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明後日の空模様 朝廷編  作者: こく
第十二話 冴家の姫
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 玃如(カクジョ)たちの毛並みが太陽の光を受け、燦然と雪原を波打つ。大気は薄く、澄み切っている。俺たちを背に乗せた霊獣の群れは緑の高原地帯を越え、更に標高が高い、万年雪が堆積した山間の分厚い氷河の上を駆けていた。

 眩しいほど鮮烈な青空の下、真っ白に光を散らせる雪原とトルコ石のような氷河湖はこんな状況ながら美しい。

 しかし、それよりも吐く息すら凍りつく恐ろしい寒さに歯をがたがた鳴らさないようにしなければと。そればかり考えていた。うっかり口でも開けば舌を噛みかねない。

 この玃如という霊獣たちの体力は尋常でなかった。走り始めてから一秒たりとも休んでいない。断崖絶壁を悠々と越え、広大な平原を横断し、まだ白雪が薄く残る渺茫とした氷河をものともせず横切ってゆく。

 厳しい風に身を低くし、奥歯を食い縛る。舞い上がった雪がまつ毛や髪を氷結させた。目が潤み、涙すら目尻を伝って筋状に凍りつく。昨日の朝、遥か彼方に見えた青い山脈に今まさに到達したという事実より、一面の氷の景色に絶句し、何も言えない。

 びゅうびゅうと吹き抜ける風だけが刃物のような鋭さで耳元を切り裂いていく。鼓膜の奥まで冷え切って、あまりの痛みに頭蓋骨までがんがんした。しかし手で押さえることもままならない。とにかく振り落とされないよう、玃如たちの鬣を掴むのに必死だった。

 翔や司旦も、どうにか無事に付いてきているらしい。身を低くしたとき、僅かに後方で揺れる影が見える。


「──」


 声なく吼える。俺が乗る玃如が、一際力強く後ろ脚で雪の地面を蹴った。途端に身体が重力を失い、気付けば僅かに崩れかけた氷河湖の手前に着地していた。

 無理だ、と血の気が引く。既に吹き付ける寒風のため顔色は失っていたが、首筋まで冷え切るような恐怖に襲われる。

 次の瞬間、玃如は鮮やかに宙を飛んでいた。目下には、宝石のような氷河湖がある。息が止まるほど美しいが、絶対的な死の予感と寒気も伴う。落ちれば助からない。分かっていながら、極限まで透き通った水色は魂を惹きつける。

 ひゅ、と口を開けて息を吸おうとしたが、上脣と下唇が凍りついていて叶わなかった。がくんと身体が揺さぶられ、玃如の前足が氷河湖に浮かんだ氷に着いたのだと分かる。重みで沈む前に、再び後ろ脚がバネのようにしなる。流氷の上を飛ぶなど、全く生きた心地がしなかった。

 背後からばしゃばしゃと激しい水音が立て続けに起こる。玃如の群れが健脚を競い、一斉に流氷を渡っているらしい。険しい山岳で生きる霊獣にとり、こんな危険な光景は日常茶飯事なのだろうか。

 心臓が縮まるような道なき道を飛び越え、雪崩れ込むような勢いで巨大な氷の隙間に身体を滑り込ませる。暗い。鼻から吐いた息が白く広がる。


 玃如たちはようやく、速度を緩めた。


 そこは氷河洞だった。氷が鍾乳洞のように成長して身を寄せ合う入り口付近を抜ければ、内部は驚くほど広い。百を超える玃如を飲み込み、尚も空間の奥行きを感じさせる。暗さに慣れれば、中の様子をぐるりと見回せる。


「うわあ、何だこれ」


 広々とした洞窟に、翔が驚嘆の声を上げる。寒さのためか、喉がしゃがれていた。声が反響し、洞窟の奥にまで広がっていく。

 青い。太陽に晒されて目に突き刺さるような色ではなく、陰の奥からひっそり沁みいる深い青色だ。ドーム状に広がる内部は何もかも水晶のような巨大な氷でできている。不思議な凹凸のある表面は滑らかで、淡い光を透かして神秘的に煌めいた。


「これ、全部氷か?」


 司旦が色のない唇で呟く。その喉元が不自然に震えて何かを堪えているのは、寒さのためだけではないだろう。氷の洞窟は、自然の神秘という一言では片付けられない、身体から溢れ出んばかりの畏怖を湧かせた。

 俺も声が出せない。舌で口元を溶かし、がさがさになった唇を舐めたが言うべきことが何も思いつかなかった。この痺れるように澄んだ空間では、どんな言葉も形容も陳腐で穢らわしいものになるような気がした。

 外では風がひゅうひゅう鳴いている。氷に囲まれているので空気は冷ややかだが、風を避けられるだけ幾分ましに思える。俺は玃如から降り、すっかり寒さで強張った自分の顔を揉んだ。皮膚が弾力を失い、ただただ凍傷一歩手前の痛みに痺れている。

 玃如の一群は氷河洞の中で休むことに慣れているようだった。あれだけの距離を駆けて、息を切らすこともない。それぞれが立ち止まったり徘徊して、時折低いところの青い氷を舐めたりしている。


「ここの氷は口にしない方が良さそうだな」


 震えながら地面に降り立った司旦が、自身の肩を抱いて言う。同感だった。この美しい氷河はあまりに長い年月をかけて形成されている。降り積もる雪の重みに圧縮され、余計なものを外へ染み出し、純な真水と神気だけが凍りついて濃縮されている。生身の人間が口にして安全とは思えなかった。


「また蛇でも生まれちゃ困るからな」翔の口から漏れた、囁きにも似た笑いは白くなる。


「蛇?」


 司旦は訝るが、俺たちは答えない。


「それにしても、あとどのくらいで神域を出られるんだろうか」


 話題を逸らす訳でもないが、俺は氷河洞の奥へと目をやる。俗世の空気が近付いているのは確実だった。しかし、こんな険しく現実離れした地帯を通るとは思わなかった。


「玃如たちはきっと外に出る道を知っているんだろうな」


 翔もまた洞窟の奥から微かに感じる隙間風の匂いを嗅ぐ。先がどこに繋がっているのか定かでない。影の差した氷壁は黒ずみ、奥に行くほど暗くなっている。

 そのとき、玃如たちが一斉に顔を上げて耳を立てた。てっきり翔の言葉に反応したのかと思ったが、そうではないらしい。赤い目をじっとどこかへやり、身を寄せ、警戒を高めている。


「何だ……?」


 歯の根が合わない口をがたがた鳴らせば、後ろから裾を引かれた。生白い玃如の前足が俺の着物を強く引っ張ってくる。

 早く乗れ、と。そこには多少の怒気も感じられた。俺たちは弾かれたように玃如の背中に飛び乗る。ほぼ同時にがくんと慣性が働き、渦巻く鬣にしがみ付く。

 無数の蹄の鳴る音が高らかに響き渡った。玃如たちは一斉に駆け出す。今度は何かに急かされるような、切羽詰まった速度だった。青い洞窟の壁や天井が見る間に後ろへ飛び去ってゆく。


「何かがいるんだ」


 翔の叫びが後ろから反響する。その声すら風に千切れて聞き取りにくい。“何か”が何なのか見当もつかない。

 上下に揺さぶられる度、氷壁の凹凸に光が波打つ。トンネルの中を高速で突っ切る自動車のよう、正面の景色が次々と迫っては消えていく。

 眩い光が飛び込んできたのは一瞬だった。そう思ったときには太陽の光の下に踊り出ていた。冴え冴えとした空と、外の空気。氷河洞の出口は雪と氷に覆われた岩山の斜面に繋がっていた。危険な急勾配に荒々しく着地し、崩れかかった岩石を下ってゆく。ばらばらと音を立てて礫石が転がってゆく。

 それは険しい地形で生きる玃如の器用さの表れというより、捕食者から逃げるため半ば転落するようだった。身体を斜めに傾け、不意にずるりと後ろ脚を滑らせる。落下を覚悟し、俺はきつく目を閉じた。途端に、危うげな跳躍とともに宙に投げ出される。


 真後ろから猛々しい唸り声が聞こえた。


 薄く開いた視界、大型の猫のような獣の顔が映る。顔面を覆う、雪のように白い毛並みが風を切っていた。ちらりと口から覗いた牙が剥き出しになってこちらを威嚇する。その青い目は、憎悪を以て真正面から俺を睨み据えていた。

 追っているのは玃如ではない。俺だ──。

 洞窟の出口で待ち伏せしていたのかもしれない。垣間見えた獣の体躯は豹のようで、無暗に追いかけるより獲物の傍まで忍び寄って確実に仕留める狡猾さを窺わせる。

 玃如とともに地面に辿り着いたとき、それは到底着地と呼べる代物ではなかった。野球の選手がホームにスライディングするように、身体の側面から勢いよく滑り込む。

 厳つい小石が四方に飛び散り、即座に体勢を立て直した玃如に置いていかれないよう全身でしがみ付く。並の生き物なら大怪我でも負いそうな落下の衝撃も、玃如は慣れているとばかりに加速に妥協を許さない。

 俺は泡を吹きそうだった。ほとんど抱き着く体勢で、谷間を駆ける玃如と一体になる。大地を裂き、轟音で流れる河の急流が傍目に見えた。氷河の雪解け水だろう。脳裏には、一瞬だけ捉えた肉食獣の顔が焼き付いている。


「皓輝!」


 息を切らしながら、翔が乗った玃如が隣に並ぶ。あの滑落を経て尚も無事だったらしい。俺は泥の唾を吐き出した。


「おい、あれは一体……」


孟極(モウキョク)だ……」背後から司旦の声がした。「生きているやつを見るのは久し振りだ」


 その言葉が意味するところを推し量る猶予はない。翔が身体を伸ばし、後方の司旦へ怒鳴るように訊ねる。


「孟極ってもっと大人しい霊獣じゃなかったっけ? 人間に懐くって聞いたことあるぞ」


「本来はね。でも一頭の孟極を狩れば全ての孟極が復讐すると言われるほど執念深いんだよ」


 俺たちの沈黙は、蹄の高鳴りと河の流れる音に呑み込まれる。


「──孟極が狩られているのか? この神域を、荒らす人間がいると?」


 信じられない、と微かに翔は首を振る。司旦は答えたくないといった風に肩を竦めるだけだった。

 俺はちらりと肩越しに後ろを窺う。玃如の群れは俺たちを守るような陣形で孟極を遠ざけんとする。孟極もまた形振り構わないといった様子で、双方が切羽詰まっていた。

 この逃走劇はいつまで続くのか。俺たちが孟極の歯牙にかかるか、孟極の体力が尽きて諦めなければ永遠に終わらないのだろう。

 あの豹のような体格では持久力に乏しいだろうに、ここまで数で圧倒されても尚歯を食い縛って付いてきているのはまさに執念としか呼びようがない。孟極に追われているという事実よりも、俺にはあの憎悪に染まった青い目の方が恐ろしかった。


 ──ふ、と。

 そのとき、雰王山の神域が突然途切れる。

 まさに「境界を越える」といった感覚だった。目に見えない膜を破り、たった今この世に産まれ落ちたような──馴染み深い匂いが肺に流れ込み、ああ、俗世だと思う。ようやく息がついた心地だった。

 周囲の様子が劇的に変わった訳ではない。玃如たちは相変わらず大群でいたし、孟極は最後の気力を振り絞るようにして追いかけている。谷間を流れる河は激流のまま地形を削り、挙句大きな滝となって垂直に落ちていた。

 ただ、今まで駆けてきた高原よりは幾分標高は下がってきているようだった。緑の茂みが地面から張り出し、斜面を覆い、湿った土の匂いがする。そして俺は決定的に神域の景色とは違うものを目に留めた。滝が流れゆく河畔、さんざめくように煌びやかな人々の行列がいるのを見つけたのだ。


「あれは……」


 白銀に輝く金具の留め付けられた、二頭立ての馬車──。

 あれ、どこかで見たことがある。そう思う隙もなく、翔の叫び声が耳を劈いた。バランスを崩した俺は、宙に放り出される。

 あっという間の出来事だった。好機とばかりに回り込み、飛びかかる孟極の鋭い爪。その決死の攻撃から庇うよう、身を捩り、人間の手を伸ばして土手から跳躍する玃如。三つ巴になって濁流に呑まれ、何もかも分からなくなった。




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