Ⅰ
白狐には年の離れた妹がいた。名を色音といい、白狐と同様に病弱な美しい娘だった。
母親もまた早くに同じ病で死んだだけに、早く嫁にやって幸せにしてやりたいというのが父親心だったのだろう。
父親、すなわち影家の当主は白狐には徹底的に厳しく接したが、娘のこととなると多少は寛容さを垣間見せた。女は政治の道具と扱われる世、結婚相手を他家の嫡子ではなく外戚の中書省の直官──つまり中書舎人見習い──に求めたのも優しさの一端だった。
今まで顔も見たことのない男に娘を嫁がせることを真に優しさと呼べるかはともかく、色音を政治的な因縁に巻き込みたくないという彼なりの配慮である。中書省に属する中書舎人という官位は、皇帝が抱える翰林院と陰陽一対の政治機関であり、直官とは言っても将来は有望だった。当時はそれほど汚職もなかった。
ところが、この中書舎人の結婚相手というのが、今となっては謎の多い男だった。一体誰が連れてきたのか、誰も覚えてない。誰もが知っているつもりになっていたが、知らなかった。
男の名は綺羅といった。初めて見たとき、白狐のように人並み外れた女性的優美も、千伽のような老若男女を誘惑する魔性もなく、ただ控えめな印象のある小顔に大きな目が映えていた。顎までの骨格はどこか古風で、頭髪をきっちり纏めればその輪郭が引き立つ。飾り気がない綺羅の容貌は、おおよそ好意的に取られることが多かった。振る舞いも同様に、朝廷の暮らしに不慣れと見え、不器用だが裏のない言動が柔和な印象を与えた。
門閥貴族の血縁とはいえ飽くまでも傍流であり、生まれ身分は高くない。野心と呼べそうな野心もなく、当たり障りない態度が油断を誘ったのだろう。上流階級の慣習に馴染めない綺羅は時に失笑を買うこともあったが、内輪においてはどちらかと言えば人好きがする風に捉えられた。
綺羅はそうやって影家の輪に、人々の心の隙間に容易く入り込んだのである。
妹の婚姻を、白狐は喜んでいたほうだった。年の離れた色音の成長を間近で見守ってきた白狐にとり、年頃の娘を持つ父親のような心境でもあったのだろう。華燭の典の日が近付くにつれ、心配性でついそわそわする白狐を、千伽は過保護な兄だと揶揄していたものである。
華燭の典は六月、露に濡れた紫陽花の頃、ささやかに執り行われた。そうして綺羅と色音が正式に夫婦となってから数か月、異変はごく薄い霧のように足元に這い寄っていた。
誰よりも白狐の傍にいた司旦や、天才的な慧眼を持つ幼馴染の千伽までもがそれに気付けなかったのは、今思えば奇妙な話で、朝廷全体が彼の幻術にでもかかったかのようだった。
いや、きっとそうだったのだろう。不可能を可能に変えるニィであれば、人の心を少しばかり拐ことなど造作もあるまい。
そうとしか説明のしようがないのである。
白狐が何かに思い悩むような素振りを見せたのは、年の暮れに差し掛かってからだった。雪が積もり、日増しに寒さが沁みる中、物憂げに沈む日が多くなった。
司旦はそれに気付きつつ、何かと悩みの多い主のこと、珍しくないと様子見に徹していた。催事が続く年末の朝廷は近習も目が回る忙しさで、構っていられなかったというのが実際のところでもある。
あるとき白狐と綺羅が言い争いをしているような声を聞いてようやく司旦は不穏を感じた。
何を話していたのかはっきりとは聞き取れなかったが、白狐は珍しく憤慨していたらしい。司旦が室を覗いたとき、綺羅が何かを言い残して出て行くところだった。
「どうぞお忘れなきよう、義兄様」
彼の酷薄な唇はそう動いたように見えた。只ならぬものを感じて足を踏み出しかけた司旦に、白狐が素早く振り向く。獲物を見つけたら飛び出さずにはいられない近習のことをよく分かった制止だった。
「大丈夫ですから」
そう囁いた声は驚くほど小さい。
司旦の脚を止めたのはその言葉よりも、白狐の顔色の悪さだった。その血の気の失せた皮膚はいつにもまして白く、薄暗い室の中で不自然に遊離している。まるで亡霊のような佇まいに、主の病躯を見慣れた司旦でさえぎょっと一瞬動けなくなった。
大丈夫なはずがない。白狐と綺羅は一体何を話していたのか。頑なな主の口を無理にこじ開けるのは賢明でないと、司旦は白狐を追求するのはひとまず止め、綺羅への内心の警戒を深めることにする。
相手に気取られぬよう、異変を誰にも言わずにいたのは失敗だった。もし千伽にでも相談すれば、何らかの手立てを講じてくれたに違いない。朧家の儲君は傍若無人で破天荒だが、いざというとき味方にいると頼りになる男である。
司旦は誰にも打ち明けなかった。そして正月に事件は起こった。
皇帝の御前で新年の祭儀が執り行われる広寒宮。政の中枢に携わる各地の貴族の代表たち──七十二吏と呼ばれる──の宴席で、毒が盛られたというのである。
七十二人の内、毒を塗られた盃は一枚だけだった。それが現皇帝の子であり、望家の儲君だっただけに、政治的な意図が絡んでいることは明白で、朝廷は上へ下への大騒ぎとなった。
「誰が毒を盛ったのか。望家と敵対し、毒薬に精通している者に違いない」
動転した人々は犯人探しに躍起になる。そうして、次期皇帝の座を争う影家の白狐に疑いの目が向けられたのは当然の流れだった。
しかし、影家はこの件に一切関わっていない。これは陰謀ではないかという目敏い意見もあり、疑心暗鬼の渦が巻いた。
このときの時点で、綺羅を疑う者はいなかった。司旦でさえも、彼への警戒心をすぐ確信へと結び付けることはなかった。
何故なら、綺羅は直官という身分の低さゆえ、広寒宮に足を踏み入れることが許されていないからだ。七十二吏ですらない彼が、誰にも気づかれず盃に手を加えるのは無理があった。
まさか身内が白狐を貶めることをするはずないという過信もあったのだろう。その判断を、司旦はすぐに後悔することになる。
***
夜に飛ぶ小鳥がいる。
そんな一見他愛ない噂を司旦が耳に挟んだのは、正月十五日、元宵節に差し掛かった頃だった。
宴席であった毒殺未遂の件は未だ鎮まっておらず、朝廷を不穏にざわめかせていたが、その不安を裏付けるような異事だった。
異事──それは普通でない出来事に対する天学の解釈である。不可解な事件や神秘怪奇の現象は全て、天が地上の為政に何かしらを伝える標だと信じられた。人と天は互いに共鳴し合う天人相関。善政には瑞の標あり、悪政には凶の標あり。それゆえ些細な噂であろうと異事は綿密に調べられ、注意深く皇帝に奏上されるのが常であった。
件の噂の出どころは、広寒宮の儀礼を実質的に取り仕切る閤門司。広寒宮の後庭には、天壇と呼ばれる広大な祭壇と先祖を祀る廟がある。政治・宗教的に最も重要な聖地とされ、かの〈月天子〉の心臓〈天石〉が祀られている──。
そんな天壇に、夜な夜な一羽の小鳥が飛来するらしい。梟よりもずっと小さく、尾が長く、とても夜闇に紛れて飛ぶ類の鳥とは思えず、見張りのものは酷く怯えている。曰く、人間の恐怖を煽る不吉さがあるのだという。
人の口に蓋は出来ない。誰かが漏らした噂はじわじわと箱の底を腐らせるように滲み、いつしかそれが司旦の耳にも届くようになった。
異事は慎重に扱われるべき事柄で、伝え方を誤れば帝に不義ありと刑罰に処されることも珍しくない。おまけに宴席での一件もあり、政の在り方に異を唱えるような現象の出現に皇帝も心中穏やかではなかっただろう。
丁度時期が時期なだけに、『天鷲の故事』を連想する者も多く、その小鳥を不用意に傷つけるわけにもいかない。そんな話も聞いた。
「『天鷲の故事』とは?」
「元宵節の元になった物語ですよ」
十八日の夜、すなわち元宵節の最終日。身が引き締まるような寒さの中、眠れない白狐と司旦は星見台に立っていた。
元宵節は一月十四日から五日間続く盛大な祭で、民衆には酒や果物が下賜され、貴族たちもこぞって城下に繰り出すのが恒例である。街々には数え切れない提灯が吊され、その華々しい明るさや賑やかさは正月の風物詩のひとつだった。
とはいえ、例の騒動で皇帝から疑いの目を向けられた者たちは身の潔白を証明するため、謹慎という形で自宮にいた。元より大勢人がいるところは敬遠しがちな白狐もその一人であった。
「天鷲とは、天帝が大切にしていた霊鳥。あるとき天鷲が地上に降りたとき、猟師が誤って矢を撃ってその翼を傷つけてしまったのです。天帝は罰として地上を焼き払おうと考えました」
白狐は星見台から遠くの景色を眺める。都がある方角から提灯の光や人々の喧噪が微かに感じられた。司旦は黙って話を聞いていた。
「それを知った竈神は地上を守るため、人々に夜通し提灯の火を灯し続けるように言いました。そして竈神は天に赴き、既に地上を焼き払ったと天帝に報告します。天帝は一面に提灯の火が燃える街の様子を見て満足し、地上の人々は事なきを得ました。以来、十二月二十三日は祭竈節といって竈神を祀り、正月十四日からの元宵節では街に提灯を灯し続けて、竈神の知恵と一年の平安を願うのです」
話の内容とは裏腹に、夜空はどんよりと重たく淀んでいた。雪の気配はないが、重厚に垂れこめる雲が何もかもを鈍色に覆い隠している。
冷ややかな空気は肌を緊張させ、司旦はいつしか、自ずと息を詰めていた。
「──司旦?」
白狐が夜着の襟元を掴み、こちらの顔を覗き込む。天の相を映したかのよう顔を曇らせ、司旦が凝視する虚空に目を向ける。
そのときだった。微かな羽音が司旦の耳を捉える。さっと手を翳して白狐を守り、手首に仕込んだ棒手裏剣を宙に放つ。その速さは瞬きも追いつかない。
ただの鵂か、噂の小鳥か全く判断が付かなかったが、仮にも異事と畏れられるものに躊躇いなく刃を向けられる近習はこの世に司旦をおいて他にいない。
棒手裏剣の鋭い切っ先が一寸の狂いもなく空中の何かを掠めた。小さな影が錐揉みに落ちていくのがここからでも追える。それは確かに、帯紐に似た長い尾を閃かせ、噂で知られる小鳥のように見えた。
突然の事態に、白狐は絶句したようだった。仮にも『天鷲の故事』とも噂される異事、天罰を畏れず刃を向けるとは──司旦は主の蒼白な顔色を見やり、鋭く言う。
「落ち着いて下さい。あれは天鷲ではありません」
「しかし……」
「白狐様、ここは俺が」
反射的にそう言ったものの、如何なる異変が起こるか分からない昨今の朝廷で主を一人にすることを躊躇い、こちらに続いて星見台から庭へ降り立つ白狐のことは止めなかった。それよりも庭園のどこかに落ちた小鳥の正体を見極めようと司旦は足を速めた。
夜の冷えで粒状に凍った積雪を踏みつけ、二人の無造作な足音のほか一帯は奇妙なほどの静寂に満ちている。訳もなく司旦の心臓は早鐘を打ち、良くない予感を確信に変えてゆく。
はっと息を飲んで脚を止めた。向こうの暗闇から何かがやってくる。
それが不寝番の近習でないことはすぐ分かった。どちらかといえば夜行の野生動物の足取りのよう、歩き方は獣じみていた。急いてはいないが、自然に滲み出る殺気のため、空気を鋭利に尖らせているのが闇を通じて伝わる。
「……綺羅?」
白狐ですら、それが義弟だと確証が持てなかった。司旦の背を戦慄させたのは、冬枯れた庭の木立の下に立ち止まり、こちらを見つめる綺羅の異様な表情のため。
雪の白さに鈍くなった暗闇、彼はまるで血の通った生き物ではないただの石像に見えた。長い髪が解け、無造作に波打たせる様はやけに美しかったが、それがとても薄っぺらで惨めなもののようにも思える。長い年月にすり減らされ、窶れ、それでも残ってしまった芸術品の残骸のように、あるべき情念や熱が消えている。
鉄錆のような不吉な匂い。彼の足元の雪が赤褐色に染まっているのはそれほど意外ではなかった。その翼を棒手裏剣で撃ち抜いたのは他でもない司旦だ。綺羅の袖元から止めどなく流れる血の匂いが、彼の無機質さに不釣り合いな人間味を付していた。
「お前か」
綺羅は初めからそんなことを分かりきっているかのように言った。
たった一言。それが白狐と司旦のどちらに向けて言った言葉なのか、ただ司旦には私の羽を撃ったのはお前か、と言われたような気がした。
この男が小鳥に変じていたのか、となかなか受け入れられないのは、人が鳥の姿になって飛ぶという呪術的な現象が現実とは思えなかったためである。
「夜な夜な天壇に現れる小鳥というのは、綺羅様だったのですか」
司旦は素早く白狐の前に立つ。綺羅はうんともすんとも応えなかった。
後ろめたくて口を開かないのか、司旦がまるで見当違いなことを言っているのか、その無表情では判断がつかなかった。そもそも目の前にいるこの男が、果たして本当に綺羅なのか自信がない。
「何故、鳥に──?」
それこそ的外れなことだったよう、司旦の疑問が綺羅の心に届いている手応えはない。
民話でよく聞く、人が動物に変じる奇譚の類はある種の突飛な可笑しさがあるが、現実の綺羅のそれはどちらかと言えば悪夢じみていた。現実であってはならない、秩序に反するものだ。
これは主を近付かせてはいけない。この男が何者であろうと、それだけははっきりしていた。
「白狐様、御下がり下さい。妖にしろ、そうでなかったにしろ、ここは俺が」
司旦は相手から見えぬよう、仕込みの毒針を握って半歩前に踏み出す。
こちらに向けられた綺羅の目は虚ろな癖によく光り、それは理知的なものではなく、ある種の逸脱がそうさせているように見えた。
「御無礼をお許し下さい、綺羅様。それ以上白狐様に近付きませぬように」
司旦の口調は自然と硬度を帯びていた。「主に害なす者を守るのが懐刀の役目ゆえ」
「……」
綺羅は如何にも刃傷沙汰に不慣れな者の覚束ない足取りで後退り、捕らえるのは容易なことのように思われた。司旦は意思疎通のできない動物を前にしたような緊張を覚える。
この男は本当に綺羅だろうか?
──逃がしておけば良かったのだ。後になって司旦はそう思う。しかし、そのとき綺羅を逃がしたところでまた別の形で悲劇は起こっただろう。いずれにせよ避けられない運命で、今回はたまたま司旦が余計なことをしたに過ぎない。
目と目が合った。その瞬間のことはよく覚えていなかった。ただ司旦の胸に、今まで感じたことのない類いの恐怖が刻まれただけだった。心臓を鷲掴みにされたような強い衝撃が、いつまでも身体の芯に残っていた。
暗転。気がつけば、司旦は仰向けに倒れている。
凍り付いた地面の冷たさは感じない。起き上がらなければ、と思うのに身体が全く動かなかった。一体何が起こった?
呼吸がしにくい。頸椎が致命的に激しく痛み、磔にされたかのよう手足が痺れている。神経毒に犯されたかのような、死の予感のする麻痺だった。口の中に血が流れ込み、顔面のどこからか出血しているのだと辛うじて分かった。
咳き込む嗚咽が聞こえる。目玉だけ動かして横を向けば、綺羅が蹲っていた。司旦の背に寒気が走る。鮮血に塗れた口元から獣じみた尖った舌が覗き、続けて何かを吐き出した。食べたくないものを誤飲したかのよう、動物的な必死さの感じられる咳だった。
主はどこだ。司旦は痺れきった身体に鞭打ち、白狐の姿を探す。そして死に瀕した動物のような悲鳴を上げた。
数歩離れたところ、膝をついて蹲る白狐の姿がある。顔から、どす黒い液体が垂れていた。白い肌に、どろりとした流血が不気味に映える。両手で疵を押さえ、呻き声を押し殺している様は、何かの呪いにかけられて悶絶しているかのようだ。
何が起こったか脳が理解を拒む。しかし、否応なしに現実を目の前に叩き付けられた。
地面に飛び散った、綺羅の吐瀉物。血みどろの白い球体が、ぼたりとそこに落ちた。茹で卵の白身を潰したような大きさで、半ば崩れて液体になっている。焦点を失った硝子のような半透明が、虚しく宙を見上げていた。
それが白狐の片方の目玉だと──司旦は自我を失っていた。苦悶する主のところへ駆け寄ることもままならない。ひりひりと灼けつくような喉の痛みを押し退け、司旦は叫んだ。
綺羅に噛みつかれたのだ。飛び掛かられ、頬を引き千切られ、頭を地面に叩き付けられた。そして間髪入れず、綺羅は白狐を襲った。そういった一連の映像が遅れた記憶として過ぎる。
まるで獣のような身のこなしだった。素手を白狐の目玉に突き立てたとき、綺羅の動作に理性的な躊躇は一切無かった。そのまま噛みつき、白狐の眼窩から瞼もろとも右の眼球を引き摺り出した。巣穴に逃げ込んだ鼠を引き摺り出すように。
そして今、突然人間的な感性を取り戻したかのよう彼は嘔吐している。自身が引き起こした惨状を受け入れられず、怯えと後悔と不愉快が入り交じった反吐を唇から垂らしている。
やがて口元を拭い、綺羅はよろめきながら立ち上がった。こちらを見下ろす顔は再び虚無に戻っていた。そこに理性があるか定かでないが、スコノスの暴走を想起させる異常な攻撃性は消え失せている。
「……天鷲は地に堕ちた。私の翼を撃った愚行、後悔するがいい」
そう言い残し、綺羅は自らの姿を小鳥に変じて飛び去った。最後に司旦を一瞥した綺羅の固い表情は、内面の脆さを体現しているかのようだった。落ち着いているが、強い意志や決意を失っている。司旦にはそれが心底不気味に感じられた。
あれは何だ。遠のく視界で、司旦は呆然と曇空を仰いでいた。小鳥に変じた綺羅。血を流し、いつもの温厚な言動が嘘のように豹変した──あの狂気は何だ。
悲鳴を聞きつけ、駆けつける影家の者たちの足音の響きを最後に、司旦は力尽きた。
こんなところで死にたくない、と。消える前に思ったのはそんなことだった。




