Ⅴ
桃を口にしたお陰か、勾配の出てきた斜面を登るのもさほど苦労はしない。空腹感は消え、身体の奥から力が湧いてくるような心地だった。
桃の木々が途切れると、景色は一変する。山らしき斜面を登っていたと思えば、まるで爆心地のように広大な峡谷に出くわしたのだ。不自然に暖かい風が吹き、遠くの岩間に湯気らしきものが立ち上っている。山の一部をそのまま叩き割ったような礫石が無造作に転がり、一帯が凶暴な爆弾に吹き飛ばされたような地形だった。
山肌も地面も抉れ、剥き出しになり、長い年月を経て荒んでいる。それがあまりに遠くまで広がっているので、谷というより突如現われた荒野といったほうが近い。
「何だこれ?」翔が眩しそうに、目の上に手をやる。長遐では見られない奇妙な景色に戸惑っていた。
「火口地形だな」
俺は軽く息を吸い込み、そこに硫黄らしき独特の臭気があることを確かめる。
「水蒸気爆発か何かの噴火でできた火口群だと思う。変なガスが湧いていなければいいんだが」
「他に道はないのか?」
俺たちは周囲に目を向ける。火口群は緩やかな起伏を繰り返しながら、見渡す限り果てしなく続いていた。彼方には山がそびえているが、湧き上がる湯気のため掴みどころのない蜃気楼のようでもある。
遠回りすればどこかに道があるかも、と思うが自信がなかった。
「要は火山の毒気を避ければいいんだろ」
司旦が準備運動をするように自身の腕を引っ張り、伸びをする。「じゃあ、そんなに難しいことじゃない」
「何か策があるのか」
「俺を誰だと思ってる。毒使いの司旦ちゃんだよ」
任せろ、と片目を瞑る彼をどれほど信頼していいものか。
「たくあんくんだって、風の流れが読めるなら毒気の居所が分かるはずだ。毒気は空気より重いから、下の方に溜まる性質がある。匂いがない場合もあるから無臭でも油断は出来ないね。あとは風向きかな。空気の流れにさえ逆らわなければ、ここを歩くのはさほど難しいことじゃない」
俺と翔は揃って司旦の顔を見る。嘘をついているとは思いにくかった。一方で拭えない疑心暗鬼もあった。この状況で、司旦が俺たちを欺き、貶めないとも限らない。
決めたのは翔だった。司旦の言う通り、翔は風を操るスコノスを宿している。可能かどうか判断するのはきっと俺ではない。
「じゃあ、お前を信じるよ」
翔がそう言えば、司旦は両方の口角を少し持ち上げ「行こう」と言った。
司旦を先頭に降り立った荒野は、剥き出しになった老人の皮膚を思わせる。毛穴のような凹凸から何やら赤いものが噴き出ており、近付けば苔の一種らしいと分かる。ひどく殺風景で、寒々しい光景だった。
あちこちから漂ってくる硫黄の匂いが、目に見えない不快な膜のように顔面に貼り付く。下を向けば窒息しそうな臭気だ。
言葉通り、司旦は窪んだ地形や湯気が立つ一帯を避け、出来る限り小高くなったところを選んで進んだ。時に足元が崩れそうなところを危なっかしく渡り、赤褐色に染まった断層を遠目に眺める。生き物の姿は見えない。
時折立ち止まり、司旦は神経を研ぎ澄ませて火山ガスの位置を測り、翔は風向きを呼んだ。中毒を危惧しすぎているのか、俺はやや頭がぼんやりしているような錯覚に駆られる。日が暮れるまでにここを抜けなければ危ないかもしれない。
「そういえばさ」翔がじっと空気の一点を見つめながら言う。
「情報屋が気になることを言っていたんだけど」
「情報屋?」
鸚鵡返しにしたあと、司旦は僅かに苦い顔をした。談笑をするほど仲良くなったつもりはないのかもしれない。しかし翔は意に介さず続ける。
「千伽様がどっかの鉱山に出入りしているらしいって話を聞いたんだ。何か知らないか?」
「どっかの鉱山に?」
漠然とした言い回しに首を捻り、司旦は何かを考えている。
「……さあ。知らない」
そう答えたものの、多少の心当たりはありそうな顔だった。鉱山、と俺は反芻する。千伽が俺たちを駒のように利用したことはさておき、白狐さんを助けるのが目的なら彼なりにやることがあるに違いない、と思う。それが如何に鉱山と繋がり得るのかは分からないのだが。
「何かしら有益なものを掴んだんだろう、あの方は敏いから」
そう付け足した司旦の声は、千伽への信頼と疎ましさが半々に混じっている。話題に乗るよう、俺も口を開く。司旦とコミュニケーションをとろうという意図も少なからずあった。
「なあ、あのことについて少し訊きたいんだけど」
「何?」
司旦は振り返らずに応える。集中しているようだが、会話を鬱陶しがる風でもない。
「俺とコウキの顔が似ていることを利用して綺羅のスキャンダルをでっちあげるっていう、お前らの当初の計画について」
「今、その話する? もう失敗してるんだよ」司旦は僅かに顔を顰める。既に取り返しがつかない失敗のことを思い返したくないらしい。
「多少なりとも突っ込みを入れる権利くらい俺にはあるんじゃないかな。計画の捨て石に置かれていた側としては」
皮肉を込めて言えば、司旦は不満そうに口を尖らせ、しかし反論はしなかった。
「どうしてこれで行こうと思ったのか気になっていた。確かに論理的ではあるが、変に回りくどいようにも思える」
純粋に疑問だった。件の千伽の計画は、お世辞にも成功率が高いようには思えなかった。同じ顔を持つ近習に七星殺しの濡れ衣を被せたところで、綺羅の地位が揺らぐほどのスキャンダルになるのだろうか?
司旦は肩を竦める。如何にも世間知らずな若者を相手にするような仕草だった。
「人間の頭は真実を信じない。人間の脳は、自分が信じたいものを信じるように出来ているんだ」
俺は黙って頷いた。
「だから、嘘をつくときは相手が“これは信じたほうが自分には得だ”と無意識に思わせる仕掛けと、嘘が本当に見えるような信憑性が同時に必要になってくる」
そこで司旦は大きく息を吸う。彼の足元から崩れた礫岩が、ぽろぽろと斜面を転がり落ちていった。
「損得計算は、長い時間をかけて形成されるときもあれば、その場の空気によって一瞬で決まるときもある。分かるだろ? 想定外の事態が起こったり感情が高揚しているとき、冷静な判断はできない。何となく雰囲気に流されることが多い。そう、人間が思っている以上に、人間は嘘に騙されやすい」
言いたいことは分かる、と目線で意思表示する。
「千伽様はそれを狙っていた。大きな仕掛けを作って、その場の人間を衝撃ひとつで丸ごと“納得”させようとしたんだ」
つまり、俺とコウキの存在は仕掛けを起動させる起爆剤に過ぎなかった、ということか。
現皇帝への不平不満、六十二年前の事件の不信感。本家の血を引いてもいないのに影家の当主になった男。──これらの材料を組み立て、綺羅のスキャンダルを捏造し、知識層を一気に味方につけようという魂胆だったのだ。組み立てた塔の足元の一パーツを引き抜くよう──皇帝権力の脆さを突き、集団心理の“損得計算”で自分たちが優位に立つ、という。
翔は何だかよく分からないという面持ちで瞬きしていた。
「そんなややこしいことなんかしないで、正直に言っちゃえばよかったんじゃないか。影家がイダニ連合国に奴らに乗っ取られてるって」
「馬鹿だな。さっきも言っただろ。真実なんてどうでもいいんだよ。影家の当主は今のところ上手くやっている。粛清後の影家を一新して親皇帝派になったから、おいそれと手出しは出来ない。俺が突拍子もないこと言っても、また地下牢でよろしくされるだけだろ」
残念ながら、司旦の言うことは理解できた。何事にも論理性がいる。筋が通れば、嘘でも真でも何でもいい。その道筋を作るため、千伽は今まで苦労してきたのだろう。それが敢え無く霧散してしまったことは気の毒に思えたが、彼の計画の捨て石に俺が置かれていたのかと思うと腹立たしい。
荒野の風が吹き付ける。温かいというよりも皮膚が灼けつくように熱かった。俺たちは会話をやめ、熱風を避けられそうなところを探す。手近な岩陰に回り、また気流の方向を確かめた。
「風が出てきた。少し待ったほうがいいかも」
そう言う司旦の後ろで、翔は水を飲んでいる。俺も革袋を受け取り、砂っぽくなった口の中を温い水で濯いだ。
「それにしても」荒い風の声を聴きながら、俺はぽつりと呟く。「今にして思えば七星の首も気の毒だったんじゃないか」
「そう?」
「あいつは真面目に仕事をしていたんだろう。話は通じなかったが、悪気があった訳じゃない」
司旦はまた肩を竦めた。「あいつは俺を見張っていたんだよ」
「え?」
「俺が白狐様の側につくことを見越していた。裏切りを予測していた」
「……」
そういえば、七星の首がそんなことを言っていたかもしれない。司旦が謀反を企てている、と俺が言ったとき、彼は知っていると答えた。互いに知らぬ間に、あのときの俺の言いたかったこととは違う伝わり方をしていた訳だが。
「あいつ、何か言ってた?」
「司旦のことは特に。でも色々誤解をされて、人殺しと窃盗の冤罪を被せられて、反省するなら口利きしてやってもいいと言われたな。七星はそういう連中の集まりだと」
そうなのか? 眉を僅かに上げれば司旦はこちらを見ていなかった。口許に薄ら笑みを浮かべ、七星の首を嘲ているようでもあった。
「そうか。俺が七星に入ったときと全然変わってないんだな」
七星は皇帝の隠密隊である。宮中では閤門司の下位に属すが、表向きは一端の衛士として振る舞うことが求められ、諜報のため徹底して身分を隠している。誰が七星なのか、そこに何人属しているのかは公にされない。
現七星の首は義理を重んじ人情に厚く、実力さえあれば身分は問わない七星の体制を逆手に取り、身寄りのない罪人や貧民を密かに仲間に加えているという。七星の役目の大半は汚れ仕事ではあるが、さしあたり食っていけるだけの待遇ではあるため、彼に窮地を救われた者は多い。
司旦はそれが気に食わないのだ。
「あいつは、努力すれば大抵のことは報われると信じている。自分がそうしてきたから、他の人間も同じことが出来ると思っている。そんな訳ないのにね」
「だから、殺したのか? 毒を盛って?」
司旦の目がちらりと俺を捉える。怒りも戸惑いもなかった。ただ瞳の奥に消えない虚無感だけがしがみついていた。
「いい気味だ。散々白狐様のこと馬鹿にしやがって。苦しんでいるところを見られなかったのは残念だけど、この手で葬ってやれて痛快だよ」
「すごいな。曲がりなりにも仲間だったんだろ? 罪悪感とか、ないわけ?」
翔が呆れたように眉を顰める。
「別に。俺、あいつのこと嫌いだし」
虫でも払いのけるような司旦の物言いは、意外ではなかった。奴隷生まれの重荷を背負い、文字通り生きるためなら何でもしてきた司旦が、人生の勝者としての路を堂々と歩んでいるあの首と釣り合いが取れるとも思えなかった。
不意に激しい湯気と熱風が吹き付ける。これといった異臭はなかったが、三人は揃ってしばらく呼吸を止める。徐々に苦しくなると袖の中で息を吐き出し、風が止むまで岩陰に身を寄せ合った。
恐らく、時間帯によって発生する水蒸気の一種なのだろう。仄かに温泉の香りの湯気を浴びているとだんだん汗ばんできた。どこからかふしゅ、ふしゅ、と地面から蒸気が吹きあがる音が聞こえる。
膝を抱えて岩陰に背中を預ける司旦が、肺に溜まったものを吐き出すようぽつりと呟いた。
「あいつ、叩き上げだからなぁ。自分の努力で人生を勝ち取れるって、羨ましいよ」
彼の指す「あいつ」が七星の首を指しているのだと分かり、ふと、七星の首が従えていた獅子のスコノスのことを思い出した。火山帯の凶暴性を秘めた暑さは、熱線を撒き散らして暴れ狂ったあのスコノスをどことなく彷彿とさせる。
「叩き上げかぁ」翔は語尾を間延びさせる。俺もその意味を考えてみる。
司旦は、そもそも土俵に立つことすら許されなかった。挑む前に負けていたのだ。その耳に留め付けられた奴隷生まれの証が、司旦にとってどれほど重いのか俺には想像もつかない。
「ちゃんと頑張ってきた奴には、負け犬の気持ちは分からないんだよ」
「……」
司旦の口ぶりは妙に地に足がついている。言い換えればまるでそうあることが自分の使命であるかのような側面も持っていた。勿論司旦は望んでそうなった訳ではないのだろうが、そこに幾分自尊心や意地のようなものが染みついているのも否めない。
そして、俺たち世捨て人も“負け犬”だった。少なくとも七星の首は俺たちをそうやって扱った。
今になってようやく、彼と言葉を交わしたときの如何ともし難い不快感の正体が分かった。どこまでも分かり合えなかった平行線の会話の内容もさることながら、彼は最初から最後まで俺と翔を悪気なく見下していた。世捨て人という肩書だけで、厄介で手のかかる子どもを前にしたような態度をとられたことが、俺は腹立たしかったのだ。
「負け犬で悪かったな」
翔が誰に言うでもなく呟く。世捨て人で、異民族の帰化人である翔もまたそういった呼び名に思うところがあるのかもしれない。
司旦は淡白を装った。
「努力が足りないとか、怠惰だとか、要領が悪いとか、強い奴はいろんな理由をつけて俺たちを詰ったり、頑張れ、やれば出来るって励ますけど、実際問題、俺たちだってどうして自分が負け犬になっているのか分からないしな」
だから、開き直る以外にどんな道があるんだよ、と。悲しげに笑った司旦に、俺たちは無言になる。ぎこちない沈黙だった。
異民族の血を引くという理由だけで汚い仕事をしてきたことも、影家に仕える近習という理由だけで五十年あまり監禁されたことも、司旦に何か落ち度があった訳ではない。もしそうだとすれば、弱さを悪だと断じるこの世の方が極悪非道だ。
「……さあ、行こうよ」
司旦が立ちあがる。幾分弱まった水蒸気の熱風がその頭髪を嬲った。
「死んだ奴の話をしてもしょうがない。暗くなる前にここを抜けなきゃ」
ところが、である、結論から言えば俺たちが日暮れまでに火口群の荒野を抜けることはなかった。
ガスの濃度が危険な箇所が多かったため行きつ戻りつしながらどうにか荒野の終わりにまで差し掛かっていたのだが、見上げるほどの険しい絶壁によって阻まれ、立ち止まらざるを得なかったのである。
周囲を見回せば、自分たちが巨大なすり鉢状になった火口付近に入り込んだのだと分かる。少し遠回りすれば幾分ましな斜面を登ってゆくことは出来そうだが、相応に時間はかかりそうだ。
「きっと大昔にこの辺りで大きな火山爆発があって、山頂の一部が吹き飛んだんだろう。断層の感じから見てもかなり古い。具体的には二千年くらい前」
「解説どうもありがとう」司旦は面倒臭そうな顔をしながら、大自然がつくり上げた巨壁を見上げている。
既に辺りは暗くなり始めていた。あれをよじ登るにしろ、遠回りして別の道を探すにも遅い時間だった。下手にうろうろするより、小高い丘陵地帯で休むべきだろう。
疲労のためか、薄い酸素濃度のためか、俺たちは昼間よりも口数が少なくなっていた。後半の道のりは特に体力を削がれた。
誰も声には出さなかったが、本当にこのやり方で神域を脱出できるのか確証もない。今日のところは、上手くいかないことがあっても互いを責めたり苛立ちをぶつけるような展開にならなかったとはいえ、この状態が数日続けば長くはもたないだろう。
食事もそこそこに、俺たちは交代で眠りにつくことにする。
焚火は熾さなかった。もし引火性のガスが流れてきて爆発でもすれば洒落にならない。幸い活火山が微睡む地表は温かく、固いことを除けば眠るのにさほど苦労はしなかった。




