Ⅲ
長い話が終わった翌日、俺は誰よりも早く目覚めていた。
豊隆の巣穴に透き通った朝陽が差し込む。薄い金色の線が幾筋も宙を横切り、岩の地面に落ちる。起き上がってからしばらく、俺はぼんやりと外に広がる山々の稜線の輝きを眺めていた。
ここに来て何日経っただろう。時間の感覚が狂っていた。指を折って、恐らく五日目だろうと思う。俺と翔は既に五日間、雰王山にいたことになる。
あまり長く神域に留まれば、戻れなくなるかもしれない。そういった漠然とした恐怖があった。俺の中の生き物としての本能は、早く外の世界に戻りたがっていた。ここは人間が長く留まってはいけない場所だ。例え招かれたにしろ、限度がある。
翔は泥のように眠っている。治りかけの大怪我を抱え、休息が必要なのは目に見えた。司旦は巣穴の奥に蹲り、寝息を立てている。俺は密かにほっとした。司旦が眠っている間、俺たちに危害を加えないとも限らないからだ。
昨日、俺は自分の身の上を彼に明かした。別の世界から事故的に来たという我ながらとんでもない導入に始まり、行方不明になった妹のこと、イダニ連合国の救世主コウキとの関係性に至るまで、気が進まないながらもほとんどの経緯は話したと思う。
そんな奇想天外な話を司旦がどう受け止めたか分からない。俺の素性を明かしたとき、司旦の顔色は読めなかった。スコノス、へえそうなんだ。短い相槌ひとつで済まされたが、その裏には様々な感情が飛び交っていたに違いなかった。
「……」
俺は自身の顔を手で擦る。乾いた泥が粉末状になって剥がれ落ちる。一人で目覚めた朝は、新しく、何かが始まる予感を孕んでいた。
立ち上がり、巣穴の口の前に立つ。朝陽に満ちた森が眼下に広がっていた。大気は静止し、澄みきっている。俺は目を細め、見る度に胸を打つような雰王山の景色にしばらく立ち尽くした。
徐々に色彩を変える光が、一面の湖水地帯に降り注いでいた。鮮やかに反射する水面はそれひとつひとつが竜の鱗を思わせる。太古の生き物が、全貌を認識できないほどの巨体を一帯に横たえているかのように。
どこからか湧いた水は幾つもの支流に分かれ、断崖の岩、松の木々を伝い、壮大な楽器となって清らかな調べを奏でている。それが光の角度によっては紫、水色、黄金へと移り変わり、透き通った硝子質に煌めいていた。匂いや音さえも、独特の質感を持っていた。
俺は細く息を吸った。透明な空気がよそよそしく肺に流れ込む。神域の植物によって濾過された空気。頬に吹く柔らかな風はどこまでも他人行儀だ。
「……豊隆?」
俺は呟く。ほとんど無意識だった。無意識に、遠くにいる神鳥と交信した。瞬間的な電撃が脳裏を奔り、気のせいではないという確信を持つ。それから空の彼方に豊隆の影が現われたことに、俺は驚かなかった。
小雨の一群を引き連れた豊隆は、白銀の翼を虹色に輝かせ、辺り一面を淡い七色に染めた。巨大な鷲の翼が旋風を起こし、柔らかな青葉を巻き上げる。松葉が雨に塗れ、きらきらと細かく反射する。
目の前に降り立った豊隆は、前よりも幾分穏やかな神気を纏っていた。今だけは、顔を見ることを許されているらしかった。見上げるほどの巨躯は、巣穴の中に優雅な均衡で収まる。翔たちはまだ眠っていた。
「なあ、俺は一体どうすればいいんだ?」
囁くように問いかける。俺の声は惧れと迷いで震え、それでいてどこか落ち着いていた。神と対面するに相応しい精霊の風格のようなものすらあったかもしれない。
「どうすればいい? 教えてくれ。お前は知っているんだろう?」
豊隆が折り畳んだ四枚の翼を僅かに持ち上げ、人間でいえば脇の部分の居住まいを正す。風の塊が俺の顔にぶつかり、雨の匂いが吹き抜ける。再び見上げれば、豊隆もまたこちらを見下ろしていた。
俺は初めてその面立ちをまじまじと見た。頭の冠羽から趾の先まで、薄い銀色に発光している。翼の数を除けば体つきは概ね猛禽のそれに近く、空を支配する逞しさとしなやかさを兼ね備えていた。首から頭までの曲線はやや細く、極楽鳥のような美しい冠羽と絶妙な均衡をとっている。湾曲した嘴は水晶のようで、眼光は恒星を閉じ込めたかのような黄金だ。
豊隆を語るのに、作り物しか範疇のない芸術論では到底足らない。神は神。それ以上の形容は要らないだろう。自然と調和がとれ、雰王山の風景に溶け込み、それでいて何よりも突出している。自分がこうして神と対話していることが奇妙だった。
豊隆は何もかも知っている。その思わず目を背けたくなるような神の眼差しで凡てを見ている。図らずも、運命共同体──この呼び名が適切かはともかく──になった俺には、それを僅かにでも共有する権利があるように思われた。
「……教えてくれ」
空気に染み入るような声で語りかければ、豊隆はおもむろに首を下向けた。俺は手を伸ばし、その大きな嘴に触れる。豊隆の猛禽の嘴は、複雑に光を弾いて紫水晶のような色と質感を持っていた。しかし体温ひとつとっても、冷たいとか温かいという物理的な尺度を超えている。
神と触れ合った途端、全身の毛が逆立つほどの悪寒が駆け抜けた。豊隆が薄らと嘴を開く。そこから淡い神気が漏れ出し、霧のように立ち昇った。俺は水面から空気を求めるようにやっとの思いで呼吸をする。
幾度かそれを繰り返すうちに、俺は豊隆と意識を繋げることに少しだけ慣れた。あの悪夢のような夜、植物たちと意思疎通したように。あの灰毛の老馬の背に乗って雲上渓谷を脱出したように、言葉では表現しようのない、不純物のない回路が通じ合う。
俺は豊隆の嘴に手を置いたまま身動きが取れない。痺れる痛みを掌に感じた。感電しているのだろうか。しかしそれは拒絶ではない。
その瞬間、自分は豊隆に選ばれたのだと骨の髄まではっきり分かった。それが良いことなのか悪いことなのかはともかく、俺は選ばれたのだ、と。
「──……」
そうして二秒ほど経っただろう。豊隆は嘴を離した。途端に俺はその場にへたり込む。血の気が引いて、何かの発作を起こしたような激しい動悸が身体を蝕んでいた。
しかし、それは飽くまで肉体に表出した分かりやすい症状に過ぎない。精神はもっと擦り切れ、消耗していた。向こうが大幅に譲歩してくれたとして、せいぜい二秒が限界だ。それ以上は神気で気が狂ってしまう。
俺は麻痺する左の掌を温めるように撫で、豊隆を仰ぐ。豊隆が俺に語ることはもうなかった。僅かに首を伸ばすような仕草の後、軽く翼を開く。屋根のような覆いが頭上に広がり、見ている内にそのまま岩盤を蹴って宙へ飛び立った。
大きな風が起こり、俺は大空へ舞い上がってゆく豊隆の背を見送った。残された旋風がくるくると俺の毛先や着物の裾を振り回し、やがて鎮まる。細い雲と銀色の小雨が僅かに周囲を濡らしていたが、じきに止むだろう。
「驚いたな。この目で見たんじゃなきゃ信じられない」
突然声を掛けられ、俺は振り返る。いつの間に目を醒ましていたのか、上体を起こした司旦がこちらを見ていた。その眼差しに込められた率直な驚きに、どう反応すべきか逡巡する。
黙っていると、司旦はゆっくりと口を動かす。慎重にこちらを窺うような言い方だった。
「神と、友達になったのか?」
「友達ではない」
俺は否定する。俺と豊隆の繋がりは、決して好意的に結ばれた絆ではない。友好や信頼とは全く性質の違う、自然の理が作用したひとつの運命的な“過程”だ。ある種においては、事務的な関係、と言ってもいいかもしれない。
「上手く表現できないが、一緒に居なくちゃいけない。それだけは確かだ」
居る、というのは物理的に傍に居るという意味ではない。精神的に、互いの存在を常に意識し合わねばならない。俺と豊隆は見えない糸で結ばれ、それを解くことは少なくとも俺の側からは不可能だ。
司旦にそれが正しく伝わったか自信がなかった。しかし、俺はこの話を深く掘り下げられたくなかった。
「なあ」司旦はそれを見透かしたかのように、やはりどこか試すような、揶揄するような視線をこちらに向けた。「さっき豊隆と何か話していただろう。豊隆は何と言っていた?」
口を開き、俺は何も言わない。人間の分際で神の意思を推し量るな、と一蹴したかったが、変に勘繰られるのも嫌だった。それに、ある側面において神という単語は人を動かすこともできるのかもしれない、とも思った。
答えるのに時間がかかったのは、司旦に何もかも明け透けにするのは抵抗があり、同時に神の意思を人間の言葉に変換するのは困難だったせいでもある。
俺はしばらく息を吸い、ようやく消え入るような小声で、一言だけ呟く。
──まだ、間に合う、と。
「え?」
司旦が両目を瞬かせる。探りを入れているというより、本当に聞き取れなかったらしかった。
俺はそれ以上言う気はない、と短く斬り捨て、衣服の埃を叩いて飛ばす。砂埃が立ち、身体をきれいにしたいと幾度目か分からないため息をつく。
また、長い旅になる。
「身体を洗ってくる」
翔が起きる頃に戻る。そう言い残し、俺はよろよろと巣穴の奥の通路から地上へ降りて行った。司旦は何か言いたげだったが、結局何も言わなかった。
狭い岩壁の間を抜け、蛇のようにのたくる風の通り道に沿って慎重に下りながら、ふとあの水蛇はどこへ行ったのだろうと考える。




