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明後日の空模様 朝廷編  作者: こく
第十二話 冴家の姫
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 水の中では全ての音がくぐもって聞こえる。飛沫も、獣の怒声も、翔や司旦の叫びも、遠い世界の出来事のようだ。俺は目を開き、頭上で揺らめく青い水面の光を見た。

 崖上から滝壺まで一気に流されたのだろう。細かな水の泡が踊り狂っている。上から下へかかる水流が強く、なかなか水面に浮上できない。俺はもがくように手足を動かし、水底を蹴り、力の限りに泳いだ。

 流れを逆手に取り、滝壺からどうにか脱出する。息が苦しくて目を白黒させていると、目先の水面から手が差し出された。陶器のように生白く、肘から生える獣の白毛が水中で波打っている。五本指の爪先は血のように赤い。

 深く考えることはせず、俺は懸命に腕を伸ばす。手と手が触れ合った途端、ぐっと掴まれ、力強く持ち上げられた。俺は大量の水飛沫とともに岸辺に打ち上げられる。


「ぶへ、げほっ……あ、ありがとう」


 咽せながら鼻に入った水を拭い、途切れ途切れに礼を言う。軽々と俺を一本釣りした玃如は、何てことはない、とでも言いたげに鼻を鳴らし、やがて離れてゆく。振り向けば、共に落下した玃如が器用に河を泳いで対岸へ向かっていた。

 もう、こちらには戻らないだろう。滝の上から様子を見ていた玃如たちの大群が、一頭一頭踵を返し、走り去ってゆく気配を感じる。彼らはもう役目を負えたのだ。

 しかし──。


「皓輝、無事で良かった」


 ひらりと地面に降り立った翔がこちらへ走ってくる。俺たちは同時に、あの肉食獣を探した。

 荒ぶる水面から顔を出している孟極は、可哀想なほど惨めな濡れ鼠になっていた。泳げない訳でもなさそうが、好んで水泳をしているようにも見えない。

 翔が無言のまま槍に手をかける。孟極は翔の敵意を感じ取っただろうか。浅瀬に向かってもがく青い目が炯々とこちらを睨み、俺は思わず一歩下がる。背筋が泡立つような緊張が走った。

 そのときだった。


「止まりなさい」


 鈴が鳴るような、女性の声だった。

 振り向けば、あの白木の馬車の一行が河畔に脚を止めている。それはまるで絵巻物の一場面のような光景だった。

 全員がその場でしめやかに跪いている。馬車に付き添う女従者たちも、護衛も、恭しく首を垂れている。薄水色の旗がひらりと靡く。獰猛な霊獣が傍にいるというのに、彼女たちにとってそんなもの些事といった静けさだった。


「そこの異民族(フアン)よ。槍から手を離しなさい」


 翔が弾かれたように震え、気まずそうに手を彷徨わせる。馬車の垂れ布が持ち上がり、そこから細い人影が浮かんだ。縁取られた着物の錦糸がきらりと光る。

 孟極が岸辺に這い上がり、濡れた毛を逆立てる。それすら気にならないほど、垂れ布を捲って現れた佳人の姿に目を奪われた。

 すらりと華奢な背丈で、儚げな夕顔のように小さく、白い顔している。どこか少女のあどけなさを残しながら、女王のような風格もあった。薄い香水を思わせる色気があり、気の強そうな眉と、控えめな化粧が似合っている。

 佳人の体躯は不健康なほど弱々しかったが、真正面から目が合うとはっと思いがけない芯の強さが感じられる。二つの瞳は驚くほど奇麗だった。奇麗という言葉は、この人のような病的な美しさにこそ宛がわれるべきだと思った。


「──……」


 佳人の目は、俺と翔のことを興味なさそうに一瞥した後、河岸で身を低くして唸っている孟極へと向けられた。濡れそぼった獣を静かに見つめ、何も言わない。眼差しは氷のように冷ややかで、何かを咎めるような傾きがあった。

 う、う、と孟極の唸りは苦しげな嗚咽を彷彿とさせる。もし獣に葛藤というものがあるなら、孟極はそういった相反する感情の板挟みになっているように見えた。牙を剥き出しにし、目を充血させながら、それでも佳人に噛みかかろうとしない。否、出来ない。


「……」


 俺は、途端に不思議な既視感に襲われた。以前にも、似たような窮地を救われたことがあった。得体のしれぬ猛獣に襲われたとき、この世のものとは思えない、神秘的な人が現われて──俺と光を救った。それが、白狐さんとの出会いだったのだが。

 その佳人の沈黙は静かに、しかし有無を言わせぬ頑なさで、獣の敵意を削いでゆく。孟極に出来ることはなかった。白い体毛に覆われた尾を低くし、悲しげに鼻を鳴らした。


「去りなさい。私たちはあなたを傷つけない」


 佳人の声は抑揚のない歌を思わせる。清らかな水が流れるように、静かに耳元を通り過ぎた。孟極は最後に哀れっぽく鳴き、素早く翻って急斜面を駆け上ってゆく。草むらに紛れ、神域の境を飛び越え、その姿はあっという間に見えなくなった。

 あとには、俺たちだけが残された。

 佳人の眼差しがゆっくり持ち上がり、立ち尽くす俺たちを捉えた。咄嗟に俺は顔を伏せなければという畏怖の念に駆られる。

 その人形じみた無表情には、遠くから羨望の眼差しを投げることだけを許す、男への拒絶感と微かな軽蔑が滲んでいるのがちらと見えた。


「……」


 佳人は何かを言いかける。小さく口を開き、一度閉じた。そうして、ようやく一言だけ細く、紡いだ。


「司旦、そこにいるの?」


 がさ、と草を踏む音。滝壺の脇に、司旦が棒のように立ち尽くしていた。信じられないと言った表情を浮かべ、佳人の顔に釘付けになっている。言葉を失った唇が僅かに震えているのが見て取れた。


「さゆ様……」


 呟いた声は、河の流れに掻き消される。しかし声など必要なかっただろう。司旦は馬車の前まで転がり出たかと思えば、拳を地面に着け、勢いよく地面に跪いた。動揺か、緊張か。微かに震えながら、目の光は強い。


「司旦」佳人の声は抑揚に欠けていたが、このときばかりは幾分かの感動のような揺らぎが混じっていた。


「無事だったのね」


「……」


 司旦は、万感を噛み締めるといった様子で、息も絶え絶えに頷く。

 俺と翔は驚いていた。この人が一体何者なのか定かでないが、司旦がこうして誰かに自分から膝を屈するのが意外だった。過去を語ったとき、また或いは七星(チーシィン)の首に着いて語ったときの司旦の口ぶりは、司旦が白狐さん以外のほかの何者にも心を許さないことを示唆していた。


「さゆ様、一体どうしてこんな場所に……」司旦は佳人を見上げ、困惑を覗かせる。


「……」


「都へ……?」


 司旦の声が上擦る。何かを期待し、同時に怖れている響きだった。佳人は静かに瞬きをする。水際の花が震えるような、美しい仕草だった。


「司旦は、何故ここに?」


 佳人は最後まで言わなかったが、投げかけられた眼差しは俺と翔が何者であるか問いかけていた。司旦は俺たちをちらりと振り返り、口籠る。何から話せばいいのか糸口を探しあぐねている。


「──話せば長くなるのですが」


 一言前置きし、司旦は俺たちに前へ出るよう目配せをした。俺たちは躊躇し、顔を見合わせる。

 背後に滝音が聞こえ、河が土手の間を流れ下っていた。街道から外れた森の中は湿り、匂いは青々と馨しく、整然としている。木々の隙間から光が差し、木の根元に群生する小さな花に陰をつくっていた。

 俺たちは許しを得て、地面に腰掛ける。敵対するのでなければ、さしあたり彼女たちに従うのが賢明だと思った。

 佳人のことを俺たちに紹介したのは、司旦だった。


「さゆ様は、冴家の姫だよ。御方と呼ばれることが多い」


 大陸の北方を治める冴家──上流貴族八家のひとつである。

 冴家の若き当主の姉、かつて傾国とまで評された姫──名前はない。大抵「冴家の御方」と呼称される彼女はひどく厭世的で、滅多に公に姿を現さないことで知られる。男嫌いで有名なんだよ、と司旦は小さな声で言い添える。

 しかし、彼女にも例外はあった。親しい間柄では家名をとって「さゆ」と呼ばせ、ささやかな人間関係に憩い、北の地で静かに暮らしている。

 そんな冴家の御方が、この騒ぎに乗じて上京するというのである。煌びやかな行列をつくり、幾日もかけて。その道中に二度も遭遇したことは、偶然や運命というより玃如たちが仕組んだとしか俺には思えなかった。


「……」


 俺にとって冴家の御方こと、この佳人はたまたま街道で出くわして施しをくれた不思議な人でしかない。司旦が何の躊躇もなく、自分たちがここにいる経緯を洗いざらい説明する様子を座って眺めながら、この女性が信用に値するのか、味方になり得るのか否か判断しかねていた。


 ──それにしても、本当に奇麗な人だ、と密かに見惚れる。

 顔立ちは派手ではないし、どちらかといえば飾り気がなく控えめな印象すらあった。無駄がない、とでも言えばいいのか。小さな夕顔の花のような白皙に、青い目がくっきり際立つ。絹糸のような髪は煌びやかに渦巻く蛟の髪飾りに結い留められ、そこから長く三つ編みにして垂らしていた。

 身に着けているのは、女性らしい典雅な宮廷衣裳。水色の繻子の上に細かな透かし模様が施された薄絹を重ね、首元を上品に飾る真珠が花の縫い取りと触れ合っている。襟元や袖口の繊細な編み飾りには蜘蛛の糸のような金糸が織り込まれ、その人が動くたびにきらきら輝いた。

 ほっそりと華奢な体躯は今にも折れてしまいそうなほど弱々しいが、衣裳の重みに不思議と釣り合っている。それは彼女自身の意志の強さの表れなのかもしれない。

 彼女は、姫という言葉から連想される、男から守られるか弱い生き物というイメージからは縁遠かった。むしろ、そういった境遇を自ら跳ね返そうという反骨精神のようなものすらあった。男嫌いだという評判を反芻し、俺は彼女の弱さと強さを内包した佇まいと見比べる。


 司旦は包み隠さず、冴家の御方に何もかもを打ち明けた。自身が千伽と共謀していたことのみならず、俺とコウキの姿が似通っていること、雰王山や玃如の件まで丁寧に説明するので冷や冷やとする。

 彼女は馬車の中で寛ぎ、口も挟まず司旦の話を聞いていた。そして最後に、「そう」と短く言った。


「それで、都に行くの」抑揚がなく、問いかけというより独り言のようだ。


「はい……」


「そう」


 沈黙が落ちる。司旦は首を垂れていたが、耐えかねたように小さく口を開く。


「さゆ様は、どうして都へ?」


 問いは静けさに溶け込み、御方が答えることはなかった。答えるつもりはないといった頑なさだった。河辺の風がそよりと吹いて、宮廷衣裳の袖口が揺れた。


「司旦、俺たちには何が何やらさっぱり分からないんだけど」


 翔が不躾に横槍を入れるので、視線が集まる。馬車の下に控える女従者たちの中には、揶揄するように目配せし合う者もいた。


「何が?」


「その人が何者で、どれだけ信頼に値するのか、分からないんだよ」


 注目に怯みつつ、翔はともすれば無礼とも取れることを率直に言った。御方本人や従者たちよりも、司旦が先に眉を顰める。


「言っただろ、冴家の姫だよ」


「そうじゃなくてさ」


「逆に訊くけど、本当に何も知らないの?」


 翔はむっとして唇を尖らせた。


「知らないよ。こっちは長遐育ちの田舎者なんだ。冴省なんて今まで足を踏み入れたことだってなかったし」


「じゃあ知らなくてもいいんじゃない」


 司旦は投げ遣りだ。じゃあ、という理屈は分からないが、すなわち俺たちには知る価値がないということなのだろう。

 とはいえ納得がいかないので、俺も翔の率直さに倣うことにする。


「味方だと思っていいのか?」


 司旦はひとつ瞬きして、平坦な声で答えた。


「少なくとも、俺にとっては」


 そうか、と頷く。朝廷で司旦の味方になり得る影家以外の人物がいるとは思わなかった。


「で?」別の声が割り込んだので、俺たちは顔を上げる。一歩前に進みでたのは、背の高い女従者だった。俺は彼女に見覚えがあった。


「お前らは一体どうやって都へ行くつもりだ? そんなに汚え格好で」


 逞しい体つきに、短く切り揃えた髪。気が強そうな目元に軽蔑のようなものが滲んでいる。そう、あのとき俺に叱責を浴びせた女従者だった。

 彼女が前に出ると、司旦はあからさまに顔を顰める。それは顔見知りに対する、親しみと無遠慮が混じった態度だった。


「失礼だな、真弓(シンキュウ)。こっちは死にかけながらここまで来たんだよ」


 司旦の言い方は一切の誇張もなかったが、真弓と呼ばれた女従者は鼻で笑っただけだった。


「白狐様を助けたいってのは分かるが、無計画で都に乗り込むのは感心しないな。お前はそんなに馬鹿じゃないと思っていたんだが」


「……」反論はない。確かに勢いだけで進んできたのは否めなかった。司旦はばつが悪そうに手を後ろで組んでいる。


「位階もなく、虎符でもなけりゃ都の警備を潜り抜けるのは容易じゃない。おまけにお前は今、あのコウキとかいう近習のせいで叛逆者扱いされているんだ」


「待て。コウキたちはどこにいるんだ? 朝廷にいるのか?」


 思わず口をつく。真弓は如何にも不愉快そうな顔をしたが、「そうだ」と低く応えた。


「先日白狐様はコウキに捕らえられ、皇帝の手に落ちたと聞いた。まだ処刑されたという話は聞こえてこない。恐らく、皇城内に捕らえられているんだろうさ」


「……」


 まだ、という言葉が重くのしかかる中、俺はコウキが朝廷にいるという事実を一人噛み締めていた。


「表立って都の門を潜るのは難しいんだな」突然翔が閃く。「じゃあこの行列に紛れて上手く入り込めないかな?」


 冴家の一行と行動するという提案は、ある種の賭けのようなものだった。俺は、翔が彼女たちを頭から信用してそう言った訳ではないということを分かっていた。そして同時に、それはなかなかの名案だと思った。


(くるま)の中に隠れられないだろうか」


 俺は便乗し、御方が腰掛ける馬車の中をちらりと見やる。無論、「汚え恰好」の俺たちが御方の輅に入ることは許されないだろうし、そもそもこの人は俺たちのような者とは共謀しないだろうな、という半ば諦め交じりの提案ではあった。


「三人は無理だと思う」御方は冷静な声で言う。「二人なら、詰めれば隠れられるかしら」


 俺たちが中に入ること自体は問題ないらしい。あのときの金飾りの施し然り、近寄り難い高嶺の花というは飽くまで見た目から連想されるイメージでしかないのだろうか。

 尤も、司旦と真弓は馬車の中でぎゅうぎゅうになる光景を想像し、顔を顰めてはいたが。

 俺は、如何にも礼儀正しそうにそこらで控えている女性たちを見回す。護衛らしき者も含め、合わせて十四名。冴家が抱える付き人なのだろう。俺は彼女たちを遠慮がちに指さす。


「一人を従者の恰好にして紛れるのはどうだろう?」


「それは厳しいだろうな」司旦は首を横に振る。「さゆ様は男嫌いで有名なんだ。従者に男を入れるなんて有り得ない。すぐバレるよ」


「じゃあ、いっそ女装するしか……」


 一斉に、視線が集まる。俺は自分が口を滑らせたことに慌てた。


「おい、不可能の比喩として言っただけだぞ。俺は別に──」


 両手を前に振るこちらに、司旦は肩を竦めてみせた。残念なことに、その目は本気だった。


「やるなら言い出しっぺだな」


「嘘だろ」




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