Ⅳ
翔が目を醒ました後、俺は三人で雰王山を脱出することを告げた。出来る限り早く、ここを“脱出”しなければならない。そういう説明をした。
「どこへ行くんだ?」
「都へ」
翔の問いに俺は短く応える。寝起きのためか、翔の声はひび割れて聞き取りにくかった。水の入った袋を手渡し、翔がそれを飲んでいる間にもう一度言う。自分自身に言い聞かせるように。
「都を目指す。まだ間に合うから」
「それは、豊隆がそうせよと言ったのか?」司旦が控えめに口を挟む。
彼自身にさしたる信心があるとは思えなかったが、それでもこの雰王山において何が中心に廻っているのか心得ないほどの不敬ではないらしかった。
「……」
俺はゆっくりと瞬きをする。喉が渇いていた訳ではないが、何かが引っ掛かって言葉が上手く出なかった。翔はそれを見て、小さく頷く。
「お前がそう言うんだったら俺は信じるよ」
うん、と小さく言う。そこに幾分喜びの色があることを認めるのも吝かではなかった。翔は何も言わず、俺を信じてくれる。単にそれが嬉しかった。
「……ま、ここを出て行くのは俺も賛成」司旦は軽薄を装って肩を竦める。「こんなところで暢気に生活するなんて正気の沙汰とは思えない」
ぐうの音も出ない。
それから俺たちは、自分たちの持ち物を広げた。手持ちの食糧は──翔のたくあんを除けば──とても充分とは思えなかった。翔と司旦はいくらか現金を所持しているが、二人分を合わせても旅の間に宿の温かい布団を期待するには足らなかった。
「これは俺の予想だけど、雰王山のものを外に持ち出すのは止めた方がいいと思う。招かれた客とはいえ、神域のものを俗世へとっていくのはまずい」
翔の意見に、俺も司旦も同意した。色とりどりの湖から汲んだ水は全て捨てていく。ここで手に入れた自然の食べ物を口にするのはいいが、懐に仕舞うのはやめることにする。
ここからどれほど時間をかければ外界に出られるのか正直見当もつかなかった。神域は物理法則によって測れず、という恒例の不条理は承知の上だが、永遠に出られない可能性もゼロではないあたり不安が募る。
それに、俺たちの体調も到底万全とは言えない。翔も司旦も、大怪我を追ってどうにか命拾いした者特有の、嵐の夜を乗り越えた麦穂さながらの萎びた生気を漂わせている。どちらかと言えば軽傷の範疇に収まる俺も、肩口には矢で射抜かれた治りかけの傷を抱えていた。
背中に手を伸ばし、傷口を労わるように深呼吸する。確かに痛いのは間違いなかったが、泣き言を言っている場合ではない。何があろうと、行かねばならないのだ。何があろうと。
まだ間に合う──豊隆が俺に伝えたことが意味するところははっきり分からない。白狐さんはまだ助け出せるということなのだろうか。俺はそう信じることにする。立ち止まっていても仕方がない。
太陽が徐々に高度を上げつつある頃、俺たち三人は外を目指して山を下りた。西も東も分からないまま、都を目指して。
***
思いの外、俺と翔と司旦の珍道中は愉快な様相を呈していた。
司旦が安直に俺たちの味方になったとはあまり思えない一方で、彼は無暗に敵意を撒き散らすような性質の男ではないらしかった。ひとまずの休戦協定を結んだ、と考えてよいだろう。
そして何より、雰王山の麓を横切る最中、神域特有の様々な風景は俺たちの心を少なからず惹きつけた。
瑠璃色の葉を水面に触れるほど垂らした木々が光を透かし、宝石に見紛う色合いに煌めく。女神が落とした鏡の破片だという無数の湖は、俺たちが岸辺を通ったときだけ僅かに漣を刻んだ。碧い水辺は静けさに満ちている。何気なく覗けば、水底にいる青い魚の影が幻想的に揺らめいていた。
顔を上げれば、そそり立つ岩壁が奇妙な形を象っている。幾つもの岩の柱が地面から林立し、神仙界に迷い込んだように錯覚した。
そう口にすれば「ここは神仙界じゃないのか?」と司旦が眉を寄せて呟く。
さしあたり、目指すべき目印は彼方にそびえる山脈と決めていた。巨大な海洋生物の背びれを思わせる急勾配の高山帯。波打つように連なる水色の尾根は根雪に染まっている。
今朝、太陽が昇ったのはあの山々が見える方角だった。論理的に考えれば、都はあの裏側にあるはずだ。尤も、神域に人間の論理が通じようもないのだが。とにかく、怪我人とともに乗り切るには過酷な道程になるに違いない。
「あ、いいもの見つけた」
言うや否や、ひらりと巨大な樹木の根を飛び越える。そうして翔がどこかへと姿を消したのは昼前だった。丸一日前まで瀕死だった人間とは思えない身軽さで、俺と司旦は一メートルもの高さまで盛り上がった根を超えるのに苦労する。
「おい、どこに行くんだ」
「まあ見てろよ」緑の向こうから翔の声が聞こえる。声の方向を追えば、青みがかった森が急に途切れて空間が開けた。
あ、と司旦が声を漏らす。俺も息を飲んだ。甘い香りと花びらが河辺の風に乗って目の前を舞った。
山脈から湧いた雪解け水の支流だろう。流れは穏やかで如何にも平和だ。それだけでない。岸辺は一面桃色に染まっている。
夢のような花吹雪。連なる桃の花々。春爛漫とばかりに咲き乱れる桃の木々は、美しいを通り越して甘美な陶酔を誘う。まるで色と光の洪水だ。
「花が、光っているように見える」
思わず呟く。ひとつひとつが溢れんばかりに花びらを盛り上がらせ、甘やかな香りを振り撒く無数の花。風に吹かれ、川の流れが花びらを攫い、地面も水も桃色に染まる。
「桃源郷だね。文字通り」
感心したように、司旦が呟く。確かにそうだ。遊仙詩に吟じられる、山奥のどこかにあるという理想郷。足を踏み入れた者は歓待されるが、里に帰ってからは二度と同じ場所を見つけられなかった。そういった物語の舞台そのものである。
「ところで、たくあんくんは何を見つけたんだ?」
独りごちる司旦に、「多分花神に呼ばれたんだろうな」と内心で答えた。長遐にいた頃も、林の向こうの俺には見えない誰かに向けて手を振ったり、心を通じた古樹と何やら話しているのを幾度となく見たことがある。
従って、翔が満面の笑みを浮かべて頭上の桃の木から突如姿を現したときもさほど驚きはなかった。が、その腕に幾つも抱えている桃の果実を見たときはさすがに面食らった。
「花神たちが、くれるって」翔は意気揚々と飛び降り、果実のひとつを手渡してくる。割れ目の入った円い桃の果実は、ほどよく熟れて甘い匂いがした。
「花が咲いているのに実があるのか」
「仙桃だよ。正真正銘の」
翔にとって一般的な季節感というのは重要でないらしかった。至極真っ当に困惑している司旦にも「ほら」と渡した。司旦は何か言おうとして口を開くが、結局黙って受け取った。
『天介地書』が語るには、天帝の園には三千六百本の桃の木がある。三千年に一度熟す果実を口にすると仙人になり、六千年に一度熟す果実を口にすると長生不老が得られ、九千年に一度熟す果実を食べた者は天地のあらん限り生き永らえるとされる。これが仙桃にまつわる神話であるが、まさか本当に仙人になってしまう訳ではあるまい。
「これは地上の仙桃だからね」器用に歯で皮を剥きながら、翔が肩を竦める。「霊験はあるけど、多少寿命が延びる程度じゃないかな」
「俺はこれ以上寿命を延ばしてどうするんだ」
司旦の呟きは不謹慎ながら俺たちの笑いを誘った。そんな得体の知れないものを食べて大丈夫なのかという一抹の不安もありつつ、くれると言うのであれば有難く頂戴する。
懐に入れていた短角刀を袖で拭い、桃の表面に切れ目を入れて皮を向く。果肉が切れる柔らかな手応えがあり、そのまま食べやすい大きさに切り取って口に運ぶ。甘い果汁が溢れ、疲れた身体に滋味が染み渡った。食べ物というより飲み物に近い。あっという間にぺろりとひとつ平らげてしまう。
空腹もあり、夢中で二つ目を食べている間も、翔は花びらの舞う宙に向けて何かを言っていた。不可視の誰かと話している。少なくとも、俺の目には何も見えない。
桃の木の下に座り、口の周りに付いた果肉を舐めている司旦が、ぽつりと小さな声で言った。あれ、すごいな、と。
「俺も植物の霊と話すことはあるけど、ここまで親密にはなれない」
「翔はきっと特別なんだと思うよ」
俺も小さな声で返す。司旦はちらりとこちらを見て、翔へ目線を戻した。現実離れした甘い香りに包まれ、春色に染まる穏やかな流れに耳を澄ます。
しばしの休憩を経て、俺たちは再び出発した。川沿いに連なる無限の桃の林を追い、目印の山に向けて上流を遡行する道を選んだ。
桃色の霞のように、花の群れは延々と続いている。花神の姿は見えなかったが、透明な絹の衣のようなものに守られている不思議なぬくもりがあった。桃の花が俺たちを見守っている。
「あのね、必要なことなんだよ」先頭を行く翔が、不意に子どもじみた脈絡のなさで口を開いた。
「何が?」
「俺たちが都へ行くことはね、この花の神にとっても必要なことなんだってさ」
必要。俺はその言葉の重みを確かめるよう、口の中で繰り返す。それは一体どういう意味だろう。こんなところで花神が嘘をつくとは思えなかった。しかし雰王山の自然霊と都に如何なる繋がりがあるのか見当もつかない。
ともあれ、想定外の方向に話が進みつつあることは間違いなかった。都へ行こうと自分から言い出しておきながら、俺は不意に釈然としない不安に襲われる。事態が自分の手を離れ、大河の濁流に呑まれていくような、そんな頼りなさだ。
「……何だか、大事になっていないか?」俺は控えめな声音で言う。
「とっくの昔に大事だよ」司旦は前を見据えたまま口を尖らせている。




