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明後日の空模様 朝廷編  作者: こく
第十話 暗殺者
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「痛むか?」


 つい声を掛けたのは、翔が眉間に指を押し当てて天井を仰いだためだ。司旦に打たれた顎のあたりは僅かに赤く腫れ、表面上の症状以上に脳の方が気掛かりだった。大丈夫、と翔は鈍い反応で頷いている。


 俺はといえば仕込み針で頬を裂かれたほか、奥歯が一本折れて軽く鼻血も出ている。口腔が鉄の味で満たされ、指を突っ込んで砕けた歯の欠片を取り除きながら激痛に顔を顰める。歯茎の中に違和感があって、舌で探ればぐちゃりとした感触とともに生ぬるい液体が滲む。

 不愉快さに吐き気を堪え、代わりに赤いもの交じりの唾を吐き出した。徐々に薄くなる血の色を見ながら、さしあたり暗闇の死闘で命拾いしたことを幸運と思うことにする。

 滅茶苦茶に拳を繰り出して暴れた司旦が、俺たちを内部から震えさせている。奇妙な興奮状態が冷めやらぬまま、俺も翔も朝日を浴びて、無言で傷だらけの身体を持て余していた。


「……」


 司旦は巣穴の奥で膝を抱えて放心している。乾いた頬に涙が貼り付き、その痕跡を拭うこともない。ただ呆然自失と虚空を見つめる目は既に狂気も逆上も消え失せ、まるで夜明けに憑き物を落とされたかのようだ。

 恐る恐る拘束を解かれても、司旦が反抗することは二度となかった。その身体や着物に隠し持っていた武器の類の一切を奪ったときも、何の反応も示さなかった。ぽっかりと心が抜け落ちたよう、空気も俺たちの声も胸部の孔を通り抜けてしまっている。

 戦意を喪失した司旦を如何にすべきか俺たちは判断しかねている。半狂乱で絶叫したあの言葉がまだ耳にこびり付いて離れない。ついちらちらと様子を窺えば、司旦は涙の跡にまた滴を流し、それを拭うでもなくただ虚無に身を委ねている。


 彼がたった一言、口を開いたのはそれから随分経ってからだ。最早腫物のように遠巻きに眺めるほかなかった俺たちは、ため息混じりのその言葉を聞き逃すところだった。か細く、掠れた声で司旦は呟く。


「……そうか……偽者のほうだったのか……」


 偽者、という呼び名が自分に向けられたものだと気付くのにしばらくかかった。司旦の据わった眼差しは、控えめながら俺へ向けられている。敵意はなく、どこか悔しさのような険の滲んだ声音。


「偽者と呼ばれるのは人生で二度目だ」


 ついおかしな自嘲が口をつく。翔が顔を上げるのを横目に、俺は口元を歪めて微苦笑した。


「一度目は、本物の方のコウキに呼ばれたんだっけ」


 そう、確かに俺は偽者だ。コウキの姿を装い、人間に擬態した精霊。人になり損ねた人型スコノス。

 やはり、司旦はコウキに遭遇したのだ。故に、暗闇で俺を奴だと見間違えたのだろう。


「……」


 重苦しい、名状し難い沈黙が周囲を満たす。


「そんなこと言うなよ」


 翔は憮然とした様子で言う。偽者という言い方が気に食わなかったのだろう。それが誰に対しての感情なのか、もっと漠然とした何かに向けているのか、翔にとってはどうでもいいことだ。

 俺は応える言葉を持たず、司旦は口を噤む。それきり司旦の沈黙はまた長かった。もう二度と誰とも口を利かないと決め込んだ頑なさが、泣き腫らした無表情に貼り付いていた。


「おい、お前。白狐さんがどこに行ったのか知っているんだろ」


 翔はまるで司旦が全ての原因に繋がっていると言わんばかりに詰め寄り、珍しく苛立った様子でその肩を揺さぶる。


「無事なのか? ちゃんと生きているんだろうな」


「……」


 無視しているというより、きちんと応えるほどの正気がないと言ったところか。目が合ったとしてもそこには虚ろしか映らなかったであろう。

 無抵抗のまま乱暴に身体を揺さぶられる様に、多少の同情があったにしろ、なかったにしろ、やがて俺は相棒をそこから引き離さなければなかった。司旦の無反応に腹を立て、そのまま無為な暴力に転じる軽率な突発性が、今の翔にはあった。


「そいつを責めても意味がないよ」


 相棒を宥める。「白狐さんが心配なんだよ」と誰に言うでもなく不安を漏らす翔に、俺は無言で肩を叩く。

 そうしながらまるで聞き分けの良い振りをしている自分に呑み込み切れない何かを覚え、それでも一概に司旦が悪いわけではないという確信もあり──ただ殴られた顎の奥が痛い。それだけは確かだった。


 太陽は昼を回り、貝のように心を閉ざした司旦の口を開かせたのは、意外にもその翔だった。

 初めは苛立っていた相棒だが、何か思うところがあったのか壁際で茫然自失と膝を抱えている司旦に近付く。意味ありげな間があり、俺の懸念に翔は大丈夫だと背中で返事をして見せた。

 革袋の中で蒸し焼きにした川魚を差し出し、それを受け取ろうともしない司旦に目線を合わせる。


「お前が何を背負っているか知らないけど、白狐さんを大切に思っているのは、何もお前だけじゃないんだぜ」


「……」


 司旦はやはり無反応だったが、心なしか翔の声に耳を傾けている意識の片鱗が見られた。翔は素手で上手く皮を剥がし、木の実や香草で素朴な風味をつけた蒸し魚を口に運び始める。


「──さっきのお前を見てさ、集落の年寄りが話していた昔話を思い出したよ」


「……」


「小さな頃に聞いたきりだからすっかり忘れていた。ある若い貴人に気に入られ、朝廷に仕えたっていう純血の()()()のことを」


 少し離れた焚火の前で、俺は革袋を手にしたまま静かに瞠目していた。ぱちぱちと火の爆ぜる音が、魚の焼けるいい匂いとともに空間を冗長に引き延ばし、自然と意識が話の先へと向く。


「俺がいた()()()の集落ではよく知られた話だった。嘘か真か分からないもんだから、本当にあった事実だと受け止める人は少なかったけど、虐げられた奴隷が成り上がる物語は、俺みたいな裕福でない帰化人の子どもにはある種憧れみたいなものがあったから」


 翔が、白狐さんより出会う前のことを話すのは滅多になかった。俺は驚きと好奇の混じった眼差しを向ける。

 ()()()という呼び名を皮切りに二人の間に少なからず対話の糸口が生まれた。とまでいかなくとも、少なくとも司旦のゆっくりとした瞬きは翔の声を聞いているという意思表示のように思われた。


「その()()()の奴隷は、風変りな氏族の出身だと聞いたことがある」


 相棒の口ぶりからして、司旦の気を引こうと突飛な嘘をついているという訳でもなさそうである。


「この御時世、()()()も随分と月辰族との混血が進んできたけど、そいつらは時代の流れとは逆行して内輪で血を繋いで、なるべく純血を保っているんだってな」


「純血を?」俺は空気を壊さないよう用心しながら会話に参加する。「何のために?」


 翔がこちらを振り向き、おもむろに自身を指さす。そしてその人差し指を司旦にも向けた。


「顔がね、美しいんだよ」何を言い出すのかと瞬きする俺に構わず、翔は続ける。


()()()と一口に言っても本当に色々な民族が入り乱れているけど、その氏族は独特の顔立ちをしていたから、奴隷として──つまり下世話な意味で人気があったんだってさ」


「……それは」


 俺は言葉を途切れさせる。

 帰化人である翔も街中ではどこか浮いているが、別の血縁集団らしい司旦の容姿はそれ以上に目立った。白狐さんのように人並み外れた美しさとは異なり、草むらの中に一輪の大きな向日葵が咲いているような、そんな目を惹く独特の鮮やかさがある。真正面から見据えれば、なるほど俺でも違いが分かるくらいの異民の血を感じた。


 無言のまま俯く司旦の姿。脳裏を過ったのは、去年の夏至に目の当たりにした大規模な奴隷市の光景である。

 まるで動物のように囲いに集められた、人々の虚ろな表情。彼らの中には血縁を保つために家畜よろしく繁殖すら管理されているという事実に、言葉にし難い胸糞の悪さを覚える。

 また沈黙が落ちる。その静けさは肯定を表しているように思われた。

 司旦は音もなく、微かに掠れた息を吐く。ふと音の止んだ草原に、そよりと風がため息をつくような、その仕草には幾分“意志”と呼べそうなものが戻りつつあった。

 どれだけ時間が経っただろう。司旦は肩を動かさず、ようやく唇を開く。


「お前は……」冬眠していた動物が、春のぬくもりに揺り起こされ、身じろぎするような声だった。「……そうか、あの人は、やはり昔から変わらないんだな……」


 司旦が翔に対してどのような親近感を覚えたのか分からない。ただ、白狐さんという人物が目に見えない軸となって二人を繋いでいるように思われた。


「──俺は、二人目だった」


 ぽつり、司旦が漏らす。


「二人目?」


「そう、白狐様に召し抱えられた、二番目の()()()の元奴隷だった。一番最初の奴は火事で死んでしまったけど」


 呆然とした横顔は、遠方に懸かる月を眺める趣がある。


「昔から変わらないもんだ。あの人は、弱いものに手を差し伸べるのが好きだし、それを自分の使命だと考えている節があった」


 今まで自分たちだけだと思った世捨て人の主のことを、他の人間の口から聞くのは不思議な気分だ。

 ともあれ、司旦の口ぶりからして急くに値しない事態なのだろうというのは何となく感じ取れる。慌てて何かをしなければならないほど切羽詰まった事態でないか、或いは既に手遅れなのか──いずれにせよ彼に先を急かしたところで仕方がなかった。

 それに、司旦の話を詳しく知りたいとも思ったのも事実なので、俺は黙ってその先を待つことにする。


「はあ……」


 体内に残った毒気を全て吐き出すような、司旦の大きな嘆息。顔を覆って俯くそれが正気かはともかく、こちらに掴みかかってこないだけましといったところだろう。

 翔もまた好奇心がない訳でもないらしく、魚の身を毟りながら首を傾ける。


「お前が、白狐さんに仕え始めたのはいつの話だ?」


「二百年くらい前だよ」


 時に、ネクロ・エグロと話していると時間の感覚が狂いそうになる。否、彼らにとってもそれは長い時間なのか、翔も口を開けて驚いていた。


「二百年?」


「そうだ。ずっと傍にいたんだ。俺がずっと、傍で仕えて、護ってきたんだ。白狐様の懐刀と呼ばれた、唯一の近習だったんだ」


 司旦は顔を覆い、その乾燥した髪の毛先がくしゃりと潰れる。


「あいつが火事で死んでしまったときから、ずっとずっと御身を護るとあの方の前で誓ったんだ。死ぬまで、いや冥府の果てまでお供すると言った。なのに、どうして、お前らがのうのうと、あの方の隣に居るんだよ。あの方が何を背負っているかも知らない癖に、忠義も覚悟もない癖に気安く近付いてんじゃねえよ」


 俺と翔は当惑した顔を見合わせる。俺たちの存在が司旦の不興を買っているとは想像もしなかった。話に聞いていた因縁とまるで真逆ではないか。


「お前は、白狐さんを殺そうとしていたんじゃないのか? ずっと昔に暗殺未遂の前科があったと聞いた」


 あれは水霊という神の前で聞いた話であったから、嘘偽りはないはずだ。今回の一件はそうでなかったにしろ──かつて司旦は白狐さんを殺そうとした過去がある。三ノ星は確かにそう言った。

 そう、と。司旦は短く言ったきりしばらく顔を埋めたままだったが、やがてくぐもって聞こえにくい声で話し始めた。


「……最初に出会ったとき、確かに殺すつもりだった。まだ俺が成人もしていなかった頃だ」


 そしてちらりと目線を横向きに上げる。涙こそ浮かんでいなかったが、その目は仄暗く曇っていた。


「──たくあんくんの言う通りだよ。まあその昔話、多少誇張はされてるだろうけどね。俺の氏族は先祖代々奴隷で、生まれたときから犬みたいに鎖で繋がれて生きていた。顔立ちが風変りな綺麗な奴隷はよく売れるし、そんな奴隷を商っていると悪いことを考える奴もいるんだ」


 司旦はふと自身の両手を、あたかも過去を映す鏡であるかのようにじっと見つめる。穢れたものを見下し、それを悔いるというより穢した何者かを恨むような、悲しげな目付きで。


「俺はガキの頃から、殺し屋みたいなことをやって生きていたんだ」




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