えた。

 空気はしっとりと重く、生々しい。遠く、微かに聞こえる人々の喧騒と、脚の疲労と、暗がりの路の奥行きは、現実的な質感を帯びている。ああ、都へ来たのかと俺は漠然と耽った。

 まさか、女装という形で潜入するとは思わなかったが。


 正邸は、人気のない、都の北東側にあった。不夜の城下は遠く、篝火の焔のほか動くものはない。辺りはしんと寝静まっている。

 斜面になった馬車路を登り、邸の門を潜って、一行は玉砂利の敷き詰められた方形の前庭で脚を止めた。真っ白な玉砂利と、青い暗闇に満ちる正邸はまるで海の底に沈んだ神殿を思わせた。


「……」


 邸の骨組みは白木であろうか。彩色の施されていない木肌の瀟洒な雰囲気は、司旦が語っていた影家のそれにも近いように思えたが、木のぬくもりというより冷ややかで無機質な印象のほうが強い。

 屋根を支える木組は幾何学的で美しく、青みがかった瓦が葺かれている。太い柱には緻密に鱗が彫られた蛟がぐるりと絡まっている。正面の陛を上がれば、前庭に面した単廊が左右対称に横伸び、人が住む邸宅というより、やはり厳粛で宗教的な趣があった。

 御方は、おもむろに用意された敷布を踏んで輅から降りる。するり、と繊細な宮廷衣裳の裾を引き、近習の女性を引き連れ、さっさと妻戸を通って邸の中へと入ってゆく。

 俺もそこに付いていくつもりで足を踏み出しかけるが、別の仗に腰元を引っ張られた。


「わたくしたちは、入るところが違いますゆえ」


 耳元で囁かれる。彼女は人目を気にする素振りでさり気なく俺を誘導した。顔を伏せ、仗たちは渡殿の下を通り、身分の低い者たちのための裏戸から邸に入った。彼女たちの自然を装った早足に、この場所ですら安全でないのだと悟る。

 ちらりと目線で前庭に残した馬車のことを窺えば、大丈夫、と彼女の唇が無言で動いた。そこに隠れ伏している相棒と司旦のことが心配だったが、今はどうすることもできない。あとで合流しなければ、と思う。


 仗に先導されるまま薄暗い邸内を進む。離れた一角がにわかに騒がしくなり、続々と明かりが灯った。御方の御帰り、と迎えに出た女官たちの慌ただしさがさざ波のように広がる。

 そんな騒ぎには目もくれず、俺は数人の仗たちと板張りの閤を潜り、土間敷きの牀下から粗末な階段を上って、狭い通路を抜ける。人が一人通るのがやっと、という窮屈な横幅。その割に重厚な造りの廊下が、蛇のようにずっと続いていた。


「隠し通路で御座います」


 先頭の仗が平然と教えるので、俺は笠の下で面食らう。そんな忍者屋敷みたいな、と声を出しかければ、押さえるように咎められた。

「壁の一部を薄くして造っているのです。外からの敵襲に備えた警備の通路ですので、内部のものはほとんど知っております故、大きな声は出しませぬよう」

 はい、すみません。無声音で謝罪し、彼女に続く。

 通されたのは、邸の西に造られた離れだった。脚を踏み入れると同時に、木の匂いのほか、着物に焚き染められた香の匂いと白粉の匂いが混じり、化粧品を売る煌びやかな区画に迷い込んでしまったような居心地の悪さを覚える。


「……」


 天井から釣り下がる金属の照明具が、白んだ薄明かりを投げかけている。遠慮がちに辺りを窺えば、そこに見えたのはやはり女性ばかりだった。

 白壁を挟んだ一室は冴家の御方が暮らす私室と見え、二、三人の女性の近習が着物を持ったり、水盤を運んだりとてきぱきと動いている。銀糸で縫い取られた華やかな絹の帷が垂れ、その向こうには寝室があるらしい。

 御方は寝椅子に寛ぎ、近習に髪の毛を解かれていた。色白の顔はやはりつんと澄まされ、華奢な体躯ながら女王の風格がある。結っていた頭髪を下ろせばしどけなく無防備な姿になり、宮廷衣裳の襟元は僅かに緩み、俺は何だか見てはいけないものを見てしまったような背徳感を覚える。


「おい、いつまでそこに突っ立ってんだよ」


 鋭い声に思わずびくりと肩を震わせ、周囲から苦笑を買った。御方の傍にいた真弓が顔を顰め、とっとと笠を脱げ、と舌打ちをする。


「ここは本来男子禁制なんだよ」つかつかと歩み寄ったかと思えば、真弓は俺の胸に指を突き立てた。「……あたしの言いたいことは分かるな?」


「はい……」


 肩を窄めて、返事。ならば宜しい、と真弓の背が遠ざかる。笠の紐を解き、そういえば俺も顔を洗いたいなぁとぼやく。顔に貼りついた化粧が乾燥し、そのまま剥がれ落ちそうだ。頃合いを見計らったように、小柄な女官がこちらに顔を出す。


「湯汲の支度が出来ました」


「俺が入ってもいいんですか?」自分を指さすと、「その汚え格好で御方の前に出る方が失礼だ」と真弓から顎をしゃくられた。


「翔と、司旦は」


「放っておけ。少なくとも、今のてめえがどうこうできる訳じゃない」


 確かにそれはそうなのだが、俺は返す言葉もなく、ただ足踏みする。

 躊躇いつつ、案内されたのは屋内に備わった板張りの小さな湯殿だった。

 床に半ば埋まる格好で、井戸のような丸い湯船があり、一段高くなった畳の上に剃刀や石鹸、鋏、着替えなどが用意されている。規模から見て、冴家の女官たちが使うような、簡素なものだ。隠れて使うので、照明はほとんどない。

 とはいえ、温かい湯に浸かるのはいつ以来だろうか──。


 熱い湯と石鹸を使い、俺は喜んで全身をごしごしと洗うことにする。髪の毛から脇、足の裏まで、泥も血も垢も、その他よく分からないまま幾重にもこびり付いた汚れも全て洗い流すのにかなり時間がかかった。耳の中まできれいにすると、随分さっぱりしたように思える。

 室内が暗かったので、剃刀はほとんど使わなかった。剃るべき髭もなかった。こればかりは鱗の肌に感謝しなければならない。湯船に浸かりながら、行燈の灯りに腕を翳して、自分が驚くほど痩せていることに気付く。

 はあ、と大きなため息。外に聞こえるのでは、と慌てて口を塞ぎ、湯船から上がる。身体を拭いて、手早く着替えを済ませ、冴家の御方の居室に戻る。真っ暗な廊下はしんと静まり、寒いくらいだった。

 俺が戻ると、気掛かりだった翔と司旦はまだいない。髪を拭きつつ目線をきょろきょろさせていると、「あいつら、ここに来ないと思うぞ」と予想外の言葉を投げられ、瞠目する。


「え?」


「あたしがここにいるからな。司旦なら、ここよりもっといい隠れ場所を知っていんだろ。あいつ、こそこそするのだけは昔から上手かった」


 あっけらかんと言う真弓に、俺は首を捻った。「仲が悪いんですか?」


「さあな。お互いがお互いの小姑みたいなもんさ」


「悪いんですね」


 小姑? と内心で反芻しながら、俺は周囲に目を向ける。もう他の者は下がらせたのか、寝椅子に身体を委ねる御方と、真弓のほか室内には誰もいない。既に日付を越えた、真夜中。停滞した空気が重苦しく、よそよそしい。


「今日はもう、休んだら」


 手持ち無沙汰に立ち尽くす俺に、御方はちらりと横目をやる。遠回しに、寝床すら用意してくれたらしいと察する。男嫌いだという彼女にしては、こちらを気遣ったほうなのだろうか。

 どう返事をすればよいか分からない。俺は未だに、この人のことをよく知らない。


「あの」逡巡しつつ、顔を窺う。目は合わなかった。「俺はこれからどうすればいいんでしょうか」


 自分の指針を求めたというより、彼女たちが俺に何を期待しているのか分からなかった。

 ここまで俺に肩入れするということは、それなりの見返りが求められているに違いない。それに応えない限りは、ここから出ることも叶わないのではないかと半ば本気で考えたほどだった。

 ところが、彼女はこちらの心情などまるで興味もなさそうに言う。


「別に、好きにすれば」


「そんなことを言われても」


「こっちはただ連れて来ただけだから、あとは知らない」


 ふい、と逸らされた顔。どうやら本気で言われているらしい。ますます分からなくて、面食らう。

 高貴な猫のように澄ました御方だが、決して気まぐれなどで動く浅はかな女ではないというのは見て取れる。

 彼女の背骨にはきっと、社会の正義や倫理とは別の、信念のようなものが通っている。彼女はそこから外れたことは絶対にしないし、価値観にそぐわないものは必要以上に嫌悪する。何というか、徹底している。

 そんな彼女が素性の知れない俺たちに手を貸した理由は何だろう。


「あの、あなたたちは、何のために入京したんですか」


「無礼だぞ」真弓が不愉快そうに咎めるが、俺はそちらを見ないでおいた。もしや知らない内に罠に嵌められているのでは、という疑念がないでもなかった。


 青い、目。化粧を落とした御方の面はどこまでも白く、透明感がある。ちらりと目線が合い、すっと背ける。その刹那、彼女の少女のような無垢な心が透けて見えた気がした。


「──夫が処刑されるか否かの瀬戸際にいるのに、妻が黙って見ている訳にもいかないでしょ」


 聞き間違いかと思った。俺は鸚鵡返しにする。「おっと?」


「白狐よ。私の夫。……何か悪い?」


 はあ、と。気の抜けた声。分かったならもう寝れば? と顔を逸らす彼女は、物静かで、冷ややかな表情をしている。




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