Ⅱ
それから、司旦が目覚めることはもうないだろうと言われていた。
影家の庭に突如現れた“何者か”によって頬と首肉を削ぎ落とされ、大量出血の果て意識を失ってから四日あまり。司旦が生死の境を彷徨っている間に、朝廷の歴史は着実に動こうとしていた。
影家の儲君が右目を失った事件は前代未聞の異事として朝廷の根底を揺るがした。そも、影家では白狐の神秘的な容姿含めて崇拝されていた節がある。儲君の顔が疵物になったことが信奉者にとりどれだけの衝撃だったのか想像に難くない。
猟奇的な一事件が、国家の存続に関わる不吉の標として解釈されたのも天学を重んじる朝廷では当然のことだ。多少大袈裟に言えば、この世の終わりだと考えた知識層も一部いたほどだという。
あの夜の出来事はおおよそ司旦が見た通りに伝わっていたが、小鳥の正体が綺羅であることはほとんど知られていなかった。むしろ人々は『天鷲の故事』になぞらえ、白狐の失明は天帝の怒りを買ったためだとしきりに畏怖した。
これは、司旦にとって喜ばしくない想定外だった。あの小鳥が天鷲ではないことは明らかだが、一方でそれを証明する手立てがない。
大衆心理は事実よりも、噂に先行する虚妄に惑わされた。そうして事件は未解決のまま、いつしか朝廷では天帝から余計な怒りを買うまいと影家そのものが腫れ物扱いされつつあった。天罰だとか因果応報だとかいう非合理的な考えが、こんなにも大きな力を持っているとは信じられなかった。
この国は信仰によって支えられている。司旦はそれを嫌というほど思い知った。
信仰とは天や月天子の血縁への宗教的な服従であり、同時に共同体内部の平等な信頼関係を指す。貴族たちの派閥は婚姻や金によって意地汚く結ばれているが、その一方で最終的には人望に依ったところもあった。人間関係の崩壊は、今まで保たれていた均衡が壊れることを意味する。
司旦が奇跡的に意識を取り戻したとき、既にその均衡は崩れる寸前だった。
夜が明ける頃、朦朧と四日ぶりに瞼を開けた司旦はそこに主がいることに気付く。司旦が横たわる寝台の傍らに膝をつき、白狐は祈るようにこちらの手を握っていた。
今にも消え入りそうな体温が手に染みつき、彼がもうずっと長い時間そうしていたのだと分かる。思わず細く息を吸ったのは、その顔に巻かれたあまりに痛々しい包帯のため。
こちらに気がついた白狐の顔の半分は包帯で覆い隠されていた。相当酷い傷だったのか大袈裟に顔からはみ出たそれは、ただ包帯を巻くしかない無力さを醸している。
主の右目が綺羅に噛み千切られた光景を思い出し、あれが悪夢ではなかったのだという衝撃に言葉を失う。瞬間、狂気にも似た恐ろしい混乱がやってきた。白狐が手を握っていなければ精神の均衡を失い、発狂していたかもしれない。
「司旦」
白狐が小さく呼ぶ。およそ彼に用意された人生で経験するはずのない肉体的苦痛と数日闘い、すっかり生気が尽き果てたような、か細い声だった。
途端に司旦は泣き出した。人前で泣くほど情けないことはない。自分の怪我の痛みもあったが、それ以上に同じ場にいながら主を守ることができなかった激しい後悔に襲われ、次から次へと目尻から涙が流れていく。
悲しみや悔しさを越え、受け止めきれない感情で一杯になった精神の防衛機制に近いものだったかもしれない。白狐はしばらく黙って司旦の涙が流れるままに任せていたが、やがて子どもにそうするよう手を伸ばして髪を撫でた。
「白狐様……」何と言っていいか分からず声を上擦らせる司旦に、白狐は小さく首を振った。それ以上喋らなくていい、と。
「時間がありません。それでもあなたに知っていて欲しいと思って待っていました」
それは潔さと諦めが同居した、久しく見なかった主の暗い表情だった。初めて出会ったときと違うのは、目の奥に宿っている決意のような光である。司旦は自ずと不穏な予感を覚えた。
「綺羅と取引をしました。ええ、彼は初めからそうするつもりだったようです」
時間を気にしているのか白狐の口調は急いている。必要なこと以外は言わない、余計な口を挟ませない淡々とした説明だった。
「僕はここを去らねばなりません。あなたたちを置いて、一人で出てゆきます。そうせよと綺羅が言うのです。逃亡の手引きは彼がします」
「……逃亡」
「彼が最終的に何を目的にしているのか、僕もはっきりとは分かりません。ただ彼は、月天子の血縁に拘っているようです。月天子の正統な血を引く後継者の身体が必要なのだと。それで、僕を必要としていたのだと言っていました」
「……」
「彼はニィというものを宿しています。それはネクロ・エグロからスコノスを奪い、永遠の命を得る不死研究の発見なのだそうです。そして本来ニィを扱うのは、天子の血を引く者でなければならないのだと言っていました」
何か言わなければ、と司旦は思った。止めどなく流れてゆく主の話はどこか架空のお伽噺のようで、思考が追いつかない。
「僕はきっと、そのために狙われていたのでしょう。彼らはニィというもののために、何らかの手段で僕を傀儡にしたいのかもしれません。尤も綺羅も事前にこんな騒ぎを起こす気はなかったようですが」
そこで白狐は一息ついた。自身で幾度となく内容を反芻したのだろう。決められた台詞を言うように、端的にまとまっていながらどこか上滑りして抑揚がない。
「取引の内容はこうです。僕が犠牲になる代わり、騒動は影家の内々のみで収めると」
「……」
気付けば白狐も泣いていた。表情を動かさず、花から零れる夜露のような涙がはらはら落ちた。それが白狐にとってどれだけ苦渋の選択だったのか司旦には知る由もない。もし取引に応じなければどんな事態が待ち受けていたのか想像を絶する。それはほとんど取引というより脅迫に近かっただろう。
「僕はこれから都を出ます」
「……」
「不甲斐ない主でごめんなさい。これではあなたに見限られても仕方ないと思います。今はイダニ連合国の連中の言いなりになるしかありません」
今は、と白狐は言った。失望の淵で自らを必死に鼓舞しているようだった。白狐は泣きながらも毅然としている。そんな主をどうして見限ろうか。
白狐はそれ以上説明することはなかった。司旦が知り得たのは、主が自分を置いて何処かへ行ってしまう。自分が出来ることなど何一つないという事実だけだ。
ニィとは一体何なのか、この時点で司旦はその存在を深く意識することはなかった。綺羅に噛みつかれた唾液と血液の接触を通じ、既にニィは司旦の体内に入り込み、じわじわと蝕んでいたにも関わらず。
白狐は黙って司旦の手を握る。体温は低く、皮膚の感触は生きた者ではないようだ。涙はもうなかった。覚悟を決めた、静かな顔つきだった。
言わなければならないことがたくさんある。訊かなければならないことも。しかし、司旦は言葉が出ない。ただ離れないでくれと、主の華奢な手を掴むのが精一杯だった。
「……司旦」
白狐が名を呟く。それきり言葉が途切れ、じっと目を見つめる。水底に何か見えやしないかと子どもが泉を覗き込むかのように。痛々しく残った右の瞳には涙の膜が張られ、それが静かに光っている。
結んだ桜色の脣が物言いたげに少し震え、それが無理矢理弧を描いた。そのままさっと立ち上がり、手が離れた。司旦は起き上がることもできず、室を出て行く主の背を見送った。
それが白狐との別れだった。本当の地獄がここから始まった。
その日の内に、皇帝はこの事件を公式に異事と発令し、影家に不義ありと断じた。年明けの宴席での一件は白狐が他の儲君を潰すために企てたことで、邪な心が異事の数々を起こしたのだと解釈した。次期皇帝の座を狙う邪な野心が天に伝わり、罰が当たったのだ、と。
例の『天鷲の故事』は影家没落のために盛んに喧伝された。望家出身の皇帝にとってはまたとない好機だったのだろう。彼は自分の世継ぎを次の皇帝にと推していた。影家没落は清心派の瓦解を意味し、朧家の千伽と影家の白狐が落ちれば息子の地位は安泰だった。
思えば単純な話だ。表向きは、次の皇帝の座を巡る儲君同士の政争に過ぎない。周囲に疑心暗鬼を撒き散らし、不可解な神秘を都合よく解釈し、清心派の未来を潰した望家が争いに勝ち残った。
そのやり方に不信感を抱くものも少なくなかっただろうが、異論を掻き消すよう、皇帝は影家を徹底的に抹殺することを宣言した。血族は勿論のこと、影家に仕えていた者や女官たちもまとめて粛清する、と。
翌日、一月二十三日。奇しくも白狐の誕生日の一日前のこと。皇帝が遣わせた禁軍の三部隊が影家の正殿の門を叩いた。それは影家の終わりを意味した。
抵抗の意を見せれば処分は殊更厳しくなることは間違いない。この時点で白狐は既に都から姿を消していた。誰も行方を知らず、白狐の父親と妹は罪人の筆頭とばかりに大人しく皇帝側に下ることが求められた。
物々しく両手首を縛られて禁軍に連れられた二人の姿に僅かな恩赦を期待した者は多かっただろう。しかし、裏切られた。翌日、二人が極刑に処されたという報せは影家のみならず、朝廷全体に大きな衝撃をもたらした。例え謀反の疑いありにしろ、他の門閥貴族や七十二吏の進言や輔弼を聴かずして極刑を強行──。
古くからの司法制度に反した皇帝の独断を多くの人が不審を抱きながら、それを口に出す馬鹿はいなかった。二人が処刑されると同時に影家に関係していたものには全て“制裁”が下された。有言実行とばかりに、一見無関係であろう下働きの者まで次々連行され、容赦なく殺された。その無慈悲で急展開の“制裁”は半ば見せしめの意を含み、周囲の賢明な者たちが口を閉ざすには充分だった。
翰林院を通じた皇帝の詔勅で、空白になった影家の当主に綺羅が据えられたのは誰が見ても不自然なことだった。白狐の父親が死罪となり、儲君であると同時に影家の次期当主の継承権を持っていた白狐が都からいなくなれば、確かに残された親類の中で最も近しい男は綺羅しかいない。それは分かる。
しかし、朝廷は血筋による世襲が慣習として根付いている。直系の血筋でない者が門閥貴族家の後釜になった事例は少なく、皇帝の勅令は当然周囲の戸惑いを生んだ。勘が良い者は綺羅と皇帝が裏で手を結んでいるのではと勘繰っただろうが、それ以上は何も分からなかった。
司旦だけが、綺羅の素性を知っていた。
主との最後のやり取りから察するに、綺羅の目的は白狐本人だという。故に、皇帝の影家粛清を前に白狐を都の外へ逃亡させたのだろう。白狐に死なれては困るのだ。
しかし、それ以外にもあったのではないか。粛清後の展開は、そんな予感を覚えさせた。綺羅は──影家当主の座も最初から狙っていたのではないか? 彼は敵国の者である。皇国転覆か何かしらの意図を以て朝廷上層部に食い込んだのだとすれば──彼がすぐに白狐を連れて西大陸へ渡らず、身分を偽ったまま都に居座ったのも腑に落ちる。
騒動は影家の内々のみで収める。そんな綺羅の口約束がどれだけの効力を持っているのか、判断が付かない。まるきり嘘である可能性も否めない。
司旦に許された推測はそこまでだった。他の近習と共に捕らえられた司旦は拷問にかけられ、他の者と同じように死罪に処せられるはずだった。
しかし、幸か不幸か、思わぬ事態になった。司旦は殺されても死ななかったのである。
それがどれだけ不気味に映ったか想像に難くない。司旦自身も気づかない内に、身体を浸蝕したニィは司旦の心臓を動かし続けた。拷問の傷は治癒することなく勝手に塞がり、例え心臓を突かれたところで拷問吏は信じられない光景を目の当たりにするだけだっただろう。
そんな“死なない近習”の処遇をどうしたものか、皇帝は判断を保留にした。彼は西大陸の不死研究やニィのことなど知りようもない。夜な夜な飛ぶ小鳥のことなど吹き飛ぶほどの奇奇怪怪な異事を前に不吉なものも少なからず覚えただろうが、一方で司旦の特異性に何らかの利用価値を見出したとしても不思議ではない。
白狐が都から姿を消して半月ほど。司旦の処分が公に下されることはなかったが、実質的に無期限の禁錮刑が科せられた。流罪にならなかったのはその肉体の特異性のため。また白狐に最も近しい者の一人として謀反を警戒されていたためである。
そうして司旦は都の地下牢に封じられ、やがて歴史の表舞台からは忘れ去られた。“あの粛清事件”唯一の生き残りという、一部の人が知る噂の中にしかいない陽炎のような存在だった。
ようやく恩赦を賜り、陽の目を見たときには五十年余りが経っていた。あのとき望家の儲君だった男が皇帝に即位して五十年、という節目の年。恩赦とは皇帝個人の権限で下されるものであるが、朧家の当主となった千伽が裏で動いたことも功を奏したらしい。
元清心派である朧家は粛清事件の後、風当たりの厳しい立ち位置に追いやられたが、司旦が地下にいる間にどうにか体勢を立て直す手腕が千伽にはあったのだろう。司旦が人員の抜けた七星に抜擢されたのも彼の力添えあってのことだった。
どうやって説得したかは知らないが、かつて望家の儲君だった新皇帝即位五十年という節目の年、影家に仕えていた時代の功績と改心を理由に地上への復帰を許された。その裏には、司旦の“死なない”という信じられない特性をどうにか自身の戦力に加えたいという新皇帝の魂胆も少なからずあっただろう。
尤も、司旦が容易く皇帝派に尾を振るはずもなく、むしろ主を貶めた連中への復讐の刃を五十年にも渡って研ぎ続けていたことを思えば新皇帝の意図は全くの的外れだったのだが。
「お前、私の手駒になれ。白狐を助けたいのだろう?」
忘れもしない。正式に七星に任命される数日前、千伽は深夜に司旦を呼び出してそう笑った。朧家の離宮は黒々とした闇に満たされ、二人の抱えた心の空白そのもののように暗かった。
千伽が幼馴染である白狐とどれだけ懇意だったのか司旦もよく知っている。聞いたところによれば、病弱ゆえに文字通り自宮に閉じ込められていたかつての白狐をこっそり深夜に連れ出し、庭の桜やら紅葉やらを見せ、都に繰り出しては二人で悪さをしていたとか何とか。
友というよりほとんど悪友で、同い年であることから勉学も武術も共に励み、時に比較され、真逆の性格を陰陽一対と揶揄される。白狐と千伽はそんな家族にも劣らぬ近しい関係だった。
故に千伽が何かと理由をつけて司旦を地上に呼び戻し、自分と手を組んで白狐を助け出せと告げたところで何の意外性もなかった。むしろ千伽から見れば自分以上に相応しい手駒はいないだろうと納得すらできた。
結局のところ、彼に協力したのは利害の一致に過ぎない。千伽のことはその恐ろしいほどの聡明さと人を惹きつける華やかな天才性において認めていたが、一人の人間としてあまり近付きたくないというのが司旦の本音だった。今も昔も司旦の忠心は白狐に捧げられ、千伽と手を組もうがそこに揺らぎはない。
実のところ、彼のように破天荒な問題児が主の大切な幼馴染だということが少し癪だったというのもあるが、これは表に出す必要のない司旦の個人的な感情である。
千伽が合理的で残酷な手段をとる男であることもよく知っていたが、まず白狐を探して安否を確かめる方が先決だと考えた。朝廷の舞台裏を生きる七星という肩書を隠れ蓑に、司旦は千伽の手駒に甘んじた。
そんな司旦が別の用件で夕省亢州を訪れ、世捨て人の若者二人組に出会った拍子に、白狐の居場所が長遐であることを突き止めたのはまさに運命的な偶然だったのだが。




