Ⅳ
二百年も前。残酷で単純な世界だった、と今でもよく思う。
肉親の顔や、手のぬくもりは知らない。ただ親兄弟もまた自分のように家畜同然の奴隷だったのだということは分かっている。記憶を掘り起こすことに愛着は湧かない。誰かから愛された記憶も、ない。
この氏族は皆そうなのだ。美しい顔になることが見込まれるようなら赤ん坊の頃から取り上げられ、値札をつけられ、商人の手から手へ渡ってゆく。労働力としてではなく、娯楽と装飾のための奴隷として。
どうしようもない薄汚さ、卑劣さ、欲望。人間らしさだとか、本性だとか呼べば殊更に救いようのない、泥と汚物に塗れた社会の底辺。両耳に隷属の印を空けられた日から、少年は死ぬまでそこで足掻くことを強いられた。
少年の“飼い主”は、狡猾で知恵の回る男だった。
奴隷商人を装い、見目の美しい少年少女を鎖に繋いで金持ちに売りつける。そして頃合いを見計らって、金持ちの主人を殺して金品の類を奪って来させる。
初めはそんな盗賊じみていた“生業”も軌道に乗れば徐々に金儲けの体裁を帯び、裏の世界ではちょっと有名な、よくある商売にまで成り上がっていた。
つまり誰かの依頼を受け、奴隷を送り込んで暗殺するような殺し屋だ。普通の殺し屋と違うのは、見目の美しい少年少女ばかりを集め、表向きは奴隷を売る商人を装って刺客を送り込むその手法だろう。
奴隷にとり、生きていくことに知性など必要ない。何も考えず、荷を引く牛馬のようにただ日々を浪費して、死んで打ち棄てられる日を待つ。
生殺与奪の権は端からなく、代わりに握った毒針で人を殺した。
他人の命を奪う重みを感じたことはない。そんなものを教えられる前に、少年は人を殺すことに慣れてしまった。
知性なんて不要だと知りながら、どこか拭えない苛立ちが付き纏う。自分以外を見下しながら、肯定が欲しくて見知らぬ老若男女を殺した。時に身体を売り、男も女も知り、子どもの癖に世の中の全てを分かった気でいた。
人間なんてこんなものか、と死体に唾を吐きながら自分もまた同じ人間であることに失望し、そんな自分が酷く薄っぺらで腹が立つ。
掃き溜めのような世界の片隅で、道行く人々、家畜、絶え間ない雑踏、喧騒から拾う切れ切れの言葉、目に映る全てに苛立ち、何かをぶつけて壊したい。
それが司旦という名をつけられる前の、或る奴隷少年の生きている世界だった。
売られるときだけ小奇麗な格好を取り繕い、愛想よく振る舞い、ひとときの主人に気に入られることだけ考える。表向きに媚びを売るのは得意だ。自分の見目は、大抵の醜い欲望を満たすに値する異国的な美しさがあることも知っている。
そうして虚栄心や肉欲を弄び、死に追いやる優越感だけが少年の捻くれた自尊心を満たした。少年にとり、自分を売る側も買う側も等しく軽蔑すべき人間で、それが些かの嫉妬交じりだったことを認めるのも吝かではない。
中には主に阿て愛顧を勝ち取り、身も心も捧げる奴隷もいたが、高慢な少年はそれも潔しとしない。恨みと憎悪、半端に育った自尊心は、それを踏み躙られるより死を選ぶ方がましだと思うほど、奴隷らしからぬ愚かな方向性を呈した。
──そんな或る日。この少年の人生では間違いなく大きな転機となったそのときは、何の前触れもなくやってくる。
「朝廷に……潜入する?」
一体誰を殺すのか、という少年の問いに、飼い主は黙れと一喝する。およそ人生で最も縁がないであろう皇国の政のこと。与えられる情報は少ない。ただ、“影家の嫡子暗殺”というその依頼が同時に己の死を意味しているということはすぐに分かった。
心躍ることも、失望することもない。ああ、やっとこのときがきたのだなと肌の上が僅かに泡立つ感触があった他は、何も。
当時、影家の当主の座に就いていたのは白狐の父親だった。彼には跡取りとなる息子が一人しかいない。門閥貴族の跡取りを殺すという、神をも畏れぬ所業。白狐の死は影家の瓦解さえも意味するため、その暗殺の依頼が政治的な意図が絡んでいることは明白だった。
今となっては依頼主が誰だったのかも知れない。およそ儲君同士の政争に絡んだ裏取引であることは察しが付く。
暗殺が成功しようがしまいが、一度都に潜り込んだ時点で引き返すことは不可能だろう。いわば自分は捨て駒なのだと──そうして最期に手に掛ける獲物が、この国の中枢に巣食う強欲の筆頭なのかと思えば、いっそ清々しさすら覚える。
──清々しい? そうだ、これで最期だ。無力と惨めさを人生の慰めとするのは。
もし暗殺を成し遂げれば、卑賎な奴隷の身とはいえ、多少なりともこの国の歴史に存在を残すことが出来るだろう。
そうして捕らえられ、拷問の末に殺され、霊魂だけになったとき──この穢れきった世界を見下ろしてざまあみろと舌を出せば、自分の人生もそう酷いものでなかったと思えるだろうか。
どいつもこいつも、散々自分を踏みつけ、唾をかけ、犬のように扱ってきた。そんな連中が慌てふためき、掻き乱される様を眺めるのは、愉快だろうか。
少年が持っていた人生の関心とはつまり、歪な自尊心に関わる部分にのみ偏っていた。そして他の人間もまた少なからず同様に醜い本性を隠しているのだと信じていた。
そうして意固地になった少年の驕傲な生き方を、あの男はいとも容易く、根底から覆したのである。
***
平民は通常、都への立ち入りを禁止されている。厳重な警備の目を潜り抜けて忍び込むのは至難であろう。そして、一歩踏み外せば飼い主は身の破滅を招くため、足がつかぬよう計画は入念に進められた。
少年は必要な情報を頭に叩き込まれ、自分の役割を幾度となく反芻された。その上で飼い主は、高価な香木を取り扱う商人を大金で雇い、ようやく都に立ち入る糸口を得る。商人に付き従えば、賎民でもそれほど違和感なく潜入できるに違いないと踏んだ。
これは、影家の当主が息子の病を治すために各地から珍しい香木を集めているという評判に合わせた企てであったが、最初の関門は順調すぎるほど進んだ。
「……」
少年は、朝廷が召し抱える香木商──飼い主の息のかかった雇われ人──に付き従い、表向きは僮として西側から影家の門を潜った。僮に扮したのは、男色を罪悪と見なす天学の教えもあり、色仕掛けで籠絡させるいつもの手は通用しないという計らいである。
尤も、少年の際立った容姿は門の侍衛の目を甘くするのには幾分役立った。
門先の景色が迫る。つい目線があちこちを彷徨い、自然を装うのに苦労する。賎民の身で都に入ることを許された稀有な立場上、どんなに心が捻くれていようと子どもらしい好奇の目が動くのも仕方のないことだ。
全く、この白木の邸の途方もない巨さはどうしたことだろう。影家の当主が代々継いだ正邸だというそれは、馬で移動しなければならないほど広大な敷地を割き、門を潜った広場を軸に星獣の名が付けられた邸が三方を囲んでいる。
そのどれもが瀟洒な白木造り。少年はさすがに呆気にとられた。珠砂利を踏んで仰げば、一面に葺かれた瑠璃瓦を除いて何もかも燦然と輝くばかりに白い。
滑らかな木造の表面はささやかな光さえ弾き、虹の光彩を淡く四方に散りばめる。さながら月の都の物語で描かれる金殿玉楼だ。余計な彩色がないだけにその佇まいは神秘的に映る。盛りの木蓮の花の甘美や静寂も相俟って、建物全体がうっとり陶酔を誘う夢心地を醸していた。
やがて慣習に倣い、妻入の正面口でなく召使いたちの狭い戸口を通されてみれば、内装もまた格調高い白木造り。真っ白な板間は滑らかにどこまでも続いて翳りがない。あまりに広いので、遠近感を失う。
「──……」
忙しく行き交う影家の女官とすれ違い、少年の目は落ち着きなく左右に揺れた。衝立の透かし細工ひとつとっても、硝子玉を通したような精巧な彫刻が施されている。全く、隅々まで恐ろしいほどの金と労力が費やされている。
とはいえ伝統を重んじた古美術の趣に奇を衒った派手さはなく、如何なる装飾もぴたりと空間に嵌り、白木の明るい品格を損なうことはない。どうせ貴族趣味と蔑むつもりでいた少年さえ歩きながら黙するほかなかった。
しかし、この建物が虐げられた庶民の搾取によって成り立っているのかと思えばやはりむかっ腹が立つ。正邸の豪壮さに圧倒される度、少年の心で現世への呪詛が募った。
何故天はこの世を不平等に作り給うたか。否、天などいない。この清虚の都に巣食い、踏みつけられる痛みも屈辱も知らない貴族どもが自らをその名で飾り立てているだけだ。
そうして棟を繋ぐ透廊を渡り、通された広間でしばし待つこと一刻。影家に仕える近習と女官が何名かやってきて、香木商の持ってきた品物をここに広げよと命じる。
少年は僮らしく、敷き布の上に幾種類かの香木を並べる。そのほとんどは両手で抱えるほど大きい。
こんな奇妙な形の枯れ木にどれほど価値があるのか疑問だったが、物によっては同じ重さの金に代わると聞かされていたので一応丁重に扱うことにする。
「一番左の品は冴省円州の高山で採れた沈香木になります。長い月日とともに火山の熱気に晒され、火にくべなくとも独特の熟した香り立つ貴重なものに御座います──」
偽の香木商が慣れたように説明をするさまを、少年は正座してただ聞いている。
これは玃如という瑞獣が齧った疵から神気と樹液が滲んで香木になった云々、嘘か真かも分からぬ口上には一向に興味が湧かなかったが、その内にこの香木を買いたくて呼びつけた当の影家の主はいつ来るのだろうということが気になり始めた。
「ところで」扇片手に物色していた女官の一人が、口を開く。「肺の病に効くような香木はあるかえ?」
待っていました、という商人の心の声が聞こえた気がした。白狐という儲君は幼い頃から肺を患い、香木の類を馬鹿に集めているのも、趣味というよりその病の慰撫だという噂は本当らしい。
「はい、此方に」
香木商が手で指示したのは、一見すると他のそれと大差ない小振りな枯れ木である。
「此方の品は、甲香と呼ばれる種類のもので御座います」
「甲香? 聞いたこともない」
そうでしょう、と貿易商は慇懃な相槌を打つ。
「長命な亀の甲羅に苔が生じるのはご存知でしょう。北方を守護する禺彊神の遣いは玄亀と伝えられますが、こちらは途方もなく巨な玄亀の甲羅から生じた木が香木に変じた品に御座います」
長寿の亀から採れた香木は病を癒し、空気を清め、縁起も良い。香木商は甲香の効能を如何にもそれらしく語ってみせる。よくもまあ、そんな嘘八百をつらつら並べ立てられるものだ。
件の甲香とやらの正体は、どこにでもある白檀を雨に晒して黴させ、鴆という鳥の毒液を丹念に擦り込んだ偽の香木である。
尤も、鴆自体が滅多に出回らない毒鳥であるため”飼い主”は入手するのに随分骨を折ったとか。それが儲君暗殺のために作られたものであることは言うまでもない。
匂いも色もなく、触れれば一晩で死に至るという鴆毒。香木だと思って焚けば、たちまち毒気が部屋に充満して命を奪うだろう。
「ほう」
少年の思考をよそに、女官たちは初めて見る甲香というものに少なからず興味を示したらしい。一人が手を伸ばしたとき「なりませぬ!」と香木商は声を上げて制した。
「ご無礼をお許しください。其方は神気を纏った香木ゆえ、常人が素手で触れれば効能が薄れます」
そうして商人の目は奴隷少年のほうにちらりと向けられた。
「玄亀の甲香に触れられるのはこの異民族の子どものみです」
「その僮に何の力がある」
「禺彊神の加護がついております。甲香は採取されても尚神の意志が宿っております故、迂闊に扱えば皮膚が灼け爛れますが、不思議なことにこの異民族の子だけは神々の祟りを免れるので御座います」
広間の注目は、初めて小ざっぱりとした恰好の僮に向けられる。少年は礼儀に倣って深々と頭を下げた。自分の容姿は、暈した商人の言葉に信憑性を与するに値する。余計な御託を並べる必要はなかった。
「……」
血統を重んじる朝廷の貴族たちにとり、異民族というのは蔑称とは別に、ある種の異国的憧憬を彷彿させる語である。気取らず、しかし生真面目さを装った無表情は、それだけで少年の不思議な顔立ちを凛と引き立てた。
女官たちが扇の陰から困惑気味の顔を見合わせているのが見える。
彼女たちの気持ちを後押しするよう、香木商は捏造した少年の経歴を実直そうに語る。話の中で少年は、北方の険しい山に隠れ住む異民族の末裔ということになっていた。あまり大仰にやれば怪しまれるので、香木商は巧みに嘘と真実を織り交ぜて紡ぐ。
実際には禺彊神の加護とは名ばかり。幼い頃からあらゆる毒に慣らされた身ゆえ、鴆毒にもある程度の耐性を持っているに過ぎないのだが。
「しかし、そんな危険なものを燃しては御君の御体に障りませぬか」
至極まともな不安が、若い女官の口から漏れた。香木商は用意していた台詞を返す。
「月の御子の血を引かれた御君が、神の祟りなど受けるでしょうか」
「……」
一同黙し、答える者はいない。
ここで異を唱えるのは影家の神性を否定することと同義であり、場合によっては打ち首ものだ。香木商は窮する一同を満足げに見回し、改めて甲香を勧めた。
彼の巧みな話術の甲斐あったか。交渉の末に偽香木は二千佰の値で売られた。無論、禺彊神の加護を宿した少年のおまけ付きである。
この子がいなければ甲香を正しく扱うことは出来ないという説得は尤もで、少年は堂々と邸に残る権利を得た。暗殺計画はほとんど成功したも同然だった。
鴆毒があり、腕にも自信がある。機会を窺い、機嫌を取って、儲君の前で香を焚くなりすれば殺すのは容易い。もし上手くいかなければ、毒針を抜いて命ごと投げ出せばいい。
甲香は紫色の絹に包まれ、少年の腕に収まった。固い感触は、赤子の死体を抱いているような心地にさせられた。
さて、そそくさと帰り支度をする香木商は、さり気なく疑問を投げかける。
「ところで、影家の御君は今どちらにいらっしゃいますか」
「御君はご病気故、外の者と触れ合うのを良しとしませぬ。ましてや卑賎の商人など、穢れた欲気を運ばれては敵いませぬ」
若い女官は、ぴしゃりと商人の口を封じた。彼らが運ぶのは欲気などではなく死だとも知らず。
そうですか、と香木商は慇懃に微笑んで、少年に意味ありげな一瞥をくれ、退室した。
上手くやれ、という合図だったかもしれない。逃げるなよ、という牽制だったかもしれない。
詐欺師じみた彼の背中を見送りながら、少年はこの商売で味を占めれば偽の香木があちこちに出回りそうだなと考えたりした。勿論、此度の件が明るみに出て彼が捕らえられるような事態にならなければ、という話だが。
──多分無理だろう。影家の儲君を殺せば、俺も、香木を持ち込んだ彼も死から逃れられまい。
飼い主の持ちかけたうまい話と大金に目の眩んだ商人に、同情心など湧きようもなかった。その一方で、単なる捨て駒にされた我が身の儚さを嘆くほど、現世への執着もなかった。




