Ⅴ
ところが、儲君の肺の病の慰撫として買われた香木は、待てど暮らせど燃されるときは来そうになかった。希少なものとして重んじられているというより、ただ儲君のために各地から集められた数多の宝物の中に埋もれ、忘れられただけのように思えた。
少年が腹立たしかったのは、目通りが叶わず、暗殺を実行できないもどかしさだけではない。これは未熟な子どもらしい気移りの激しさでもあったが、そうやって財力にものを言わせて古今東西の貴重な宝、高価な品を集めるだけ集めて宝物庫を飽和させる身勝手さである。貧民の目にはそれが富や権力の誇示に映った。
下らない。手持ち無沙汰に日々を浪費しながら、少年は苛立ちを募らせていく。憎しみの矛先は、渦中の人でありながら音沙汰のない影家の儲君、白狐へ向かった。病弱だという彼は人前に姿を現さず、それこそこの国の至宝そのもののよう過剰に守られていると聞く。
大袈裟に警備の壁で囲い、現実という穢れから遠ざけ、無垢で清らかなまま崇拝されるだけの傀儡。血統により人生が決まってしまうなら、少年自身もまた踏み躙られるのが当然だと言われているようで腹立たしい。
この国の最高峰の地位にある白狐を暗殺することは、少年にとり、華麗なる叛逆を意味した。人生最初で最後の叛逆。矮小な自分が崇め奉られる神像を打ち倒す。劇的で短絡的、且つ衝動的な暗殺計画。
いつしか少年は待つことを辞め、遂に香木など小細工を使わず、自らの手で直接下そうと独断で潜入を企てた。それが、あの日から十日あまり経った、夜更けのことである。
獣も草木も眠る頃。影家の敷地を横切り、少年は白天宮と呼ばれる離宮を目指している。
暗がりに息を顰める植物たちは鬱蒼として、小さな彼の影を覆い隠していた。頭上の月は白く明るく、水が広がるように周囲に光が満ちている。この国の下層と上層の明暗そのもののように。
暗闇に手慣れた少年のこと、護衛の侍衛には見つからない自信があった。夜通し番をしている侍衛の数はおおよそ把握していたし、寝所の位置も分かる。身分の高い人の寝室は建物の東にあると決まっていた。
早く殺して終わらせてしまえ。少年の心にあったのは、高すぎる自尊心からくる潔い殺意と達観のみ。否、それは達観などではなく、無気力と無力から目を背けた、単なる怠惰にすぎないのだが。
版築固めの馬車路に沿って馨しい青松が植えられ、それを目印に道筋を辿っていく。白天宮は正邸から幾分離れた小高い丘に位置し、やはり白木で造られた清廉な佇まいだった。
月の光を浴び、皓々と照り返す様は神秘的ですらある。少年でさえ、一瞬だけはたと足を止めるほど近寄りがたい。
周囲に植えられた木蓮は正邸と同じものだろうか。花粉のにおいをたっぷり含んだ夜風を吸い込み、気を取り直した少年はまた影を踏んで足音を殺した。
それから数刻。慎重に慎重を重ねて進んだために殊の外時間がかかったように感じる。僅かに汗ばんだ背に寒気を覚えつつ、ひらりと欄干を超えて廊下へ降り立った。
庭に面した透廊は人気がなく、風も届かず、しんと静寂が染み入るようだ。
少年は拍子抜けし、安堵よりもまず困惑していた。こんなにも侍衛の目が笊だとは到底信じられず、何だ、儲君の権威も大したことないなと鼻で笑う裏で、どこか怯えている自分もいる。
聴覚を研ぎ澄まし、廊下を進みながらも絶対に警戒を解かない。自分は何者かに騙されるのではないかという臆病者特有の猜疑心に駆られる。
そうしてまだ見ぬ標的への憎悪を募らせ、音もなく寝所に忍び込んだ少年は、じっと暗闇に目を慣らしてその全貌を把握しようと努めた。
「……」
儲君の寝所は、少年が想像していたものとはおよそかけ離れた空気が満ちていた。それは絢爛豪華な貴族趣味と言うより、石でつくられた墓所のようであった。
奇妙にも、採光のため外へ面した一切が閉ざされている。否、初めから存在しない。光を拒み、外部とは何ら関わりのない世界。死者を安置しているかのよう、白木の瀟洒な内装や衝立、銀製の燭も、弔いの装具のようにしか見えない。
怯んだのは一瞬のこと。限界まで気配を消し、敷物を踏む。何らかの獣の毛皮なのか、足が沈み込むほど純白で柔らかい。奥には垂れ布が下がり、更にその向こうには壁の中に埋め込まれたような一角の空間がある。
全神経を指先に集中させ、真っ白な垂れ布の端を掴む。目を瞑り、息を整え、その先で眠っているはずの獲物のことを考える。人を手に掛けるときのある種の儀式で、心を落ち着かせる呪文。少年は合言葉のように呟く。
「お命頂戴」と。
次の瞬間、悲鳴を上げたのは少年のほうだった。悲鳴と呼べるほどきちんとした声にならず、くぐもった呻きとなって転倒する。
あっという間の出来事だった。垂れ布の間から伸びた骨のような指がこちらの手首を掴み、奥まった一角に引きずり込まれる。それを理解できたのはおよそ数秒後。
少年は素早く身を翻し、毒針を掴んで相手に突き刺さんとする。長年培った経験の為せる技だ。しかし、あ、と息を飲んだ。人を殺すことを躊躇したのは、初めて毒針を使ったあの日以来だった。
「あ……」
口から漏れたのは、紛れもない恐怖。否応なしに視線が釘付けになる。
異様だった。そうとしか形容しようのない生き物だった。髪も肌もまつ毛も、信じられないほど白い。確かに人の形をしているが、それを人だと正しく認識できなかったのは色彩を失った極端な白さのため。
影家は生まれつき白い髪を持った男が生まれると、それを神の如く崇めると聞く。馬鹿馬鹿しいと鼻で笑っていたが、いざ目の当たりにすれば少年の心にも畏怖が生じた。その人が暗殺の標的であることも忘れるほどに。
血が通った痕跡のない皮膚は青褪め、立体感すら失っている。陽の光を浴びたことのない、病的な白さ。長い白髪は大河のように寝具の上を流れ落ち、作り物のような顔立ちも、生物らしい温度の一切が削ぎ落とされた人形のようだ。
その癖、硝子玉のような瞳はいきいきと輝いて少年を捉えて離さない。
「……」
抵抗しようと苦しげな呼気を吐き出す。無色透明の眼球は水のように潤み、ふた粒の水晶の中に少年を閉じ込めんとする魔術のようだ。
「しー」
その人は言った。声を聴いてようやくその生き物が男性だと認識できた。それなりに若いのだろうが、病のため痩せ細り、実際以上に老いているように見える。
「あまり大きな声を出せば、人が来てしまいますよ」
それはこちらの台詞なのではないだろうか。
「これは、珍しい客人が来たものですね」
「……」
唖然として、上手く動けない。少年の手に握り込まれた毒針に気付いていない訳ではないだろう。
少年は人が死ぬ間際に、様々な反応をするのを知っている。怯えるもの、命乞いするもの、何が何やら分からず生き絶えるもの。中には小賢しく交渉を仕掛けてこちらを懐柔させようとするものもいる。
この儲君はどれだろう? いまいち内面の機微が掴めない。場違いにおっとりした口調に微笑すら含み、その癖どこか残念そうだ。少年が現れたことよりも、人生そのものに失望しているかのような自嘲だった。
「今晩は」それでいて、何も知らない少女のように首を傾げる。
もしかして、気が違っているのではないかと思う。浮世から離れ、こんな陰気な場所に長らく閉じこもり、頭がおかしくなっているのではないかと。
「ねえ、僕、あなたのこと知っていますよ」
透明な水のように澄んだ声。じっと顔を覗き込まれて息を飲む。色のない彼の眼球は底にある血管を反射し、目玉だけに生気が宿っている。それ単体が生き物のように、脈拍が映っている。そんな印象だ。
「先日、香木商に連れられて正邸に来ましたね。あのとき、あなたのことを見ていました」
彼はこちらが恐怖に身を竦めているのにも構わず、穏やかな声音で続ける。
「この邸に金をかけ過ぎだと、馬鹿にしていたでしょう。目を見れば分かります」
「……」
何と答えればいいのか分からない。少年の人生の原動力だった鬱憤、自分より恵まれている階級への恨み辛みを吐き散らすべきだと思った。
一方で、この不思議な人に怒りをぶつけるのは的外れで幼稚なことのようにも思われた。何より、まともに耳を貸さず、手を振り払って決死の一撃を与えようとしない自分に驚いていた。
そうしようと思えば思うほど、ひどく後ろめたく間違えたことをしたような罪悪感に駆られるのである。
その人は、優しく、どこか疲れた掠れ声で問うた。少年の抱え込んだものの全てを見透かしたかのように。
「ねえ、僕を殺しに来たんでしょう?」
そうだ。後ろめたさを振り切るよう、少年は眼光に力を込める。少なくとも、今の自分を突き動かしているのはそれしかない。途方もなく大きなものに一矢報いて死ぬ。泥沼の底でたまたま手にした英雄的な死。今となっては、それだけしか。
彼は口元を緩める。その微笑には強いられたものがなかった。内面の穏やかさがそのまま口から零れたような、緩くて自然な笑い方だった。
「では、殺してください」
「……は?」
訊き返したのは、随分時間が経ってからだ。汗ばんだ背が薄ら寒くなる。
「僕のことが嫌いなのでしょう。僕が死ぬことであなたの気が少しでも晴れるのなら、その毒針で一思いに、どうぞ」
「……」
挑発、ではなかった。少年の目から見て、彼は本気だった。こちらを苛立たせたり、馬鹿にしているのではない。儚く、今にも掻き消されてしまいそうな声音に、この人は心から死を望んでいるのだと悟った。
「疲れてしまったのです。もう生きたくないのです。でも、自殺する訳には参りません。だから、僕の死が誰かの救いになるのなら、僕は喜んでこの命を貴方に差し上げたいと思います」
少年は答えを持ち得ない。途端に全てが間違いのように思われた。
今ここに居る自分も相手も理性を失っている。これまで感じたことのない類の生物的な恐怖に駆られ、逃げ出すこともままならない。
ゆっくりと息を吸う。空気が肺に入っている感覚がなかったが、現実感を取り戻さなければならなかった。脳に血液を巡らせ、溶けそうな思考を必死にまとめる。がらがらと音を立てて崩れてゆく、自分が信じてきたものにしがみ付く。
「俺、は」やっと出てきた声は、自分のものとは思えないほど弱々しい。
「……どうして」
「ん?」
「どうして、俺があんたの願いを叶えてやらなきゃいけないんだ」
差し出されたものを容易く受け取るほど、少年は素直ではない。むしろ侮辱されたと受け取るのが常だった。だから彼に対してもそれなりの怒りが湧いたのも事実である。
いつもと違うのは、その怒りがどこか自信なさげで方向性を失いがちだったところだろう。衝動のまま彼を殺してしまうのは、どうしても躊躇いがあった。
困ったのは向こうも同じらしい。形の良い眉を下げ、少年の挙動に戸惑っている。緩い笑みを浮かべたまま、どこか自分が言ったことに後悔している風でもあった。
「……ごめんなさい」その人は叱られた子どものように肩を落とす。「そんな顔をしてほしくて言った訳ではないのです」
「馬鹿にしてんのか?」
彼は無言で首を横に振る。疲れて言葉が継げない。そんな仕草だった。
「僕には何も出来ません。もう、どうにでもなってしまえ、と思います。しかし自棄になっても、僕には死ぬことも許されていません……」
「……」
少年は、知らず瞬きも忘れてその人を凝視した。彼が何のことを言っているのかよく理解できなかった。ただ、それとは別のことに気取られた。
後から思えば、あれは出会いだったのだろう。自分と対等の価値観を持った、他者との出会い。自分以外の人々も感情や思考を持って生きているのだという、成長の過程でいつか起こり得る発見。
この人の悩みが何であれ、こんな刺客の前に命を投げ出すほど心が切羽詰まっているのだということに心が揺さぶられる。
しかし、今までにない皮膚がざわつくような心地は、少年には不快でしかない。上流貴族の言動に自分が振り回されていることも面白くなかった。
ゆえに、口から出た言葉は必要以上に刺々しい。
「所詮は恵まれた奴の悩みだろ」
柔らかいものに、刃物を突き立てた感触。振り下ろしたのは自分だが、思いの外深くまで貫通した手応えにぎょっとする。
「……」
その人は泣かなかった。透明な眼球の奥で光を揺らしながら、ただ微笑んでいた。
「……そうですね」
掠れた声。心の震えを抑える術を知っている。そんな彼の苦しげな微笑に、泣くことすら許されていないのだとようやく悟った。
しばらく沈黙があった。重たく、冷ややかな空気に、夜回りの侍衛に見つかったらどうしようと少年は初めて危機感を覚える。
「──じゃあ」彼の声音は、地の底から助けを求めるような響きを伴っている。「僕の側仕えの近習になってください」
ひゅっと息を吸う。じゃあ、という接続詞が何の役割も果たしていなかった。信じられないものを目の当たりにしたよう、少年の足は半歩後退る。
「近習?」
つまり、室内に足を踏み入れることを許された、最も主人に近しい世話役である。大概は代々仕えてきた近習の血統のものたちがその役目を引き受けている。外部の、それも生粋の奴隷階級の子どもがそこに加わるなど、正気の沙汰ではない。
騙されていると直感した。彼の言動に脈絡がないことに腹を立てた。
「ふ、ふざけんなよ」
「ふざけてなどいません」
「じゃあ何だ! 情けのつもりか?」
彼はゆっくりと瞬きをした。重たげな白いまつ毛の下で、硝子玉じみた眼球が少年をそっくり映している。
「あなたは僕を殺しませんでした。ゆえに、僕もあなたを殺しません」
「……」
「今日からあなたを側仕えにします。何、女官たちには嫌な顔をされるでしょうが、気にすることはありません」
今宵のことは内密に。そうやって目線を宙にやる彼が、本気なのか判断がつかない。少年は焦燥に駆られた。
「正気か? 俺は、お前を殺しに来たんだぞ」
声が上擦り、冷や汗が出る。自分が何に焦っているのか考える猶予もない。彼は再びこちらを見つめ、目元を緩める。
「でも、殺さなかった」
「傍に置くということは、いつでも殺せるんだぞ」
頷く。寒気がした。どんなに押しても手応えのない、空気を説得しているような心地だった。
「俺は、異民族の血を引く奴隷で……」
「構いません。僕の裁量で、あなたの身分を変えることなんて訳ないのですよ」
「でも……」
異民族の奴隷が門閥貴族の嫡子直属の世話役になるなど、皇国史上前代未聞だろう。それだけ都は厳重に、過剰に、月辰族の神聖さを信仰してきたのだ。
衣擦れの音。真っ白な着物の襟もとを摘み、彼は正面に向き直る。煌びやかな印象には遠く、ただ血の気を失った蒼白の皮膚。死ぬことも許されず、生きたまま病んでいる、この人。
「ああ、申し遅れました。僕の名は白狐と申します」初めて、彼は歯を見せて笑った。「あなたの名は?」
「……名前なんてない」
「じゃあ、考えなければなりませんね」
明るく、少しはしゃいだような声。勝手にしろ、と。吐き捨てた言葉は彼を前にすれば一層場違いに響く。
ただ意味不明で恐ろしかった。心を病み、人並み外れた悲劇的美しさを持ちながら、ふと少女のように無垢な振る舞いをする。未知の生き物と話しているかのよう、彼は常識がすっぽりと抜け落ちているのだ。
やはり殺しておけば良かったのかもしれない──僅かな後悔とともに歯噛みをするが、もしこの人が本当に俺を側仕えにするのなら、気が変わって手に掛けることも容易いという安堵もあった。
それがその先長い間共に生きていくことになる、白狐との出会いだった。




