Ⅵ
夜の見張りの順番は俺が最後だった。
一人で夜明けを待ちながら目の周りを強く揉み、眠気を拭う。これから朝まで起きていなければならない。
乾燥してひび割れた大地は、昼間見るよりも物々しく映った。何せ、周囲に余計な障害物も身を守るものもない広大な荒野。無防備な場所にぽつんと腰を下ろしている心細さや不安が、隙間風のように絶え間なく心に入り込む。
そんな心象が具現化したかのように、俺はふと誰かに見られているような気配を感じた。そんなこと有り得るだろうか? こんな荒涼とした不毛の地に、俺たち以外の生き物がいるとはあまり思えなかった。とはいえ、夜行性の肉食獣などの存在を考えれば、丸きり気のせいとも言い切れない。
自分の手の形すら曖昧な中、頭上を見上げれば多少気を慰められるのが幸いだ。丸く切り取られた夜空に、銀色に輝く天の川がしめやかに横たわっている。月があるため、満天の星空、とまでいかなくとも、暇潰しに数える星があるのは心強い。
銀粉を振り撒いたような空を仰いで数十分、やはり暗闇の中から何かの息遣いを感じたように思えて、俺は肩越しに振り返る。地面の凹凸がもたらす陰影と、仄かに匂う湯気の霞のほか特に変わったものは見えない。
それでも夜目を凝らす。地形の陰に何かが潜んでいやしないかと。この希薄な気配は、荒野を徘徊する動物というより霊的な存在のものか。それが佳いものなのか悪いものなのか今のところ判断が付かない。
せめて火が欲しい、と思う。明かりがあれば悪霊への牽制にもなるのだが──。
前触れもなく、例の絶壁からぱらぱらと小石や礫が崩れ始めた。
音の方角を振り仰ぐ。ささやかな崖崩れだ。剥がれ落ちた壁の欠片がぶつかり、弾かれ、また静かになる。
野宿をしている丘から絶壁までの距離は五十メートル余り。怪我をする心配はないだろうが、静寂の中、その連鎖する小気味の良い音はやけに際立った。
崖の上部へ目をやれば、脆い生地のパン屑がぽろぽろ零れるように、小規模な落石があちらこちらで起こっている。何か生き物がいるのだろうか。まさか。火山活動がもたらす余震ではあるまい。
直後、不気味な遠吠えが尾を引く。絶壁の高い位置から、何かの鳴き声が響き渡る。俺は身を強張らせた。一際大きな石が音を立てて地面まで崩れ落ちた。
咆哮は複数続く。音域は高いが、成人した人間の男が不自然な高音を出したように掠れてもいた。自分の居場所を誇示するかのよう長く長く延び、しかし、姿は見えない。
翔も司旦も起きなかった。妙なことだ。この不気味な鳴き声は、俺にしか聞こえていないのではないだろうか。つまり、特異な聴覚の領域でしか聞こえない、霊的な声である。
絶壁の頂上から礫石が零れ落ちた。薄暗い凹凸の筋に沿って転がってゆく。違う。何かが飛び降りたのだ。目に見えない、大きなものが。
俺は息を飲む。信じられないほど軽快に崖を蹴り、何かが迫ってきている。立ち上がり、身構える。瞬間、まるで軽自動車に轢かれたような強い衝撃があった。俺の身体は人形のように放物線を描いて投げ出される。傍目から見れば交通事故現場そのものだっただろう。
無音の一秒間があり、背中から地面に叩きつけられた。勢いで斜面を下り、固い地面に後頭部が擦れ、激しい痛みと震動に顎が震える。声が出ない。はっと見上げれば、何かが俺の上に覆いかぶさっている。
白い、と思う。それしか分からなかった。目を横向ければ、肩口を押さえている前足がある。
それが人間の手だったので、俺は甲高い悲鳴を上げた。途端にその何者かは驚いたようにひらりと飛びのく。固い岩盤と蹄がぶつかる、軽やかな音が鳴った。
──白い鹿だった。いや、より正確にいえばトナカイに近い。岩壁を登っていくのに適した逞しい体格をしている。頭には角があり、毛足は長い。
ただひとつ異質なのは、前足に当たる部分がどことなく人間の手のような形をしていたことだろう。指のひとつひとつは細長く、更に尖った五枚の爪は赤く塗られている。
その奇妙な体つきに、俺は声を失う。動物の身体から人間の腕が生えている風貌は、中世の絵画のようなアンバランスな生々しさがあった。
見た目もさることながら、あの絶壁をあっという間に下り、数十メートルの距離から瞬く間に飛びかかってくるずば抜けた跳躍力から、ただの獣でないことは明らかだ。
しかしそれ以上のことは分からない。白鹿の霊獣は、こちらの様子を窺うような距離感でその場を行ったり来たりしている。人間の手がぺたりぺたりと地面をついたり離れたりしている。
俺はちらりと小丘の斜面の上へ目をやる。一連の音を聞きつけて翔や司旦が目を醒ましやしないかと。そして正面に目を戻せば、霊獣もまたこちらを見つめていた。
「……」
痛む身体をゆっくりと起こす。鹿の耳はぴんと張られ、ぱらぱらと衣服から零れる砂や小石の音を注意深く聞いている。俺は驚かせないよう、小さな声で問うた。
「──俺に、何か用か?」
緊張して脣が震える。元より声など必要ないのかもしれない、と片隅で思う。こういった自然霊の類は人間の言葉ではなく、もっと別のやり方でコミュニケーションをとるものだ。
白鹿の霊獣は口を開き、あの独特の甲高い声で吼えた。空に首を向け、狼が仲間を呼ぶ遠吠えを思わせる。どこか哀愁すらある高音域が、夜空に長く尾を引いた。
俺は目を離さず、さり気なく尻で後退る。話が通じている手応えがない。また襲われないとも限らなかった。飛びかかられたときの恐怖が身体の芯に残っている。
白鹿の鳴き声に混じり、小声で名を呼ばれたように思えた。俺はそれとなく目線だけ動かす。小丘の上からそろそろと首を伸ばし、翔がこちらの様子を窺っていた。目覚めていたのか、その背後に司旦の顔もちらりと垣間見える。
翔が何かを言いかけた。刹那、絶壁の上から地面を蹴る音がはっきりと聞こえた。
「伏せろ!」
咄嗟に叫び、自分も身を伏せる。突如、激しい落石と、蹄が鳴る音。目にも留まらぬ速さで、次々と白い影が空中を横切る。
まるで突風のようだった。彼らは絶壁の垂直の高度などものともせず、軽やかに丘陵を飛び越え、地上へ降り立った。白色の物体が空を切り裂き、幾つも幾つも地面で撥ねる。
一体何頭集まってきたのだろう? 俺たちは蛞蝓のように這いながら顔を上げ、呆気にとられた。三、四、五……と十頭まで数えてやめる。切りがない。
四方八方から霊獣たちの息遣いが聞こえる。時折空を仰いで吼え、或いは鼻を鳴らし、蹄で地面を擦る。前足が人間の手のような形をしていることを除けば、神秘的にすら見える白鹿の大群。後ろの方はうろうろする背中しか見えないが、ざっと五十以上はいるに違いない。
彼らの首の周りの毛は複雑に渦巻き、それが王族のような風格を与えている。枝分かれした角は四本あり、小さなナナカマドの実と蔦で飾られている。てらてらと濡れた目は硝子玉のように赤い。
「……玃如だ」翔と司旦の声が重なる。
「カクジョ?」
「瑞獣だよ」
「瑞獣?」
本当に? と言いたいのを寸でのところで堪える。見れば一頭が自身の胸元を前足で掻いていた。細長い五本指が、人間のような器用さで胸や首を掻いている。何も言わなかったが、俺はぞっとした。
夜明けが迫っていた。白んできた空の下、霊獣たちが蠢いている。
玃如の一群は、朝が近付くにつれ去るどころか、目に見えてその数を増していった。彼らは何らかの意思を持ち、俺たちを囲んでいる。それは野生動物が嵐を察して一か所に集結するような、人知を超えた自然の力を感じさせた。
「おい、これどうするのさ」身動きの取れない司旦の困惑は至極真っ当だったが、お前のせいだろう、お前がどうにかしろという響きもどこかにあった。
俺は頭を掻く。いくら見た目が草食獣だからといっても、大群に囲まれればさすがに身体が竦んだ。慎重に後退し、翔のところまで行くと、相棒もまた困り顔で眉を下げている。
「玃如は雰王山に棲んでいる瑞獣。佳いものだとは思うけど、確証はないな」
確かに、許しを得ないまま迷い込んだ神域で土地神に襲われたこともある。霊というものは必ずしも人間に益するものではないし、人間の力で御せるものでもない。
荒野の向こうから朝日の最初の一筋が差す。その瞬間、輪の中心から外へ向かって高く野太い咆哮が連鎖した。俺たちは周囲を見回す。玃如たちはその頭を擡げ、万歳三唱を唱えるよう一斉に吼え、天を仰いだ。
「何だ……?」
司旦の戸惑いの表情が一瞬で恐怖に変わる。生白い腕がその肩を掴み、宙へ持ち上げたのだ。悲鳴はなかった。驚きのあまり声も出ないといった様子だった。一頭の玃如が司旦を背中に受け止め、丁度司旦は跨るような格好になる。
見る間に翔も別の玃如に引っ張り上げられ、その逞しい背中に落ち着いていた。馬並に体格が良い玃如たちは彼らを乗せても揺らぐことなく、むしろ忙しく動き回る玃如の動きに人間の方が振り回されている。
俺は立ち上がれないまま、その場で腰を抜かす。はっと視線を感じて正面を振り向けば、一頭の玃如と目線がぶつかった。最初に顕れた個体だろうか。周囲の群れがうろうろと動き回っているのに対し、一頭だけは奇妙な集中力を以て静止していた。その空間だけ、時間の流れが鈍くなっているようだった。
「──……」
玃如の右の前足が持ちあがる。人の手の形が、ゆっくり音もなく手招きをした。こっちへ来い、と言われたようだった。俺は息を飲む。玃如の赤い爪が煌めいた。束の間、真紅の瞳と見つめ合った。
刹那、地面がなくなる。数多の人間の手という手が問答無用に俺を攫い、軽快に駆け出した。何が何やら分からなかった。頬を風が切る。気付けば俺も一頭の玃如の背に跨っていた。
皓輝、と背後から叫ぶ声が聞こえた気がした。翔も司旦もいるのだろう。振り返る余裕はなかった。玃如の大群が何かを合図に一斉に走り出したのである。
凄まじい音と砂埃だった。地面が轟き、上下に激しく揺さぶられる。手綱がついた馬とは何もかも勝手が違う。襟元の毛を必死に掴み、振り落とされないように必死だった。
「ぶつかる──」
ぞわりと肌が粟立つ。すぐ目の前に屹立する絶壁が迫っていた。崖の険しい岩肌の凹凸すらはっきりと見える。速度が尋常でない。玃如の首にしがみ付く掌に不自然な力が籠る。
恐怖の余り、首を低くして目を瞑った。ぐん、と身体が強い力で引っ張り上げられる。目を開き、ついでに開いた口で舌を噛みかけた。
海の大波の泡のように、白い瑞獣たちが崖の斜面を軽快に駆け上る。波打つ白毛を朝陽が輝かせる。俺たちはその飛び跳ねる上下運動にしがみ付くほか出来ることはない。
僅かに身を乗り出せば、玃如たちが駆け登る急勾配は既にほぼ直角九十度の断崖絶壁。微妙に飛び出た岩の上を器用に伝い、あっという間に気が遠くなるほどの高さにまで達した。
あれほど下から見上げて立ち尽くしていた絶壁の頂上に、辿り着くまで僅か数秒足らず。俺を乗せた玃如が優雅に弧を描いて土の地面へ降り立つ。
火山活動によって不毛の地と化した火口群は過ぎ、あとは高山特有の低い植生で構成された森と草地がどこまでも広がっていた。見上げた空、青く美しい山脈が天を衝き、白い雲がゆったり流れる。
朝露に濡れた木々を、風のような速さで駆ける。走っているというより半ば飛んでいるようだった。灌木の木立を抜け、広大な斜面の草原を見晴らす。人間が足を踏み入れない大自然特有の、厳しさと鮮やかさが一体になった剥き出しの景色。小さな花々が一面に咲き乱れ、玃如たちの足取りによって色とりどりの花びらと花粉の匂いが原野に舞う。
玃如たちの脚は信じられないほど速かった。背骨の湾曲が緩やかで平たいため、股に力を込めてバランスをとれば幾分周囲を見回す余裕もできた。
後方には翔がおり、右方には司旦がいる。目線をやれば、それぞれ二人と目を合う。翔が玃如に跨ったまま口を開き、何か言った。聞き取れないが、言いたいことは伝わった。
都の方角へ向かっている。俺にもそれが分かった。徐々に神域の中心から外れ、俗世の空気が近付いている。俺たちの肌によく馴染む、澱んだ気が鼻先を掠めた。もうじきだ──。
必要なことなのだ。俺は強い確信に駆られて繰り返す。花神も、霊獣も、それを望んでいる。雰王山の意志という意志が、もしかすると灰毛の老馬のようなものも一丸となって俺たちを力強く送り出している。
──都へ。
俺は口ずさんだ。そこに何が待っているのかまだ分からない。ただ、朝廷の政争やイダニ連合国の陰謀でなく、もっと大きな事態が動き出したという予感があった。




