Ⅳ
俺たちは声を失う。ぞわり、皮膚が粟立つようだった。
七星、と。嫌にはっきりそう聞こえた。それは、皇帝の命で暗躍する裏の隠密たちにほかならない。それが何故、赤裸々に身分を明かしたのか分からなかったが。
他に選択肢はなかった。飛び出ていく度胸もない俺たちは、そろり身を低くして暗い廊下に這い、方形の中庭に面した障子窓から外を窺う。窓のすぐ下は手入れされた樹木が茂っている。いい目隠しだ。余程注視しなければ、向こうからこちらは見えないという寸法である。
「──……」
闇の帳が下りた中庭。雲間からぽっと月が顔を出す。目を凝らせば、複数の人の気配が蠢いていた。
体格のいい男が先頭にいる。先程の堂々とした声の主はこいつに違いない。恐らく、七星の首と見て間違いないだろう。隙のない佇まいと分厚い筋肉は歴戦のそれで、遠目からでも手練れと分かる。
その隣に控えるのは、司旦だった。頭を恐れているのか肩を強張らせ、やけに大人しい。そして後方には、更に二人の男が持て余したよう突っ立っている。
合わせて四人。隠密隊七星が、世捨て人の庭に入り込んでいる。
彼らは、それほど周囲を気にしている素振りはない。つまり、窓際でへたり込んでいる俺たちの存在には気付いていない。
そして七星一行と対峙する先には、玄関の敷石に佇む世捨て人の主がいた。
白明かりに輪郭をぼやけさせ、月の精霊が地上に舞い降りたような佇まいに──俺は自ずと彼と初めて出会ったときのことを思い出す。
彼は七星たちに比べずっと細くなよやかだったが、相手が束になっても敵わない圧倒的な存在感を滲ませていた。そしていつもの柔らかな微笑みは、その顔にない。
奇妙な光景だった。白々とした月光に照らされ、世捨て人の主とそれに向かい合う四人の影が克明に浮かんでいる。
俺たちは勘付かれやしないかと内心怯え、そして一体外で何が行われているのかという緊迫に呼吸を殺す。七星がわざわざ世捨て人に会いに来た、その理由は何なのかと。
視線の集まる先、七星の首が一歩足を踏み出す。そして最低限の敬意を払った、しかしぞんざいで不機嫌そうな口の利き方をした。
「あんたが、影家の白様ですか」
白狐さんは、すぐには反応しない。緩く唇を結び、質問よりも目の前の男に気取られているようだった。その男の存在そのものに思うところがあったのか、それとも無造作な問いかけが気に食わなかったのか、定かでない。
「そうですよ」
凛と響く声に、男は興味なさげにぱちぱちと瞬きをして、それは何よりです、とよく分からないことを言っている。
次いで、白狐さんの方が男に何かを訊ねた。壁越しなので、くぐもった音しか聞こえない。慌てて障子窓の縁に耳を押し付ければ、勢い余って翔と足同士をぶつける。
あなたの名は? どうやらそんなことを訊ねたらしかった。
「……あんたに名乗る名はありません」七星の首は、取り繕うように言う。「ご存知でしょう? 七星は名を伏せるものです。一ノ星、或いは七星の首と呼ばれています」
よもや名を訊かれるとは思っていなかった。そういう困惑を不遜さで誤魔化したようだった。
七星は数字によって区別される。背後の男たちが順に並んでいるなら、右から二ノ星、三ノ星とそれぞれ続き、最後に四ノ星の肩書きを背負うのは司旦だった。俺たちが名を知っている──それが本名である保証はないが──そして白狐さんもきっと知っている、司旦。白狐さんはそちらを一瞥し、咳払いして首に向き直る。
「七星の首。長遐の山岳まで、遠路はるばる御苦労でした」
「どうも」彼は面倒臭そうに頭を掻いた。「徒労にならないことを願いますよ」
「当今皇上からの御文を拝見しました」
「それなら話は早い」
隠れて応酬を見守る俺の背に、一筋の冷や汗が伝う。一体彼らは何の話をしているのか。世捨て人の主は、彼らが来ることを知っていたのだろうか。殺伐とした物言いは彼らしくなく、当事者でなくとも身が縮まる。
しかしさすがは一部隊を率いる軍人というべきか。首の佇まいは微塵の隙もない。
「此度、当今皇上の恩赦により、影家の白様に下されていた追放の命を解き、帰京を許すよう仰せつかった次第です」
「……」
「お迎えに上がりました。広寒の都までご同行を」
今、何と言った?
俺は横目で隣の翔を窺う。翔は窓の木縁にしがみつくよう両手を乗せ、少なくとも俺よりは落ち着いていた。いや、顔面が蒼白で、まともに息を吸えていない様子を落ち着いていると呼べるならの話だが。
追放の命を解き、帰京を許す──。それは白狐さんの素性と、彼が何故こんなにも辺鄙な山の中で隠遁していたのかという謎を氷解させた一言に他ならない。
どうやらこの得体の知れぬ世捨て人の主、皇国の都から来たらしい。それも、自ら望んでいた訳ではなく──。
俺は意識せず、隣の翔に呼びかけていた。
「翔」
「……」
「訊きたいことがある」息をひそめ、ほとんど吐息ともつかぬ小声で相棒に訊ねる。
「誰もかれも、白狐さんのことを“影家”という枕詞をつけて呼ぶ。影家とは、一体何だ?」
翔は反射的に口を開いたが、すぐに返事はなかった。やや唇を震わせ、躊躇うような素振りを見せた後、息を吐く。「……影家の話は、少し知っている」と。
感情の失せた語勢だった。
「俺が産まれるよりもずっと昔、この国の朝廷で政変、のようなものがあった。臣下の誰かが讒言したせいで、結局は未遂に終わったんだけど」
翔はここではないどこか遠くを眺め、俺ではない誰かに話しているようだ。「その渦中に居たのが影家の狐だ」
「クーデターを起こしたのか?」
「さあ。庶民にはさっぱり」俺の質問は、適当に躱される。「ただ、大勢が死んだらしい。見せしめとして、影家の召使や、味方に付いた護衛の者まで処刑されたそうだ。粛清だな。皇帝陛下に逆らうと恐ろしいって訳」
「……」
ぐらぐら、足元が揺れている。自分の口から漏れた声は、ひどく息苦しかった。
「白狐さんは、朝廷の人だったのか」
「そう、生粋のね」
抑揚のない平坦な翔の口調は、敢えてそうすることで落ち着こうと努めているようだ。俺も何か言いかけ、しかし相槌も浮かばずただ虚しく息を吐く。
まとまりなく渦巻く感情が胃からせり上がり、遂に耐え兼ねて口から出たのはこんな言葉だった。
「知っていたのか」
「……」
「白狐さんが朝廷の人だと──お前は知っていたんだな」
責めたつもりはなかったが、俺の声音はどこか非難する含みがあったらしい。今、そんなことを言っている場合ではないというのに。
翔は恐ろしく勘が良く、そしてそれを隠し通す完璧な賢さをも備えている。そんなことは分かりきっていた。ただ今回の話は、またしても一本取られた、というより、長らく同じ謎を抱えていた仲間に、大袈裟に言えば裏切られたような気分だった。
知っていたのなら、教えてくれても良かったのではないか。手遅れを迎える前に、指をくわえて見ている以外の対策を講じられたのではないか──。そんな苦さを過敏に感じ取った翔は、普段の朗らかさとは似ても似つかぬ声で呻いた。
「知ってたさ。でも、どうすれば良かったんだ」怒っているような、泣いているような顔をして、翔は窓の外を睨みつける。「じゃあ、どうすれば良かったんだよ、俺は……」
その悲痛な嘆きに答えなどない。そして俺が慰めや励まし、ましてやそれ以上の追及の言葉をかけることも叶わなかった。外の中庭では、形ばかり傅いた七星の首と世捨て人の主の間で話が進んでいたのである。
「いいですよ」白狐さんは、あまりにもあっさりとその申し出を承諾したようだった。
え、と当惑を漏らしたのは首の方である。この男、自分から言った癖に、白狐さんが馬鹿正直に諾するとは想像もしていなかったらしい。当然ながら、俺はその反応に違和感を覚えた。
白狐さんは意地が悪そうに、口許を隠して微笑んだ。
「僕が素直なのが気に食わない?」
「……いや、そんなことは」
「どうせ逃げたら殺せと命じられたんでしょう」白狐さんは、さらりととんでもないことを言ってのけた。「血が見られなくて残念でしたね」
怯むかと思われた首は、その厳めしい面構えに愛想笑いを貼りつける。「そこまで分かっているのなら、刃で脅しつける手間が省けて助かります」と。
俺はこの不穏な状況が理解できない。あの男は先程、恩赦という語を口にした。追放の命を解き、帰京を許すとも。それはつまるところ、白狐さんがかつて犯した罪──具体的にどんなものなのかは不明だが──が皇帝に赦されたということではないのか? だから“影家の白様”を都へ凱旋させるべく、七星一行がわざわざ迎えに来たのだろう。この辺境の流刑地まで。
俺たちはたった今、国家から追放された罪人が赦された瞬間を、目の当たりにしたのである。
それなのに、この不和は何だ。逃げたら殺せとは、随分と物騒な命である。恐らく世捨て人の主が高貴な身分の人だからと形ばかり丁寧に扱っているが、七星たちの態度はよそよそしく、どこか冷笑的だ。罪が赦されたことは、彼らにとって喜ばしいことではないのか。
──白狐さんが危ない。漠然とそんな予感に駆られた俺たちは、自分たちも同様の危機に晒されていることに気づかない。
一歩、前に進み出たのは、ずっと控えていた司旦だった。
「ところで、あの二人組は?」
俺たちの肩は同時に跳ねる。それが自分たちのことだとすぐに分かった。何かを探すよう、周囲に視線を配る司旦。その目が一瞬こちらの棟を掠め、俺の心臓はばくばくと暴れる。まさか、彼らの話題にされるとは思いもよらなかった。
「ここにはいません」凛とはっきり言い切ったのは、世捨て人の主だった。「あの二人は無関係ですから」
「いやにきっぱりと否定しますね」
そう思ったのは俺だけではなかったようだ。怪訝そうに眉を顰めたのは首で、視線が彼に集中する。白狐さんは身じろぎ一つせず、しかしどこか落ち着きを失っているように見えた。
「例えここにいたとして、あなた方はどうするつもりなのですか」
「──さあ?」太い眉を持ち上げ、首はとぼける。何だか嫌な感じだ。
「七星風情が。生意気ですよ」
「それはどうも失礼しました。でも一緒にいた連中も探せと、当今皇上からのご命令なんで」
まずいな、と翔が俺にしか聞こえない小声で呟く。その真剣な碧眼は、じっと窓の外へ釘づけにされていた。「あの七星、俺たちのことを殺すつもりだぞ」
「何だと?」
思わず俺の声色は高くなる。慌てて伏せ、息をひそめた。どういうことだ、と。翔は眉間に皺を寄せている。
「皇帝陛下が俺たちみたいな下賤の民をわざわざ探す理由が、いいものだとは到底思えない。大方いちゃもんをつけて、白狐さんに与する奴を始末するつもりなんじゃないか」
「だから、どうして」俺にはその理由が読めない。白狐さんは赦されたのではないのか。
「分からない。勘だ」
「お前の勘を信じるよ」
俺は心の底からそう頷く。相棒の直感の鋭さは常に信用に値した。そして、俺もこうして話しているうちに、ひとつ分かったことがある。「ついでに俺の勘の話もしていいか?」
「いいよ」
「吉草だ」
「え?」
「だから、吉草」俺は平坦に繰り返す。「俺たちが眠っていた原因」
そう、気づいたのだ。やはりあのとき、俺たちが同時刻に眠りに落ちたのはおかしい。就寝するには早かったし、思えばあれは不自然な眠気だった。寝たまま身体を移動させられ、それでも尚目覚めない程の睡魔とは、薬を盛られたとしか思えない。
「眠り草なんだろう。経口で取り入れたから、針で刺すよりも効くのに時間がかかった」
「……」
「俺と翔、同時に薬を盛れたのは食事を作った白狐さんしかいない」
目の前に浮かぶのは、今宵の夕餉の光景だ。俺は思い出す。常日頃から小食気味な白狐さんが、いつもより食の細かったことを。てっきり心配事が募って食欲が湧かないのかと思ったが、あれは料理に混ぜた毒を避けるためだったのではないか。
やはり、俺たちを貯蔵庫へ運んだのは世捨て人の主だったのだ。この家には手製の漢方も多く、その中に例の眠り草があっても何ら不思議ではない。
そしてこれは憶測以上の意味を持たないが──吉草は量を間違えると致死する。それが怖くて、少な目に盛ったのではないか。だから、白狐さんが予想していたよりも効き目が薄かったのだ。
「つまり、予定していたよりも早く目覚めたって訳か」狼狽えながらも、翔はすぐに俺の言わんとすることを理解する。経緯が分かれば、この状況に居合わせている自身たちへの緊張感も高まった。
白狐さんの予定では、俺と翔はまだ地下で眠っているはずなのだ。
「白狐さん……俺たちを守るために?」
「多分な」俺はそうであればいいという願望を口にする。
「どうして、こんなに回りくどいことを……」腑に落ちない様子で、翔はその顔を歪めた。「一言危機を知らせてくれたら、済む話じゃないか」
──いや、違う。白狐さんは正しい。俺は首を左右に振る。恐らく、あの時点で俺たちは逃げても無駄だったのだ。逃げたところで、すぐに追いつかれる距離まで敵は来ていた。だから、既にここにいないと嘘をつき、注意を逸らそうとしたのだろう。
地下にいれば見つかる可能性は低いし、食料もある。奇襲も仕掛けられる。
希望的観測ながら、筋道は通っていた。
「今日の皓輝は冴えてるな」
「ありがとう」
納得した言葉とは裏腹に、翔の面持ちは暗い。まつ毛が震えている。
そう、理屈を理解することと受け止めることは別だ。今まで築いてきた信頼関係を思えば、食事に怪しげなものを混入されたという事実がどれだけ翔にとって衝撃的なことか。それに、もっと最悪の可能性だって考えられる。飽くまでこれは、精一杯のポジティブな解釈をしたに過ぎないのだ。
外では、白狐さんと七星による押し問答のようなものが繰り広げられていた。俺たちの存在を頑なに否定する白狐さんと、食い下がる七星。
痺れを切らしたのだろう。このままでは埒が開かないと後ろに控えていた七星の影たちが動き出す。まさか、世捨て人の主の意を無視して家の中を捜索しようというのか──。
「あっ」
翔が短く喉を引き攣らせた。斯く言う俺も、変な悲鳴が出かかる。間違いない。七星の一人が、迷いなく真っ直ぐとこちらを捉えた。まるで、廊下の障子窓の下でこそこそ隠れている俺たちを、その眼光で射ぬかんばかりに。
見つかったか──?
そんな焦りに駆られ、気が動転した俺たちにもっと悪いことが降りかかる。狼狽して床に身を伏せた途端、互いの足がぶつかる。いや、ぶつかったのは足だけではない。がつん、と固い音がやけに明朗と響く。丁度後ろにあった、白狐さん気に入りの飾り棚が。
あ、と。
今度は声を出す暇もなかった。年季の入った黒檀の棚は、僅かな衝撃でもぐらりと傾く。耐えてくれ、と蹴り飛ばした張本人である俺たちは祈った。しかし想いは虚しく、彫り物が施された飾り棚はバランスを崩し──まるで、床に吸い込まれるように。
「──っ」
凍りつく。緊迫の膜が弾けた。耳を覆いたくなる派手な音が炸裂する。がしゃーん、と。床に激突し、粉々に砕けた花器。破片は散らばり、辺りは水浸しだ。真正面から倒れた黒檀の飾り棚が背を濡らしている。
俺たちの間に、言いようのない絶望が満ちた。案の定、窓の向こうがにわかに騒がしくなる。
翔はこれ以上ないほど真っ青になり、それでいてどこか気の抜けたぼやきを漏らした。
「白狐さんに怒られるかなぁ」
「あーあ」一周回って、俺の声も投げやりだ。「怒られるだろうな。色んな意味で」
白狐さんが薬を盛った理由が、今になって分かった。俺たちが余計なことをして、こういう事態になるのを避けたかったのだろう。