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明後日の空模様 朝廷編  作者: こく
第十話 暗殺者
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「司旦、というのは如何でしょう」


「何が?」


「あなたの名前ですよ。司旦……良い響きだと思うのですが」


 如何でしょうと言われても。少年は困惑して口を閉ざす。

 今まで生きてきて誰かに意見を求められたことなどないし、名前に関して思うところもない。付けたいなら勝手に付けろと投げ遣りに答える。


「あのね、夜明けなんです」


「はい?」


「旦というのは朝が来ることを意味します。とても縁起のいい字なのですよ。これからあなたの人生に幸福がありますように」


「……」


 知るかと一蹴しようとしたのに、不覚にも躊躇した。そのむず痒い感覚が不愉快で、「勝手にどうぞ」と吐き捨てて踵を返す。

 白狐との会話はいつもこんな調子だった。噛み合う前に少年のほうが逃げてしまう。正面から向き合うのが恐ろしい。白狐そのものよりも、彼と関わることで自分の内面が変えられてしまうのが怖い。

 この人の善意はどこまでも無垢で清らかだ。生まれてこの方誰かに優しくされた覚えのない奴隷が、その受け取り方を知る由もない。

 しかし彼の気持ちを投げ捨て、踏み躙る度に罪悪感のようなものに駆られ、そんな自分に腹が立った。ゆえに、関わりたくないと思った。彼の側仕えの近習になってから、困惑と苛立ちと、後悔の連続だった。


 心境に変化があったのは、影家の正邸が火事で焼けたときだった。

 不審火としてどこからか発火したそれは、儲君たる白狐を狙った何者かの陰謀であることは間違いなく、正邸の一部と、白狐が懇意にしていた近習の一人を真っ黒に焼き尽くした。

 犠牲になったのは、司旦と同じく白狐に拾われた元奴隷だった。

 火事の後、たった一人でその死を悼み、何日も泣き通した白狐に何と声を掛ければよいか分からず、司旦は戸惑う。

 白狐は恵まれない境遇の奴隷や貧民に手を差し伸べたがる癖がある。司旦や犠牲になった彼のように、近習など身近なところに置かれる者もそれほど珍しくない。

 司旦は、それが人を玩具にしているように感じられて気に食わなかったのだが。


「僕が代わりに死ねば良かった」と白狐はしきりに繰り返した。


「あの子をこの世界に引き込んだのは僕なのに……僕が死ぬべきだったのに」


 そうやって涙を零す白狐のことも、司旦は好きではなかった。他人は大事にするくせに自分の命は蔑ろにする矛盾が気に障った。


「誰かが誰かの代わりに死ねば良かったなんてことはないだろ」


 責めたつもりもなかったが、白狐は長い髪を滝のように顔の前に流し、首を左右に振った。子どもが泣きじゃくっているようだった。


「分かっています。それは分かっています……」


 嗚咽混じりに、声を絞り出す。


「生きなければ……」悲痛で悲惨な表情だった。「何があっても、生きなければ」


 司旦は口を結ぶ。彼と過ごすうちに、初めて出会ったとき、白狐が死にたがっていた理由が徐々に分かってきた。

 白狐に自由はない。生まれた瞬間から白髪だったこの男。神のように崇拝され、檻付きの祭壇に祀られる人形として一生を終えることを強いられた。

 その生き方は、両耳に印をつけられた奴隷と何ら変わりない。影家のため。ただそれだけのために、彼の意志も希望も一切が許されず、煌びやかな白木の輿に乗り、父親の望む道を往く。

 心優しい性格ゆえか。周囲の期待を裏切ることができず、都合のいい傀儡でいることを求められ、常に微笑みを絶やさないのは結局彼が仕方なしに身につけた処世術でしかない。

 ──そんな白狐が珍しく周囲の反対を押し切ってまで、()()()の賎民を側に置きたがるのは何かを変えたいというささやかな抵抗なのかもしれない。

 凝り固まった伝統と変わり映えのない血縁による支配。朝廷に革命を、というより、せめて自分の周りだけでも真に心を通わせた繋がりを欲しがっている。蝋燭の明かりをひとつ灯すかのように、僅かにでも自分が安心できる場所を求めている。


 じゃあ、自分には何が出来るのだろう。

 そんなことを考えると、途端に無力感に駆られた。自分に出来ることなど何ひとつないように思われた。人を殺すことを除けば──常ならばそうした境遇を憎むはずが、この人を前にすると何故だか自分が悪いような気がしてくるのだった。

 初めはただの馬鹿な男だと思った、白狐のことが今は司旦の心を占めている。何も出来ないと知った無力感は、いつしか何かをしたいという生きる気力へと変わった。白狐のために──このどうしようもないお人好しのために。

 興味本位交じりだったことを認めるのも吝かではない。思えば、白狐の境遇をどこか自分に重ねていたのだろう。

 奴隷じみた生き方を強いられた白狐が、真に幸せになれるのか、と。

 人の心の繋がりを求め、選ばれた自分が、真に白狐を救うのか。


 支えたい、と直接言うのは自尊心が許さなかった。代わりに司旦は白狐の前に立った。


「これは同情じゃない──ただ、俺の意志。それだけだ」


 そう言ったときの、泣き腫らした白狐の目を、司旦は生涯忘れない。膝を付き、朝廷における最敬礼をする司旦の姿に、白狐は心から驚いたようだった。


「御身を、命賭してお守りすると誓う」


 答えはない。構わなかった。ただの奴隷だった頃、自然と身につけた上流階級の教養がすらすらと言葉を紡いだ。書物の上ではなく、感情の籠った意味として。


「仁を以て貴び、義を以て諫め、信を尽くして此れを我が忠とする」


「……」


「もしあの日のように死を望むなら、俺は躊躇わない。そのときは、冥府の果てまでお供すると誓い申し上げる。神でもなく、王でもない、ただのあんたに」


 掌と拳を頭上に合わせたまま首を垂れる。白狐の震え混じりの呼吸が聞こえた。


「……顔を上げなさい、司旦」


 目を目が合う。白狐の眼差しは存外静かだった。目元を赤く腫らし、微かに肩を上下に動かしながら、司旦の眼光を真っ直ぐ受け止めている。

 司旦は口を開いた。


「俺の忠は、金でも色でも買えない。大した重みはないが、俺の命を受け止める覚悟はあるか?」


「──はい」


 ゆっくりとした瞬き。厳粛な儀式のように、白狐の腕がゆるりと伸びる。白魚のような細い指が司旦の頬を撫ぜ、それから耳に留められた素っ気ない奴隷の証に触れた。

 二人を隔てる小さな冷たい金属の感触が、そのときだけ温度を帯びて融けたように思えた。


「きっと……きっと貴方の忠に応えられる主になると約束しましょう。その命、確かに受け取りました」


 夜明けを司る──そんな名を付けた白狐に、司旦は一生の忠を捧げた。変わり映えしない夜の世界に仄かな光が兆すように、皇国の歴史が僅かに動いた瞬間でもあった。


 それからは、有名な話である。

 月辰族が支配する朝廷、司旦は誰よりも異彩を放つ存在となった。()()()でありながら近習として仕え、後ろ指さされながら白狐を傷つける何者をも寄せ付けない様は、いつしか懐刀と渾名されるに至る。

 白狐を護る、影家の懐刀。やがて来る忌まわしい粛清事件の年、影家に仕えていた近習や女官が悉く始末された中、唯一生き残ったことでも知られている。

 誰よりも白狐の傍にいた司旦は、件の政争も間近で見てきた。事件後、新皇帝によって地下牢に閉じ込められ、五十年もの間陽の目を見ずに生き永らえた。それも口封じだったと噂されるだけに、司旦の七星(チーシィン)抜擢が異例の待遇であったことは想像に難くない。


 司旦は待っていた。主を貶めた朝廷に復讐する機会を、虎視眈々と狙っていた。あのどうしようもなく馬鹿でお人好しな主へのために、あのときの誓いを果たすために──。




 ***




「いくつか訊きたいことがある」


 翔は岩壁に背を寄せ、口を動かす。


「お前が白狐さんに仕えるようになった経緯は分かった。でも、六十二年前にお前が粛清されなかったのは何故だ? 唯一生き残ったのは理由があったのか?」


 巣穴の入り口から差し込む斜光が、司旦の横顔を照らし出した。()()()特有の不思議な顔立ちに陰影がくっきり凹凸をつくる。


「そりゃ、本来は俺も粛清されるはずだったさ」そこに込められた感情を読み取ることは難しい。「でも、死ななかった」


「死ななかった?」


「そう、見ての通りにさ」


 司旦は自身の着物の裾を持ち上げ、腹部の傷を俺たちの前に晒す。致命傷になったはずのそれは、既に自然と血が止まってほとんど塞がっているようだった。

 俺と翔は押し黙るほかない。


「死なないんだよ、俺は」


「ニィの力か?」


 口を挟めば司旦は初めて俺のほうを見た。「何だ、知ってるんじゃないか」と。


「詳しく知っている訳じゃない。ただ以前、白狐さんにも同じようなことが起こっていた。血を媒介にして他人の傷を治すこともやっていた。どうにも、不老不死の一歩手前というか、肉体の限界を超えているように思えるんだが」


「まあね。俺、ほとんど不老不死だし」


 軽薄さを装ったような司旦の声に、俺は一瞬言葉を失う。瞬きを二度、その顔を見ながら確かめる。


「不老不死? 本当に?」


 司旦は頷く。そこには何に感慨もなかった。得意げにする訳でも、永遠を背負う重みもなく、ましてや嘘偽りを言う風でもなかった。「たまたまそうなったんだよ」という声は、遠い空を見上げるような響きがあった。


「笑えるよな。そうあるべきだとスコノスすら奪われた白狐様じゃなくて、おまけみたいに付いてきた俺の方が不老不死になっちゃうなんて」


「……」


 顔を見合わせる俺と翔の思考を読んだよう、司旦は肩を竦めた。


「悪いけど、俺もニィというものが何なのかよく分かっていない。ただ闇雲に怪我を治したり、有限の命を無限に引き延ばすだけのものじゃないってことは知っている」


「どういうことだ?」翔が首を捻る。


「実体が掴みきれない。目で見えないし、人間の頭では知覚し切れない。あらゆるものを飲み込む、神のようなものなんだと思う。ただ神と違うのは、ニィは宿った人間の意志に呼応するってことかな。人間の願いを叶えるものと言ってもいい」


 その口ぶりから察するに、司旦はニィを直接目の当たりにしたことがあるのだろう。


「つまり、お前は自分の不死を願ったということか?」


 再び肩を竦める司旦はどこか億劫そうだ。自分でもよく分かっていない、といった面持ちだった。


「死にたくない、と願ったのは確かだけどね。ほぼ不老不死と言っただろ。自分でもどこまでやれば死ぬのか正直分かってないんだ」


「それは、すごく、怖いと思わないのか?」


 翔の口ぶりには好奇心と不安が交叉している。司旦が気分を害された様子はない。幾度となく自分で反芻し続けたものを吐き出すよう、息をつく。


「俺は白狐様を護るために生きている。だから、今は有難い。後のことは、今は考えないようにしている」


 語尾が僅かに震えたのは気のせいか、と思うほど面を上げた司旦の眼差しは強い。誰かのために命を捧げた忠義とは斯くも強いものなのかと、俺は己を顧みて考える。

 俺が、母親やコウキに抱くそれは忠義と言うより執着の類で、所詮スコノスという精霊特有の本能に過ぎないのだが。


「ニィは人間に扱いきれるものじゃない。俺はさして神を畏れはしないけど、あれは人間が持つには過ぎた玩具だ」


 片膝を抱え直し、司旦は眼を外へやる。


「お前はニィを宿しているんだな?」念を押すようにと問えば司旦は黙って頷いた。


「どういった経緯でニィを知って、宿すことになったんだ? 白狐さんがニィを宿していることに関係しているのか?」


 それから、と俺は息を継ぐ。「どうしてニィを宿しているのにスコノスを失っていないんだ?」


「……」


 矢継ぎ早な質問に司旦は少し考えるような素振りを見せ、俺の顔をまじまじと見た。


「どうして、俺にスコノスがいるって分かったんだ?」


「自分で喚んだだろ。一年くらい前に、長遐の麓の邑で会ったとき」


 翔が口を挟む。不愉快な記憶を思い返すような口ぶりだった。

 そうか、あれはもう一年も前の出来事なのか。今となっては懐かしいが、この文明世界に来たばかりで右も左も分からぬまま翔に連れられた人里で、俺は七星(チーシィン)の司旦に冤罪を被せられた挙句牢に留置されたのだ。逃げ出せば容赦しないと蛇の相をしたスコノスで脅迫され、衝撃的な体験だった。


「ああ、あのときのことか。よく覚えているな」


 司旦は大した感慨もないと言わんばかりで、あんまりじゃないかと俺は思う。


「俺がスコノスとニィをどっちも宿していることは事実だよ。それがちょっと普通じゃないことも知ってる。でも特筆すべき理由はない。言ってしまえば、たまたまそうなっただけだから」


「たまたま?」


 翔は信じられないといった風に首を振る。「お前の身の回りは偶発的な現象が多くないか?」


「そうかもしれない。()()()だからかな」


 肩を竦めて笑う。自虐なのか、司旦の笑顔は投げ遣りな脱力感を湧かせた。


「これは推測だけどね。俺はイダニ連合国の連中よりもずっとニィの効能が弱いんだ。連中はニィで色々な無茶をしているけど、俺が出来るのはせいぜい死なないことだけ。おまけにニィを宿してからスコノスのほうも弱ってしまって、どっちつかずの中途半端な状態なんだよ」


「効能が薄くて、スコノスが引き剥がされないまま残ったということか」


「多分ね」


 それこそどうでもいいと肩を竦め、司旦は表情を真面目に戻した。


「イダニ連合国の連中は、近習まで不老不死にするつもりはなかったんだ。というより、俺が不老不死になったことにすら気付いていないんじゃないかな。奴らの関心は白狐様に集中しているから」


「経緯を聞かせてくれないか」


 司旦はぐるりと目を回し、こちらに人差し指を突き付ける。会話をするうちに曖昧になりかけていた敵味方の別に改めて線を引くような仕草だった。


「いいよ。でもこっちも教えて欲しいことが幾つかある。それを話してくれないとこっちも話さない」


「何だ」


「蜥蜴くんとあの救世主はどんな関係なのか、ということ。そして蜥蜴くんがどこから来たのか、何をしたいのか。全部、嘘偽りなく教えてもらう」


 俺と翔は思わず顔を見合わせる。後ろめたいものがあるわけでもないが、何かを見透かしたような司旦の物言いにはさしていい気がしなかった。

 同時に、俺が此方の文明世界に来た経緯を司旦に漏らして、何か決定的な不利を背負うだろうかと計算しなければならなかった。しかしどんなに考えても、有利になる理由こそない一方で大きな不利益になるとも思えなかった。

 躊躇う理由といえば、長らく外部に漏らさないでいた秘密を明かすことで何かが起こってしまうのではないかという恐怖だけだ。


「どうしてそんなことを知りたがる?」翔はやや前のめりになる。「いやに皓輝ばかり執着するじゃないか」


「たくあんくんはいいんだよ。見れば()()()の帰化人だって分かるし、経歴だってちょっと調べれば分かった。昔の戸籍があったからね。でも、蜥蜴くんは違う。出身も、年齢すらわからなかった」


 既に調べていたとはさすがに周到である。確かに俺には皇国の戸籍はないし、血縁も地縁もない。ましてやネクロ・エグロですらないのだから、相当不気味に映るだろう。


「俺は白狐様を護るためにいる。だから白狐様の周りに得体の知れない奴がうろつくのは気に食わないんだ。場合によっては処分する必要もある」


「……」


「さあ、どうする? ここは神域だ。嘘や誤魔化しは利かない。話すか?」


 司旦はじっと俺の目を覗き込む。こちらを試すような光を浮かべ、それでいて真剣そのものだ。主を守るため──そんな誓いに忠実な司旦に自分を重ね、俺は慎重に口を開く。背後で翔が冷や冷やしているのが伝わる。


「……いいよ」


 一言、空気が弛緩したような気がした。ただし、と俺は平坦に付け加える。


「こっちの話は複雑で長いんだ。お前の話の後に話すことでいいか? それから、俺の経歴が気に食わなかったからといって俺を毒針で処分するのは勘弁してほしい。誓って言うが、俺も翔も白狐さんに危害を加える気なんて一切ないんだ」


 司旦は視線を逸らさない。俺が本心を話しているのか疑っている。しかし、ここは神域ゆえ嘘をつくことは不可能だ。やがて肩から力を抜き、「分かったよ」と頷く。


「じゃあ俺から話すよ。白狐様と俺がニィを宿すようになった経緯、だったな。まあ、さっきの話の続きになると思うけどね」


 すっかり小さくなった焚火の中心を小枝で突き、司旦は語り出す。




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