Ⅲ
夕餉の刻はいつもと変わりなかった。少なくとも、表面上はそう見えた。
俺たちは、いつもの通り居間にある卓を囲む。素朴な手料理が漆塗りの盆に並べられていた。魚市場で買った魚は白狐さんが早速煮てくれたらしい。長い冬の間変化の乏しい食事をしてくると、例え一品でも目新しいものがあるだけで心が躍るものだ。
煮魚を箸で突きながら白飯を食べる。温かい汁物と、すっかり馴れ親しんだ味の漬物。それから衣をつけて揚げた若い蓮根を三人で少しずつ分け合った。中まで火が通り、さくっと歯切れがいい。おまけは、この家で飼っている二羽の雌鶏が生んだ卵にすり身を混ぜた玉子焼き。ほんのりとついた焼き目が美味しい。
先程のことがあったせいか、俺はこの日常が崩れることを内心で危惧していた。しかしそんなことはなく、和気藹々と夕餉を楽しむ世捨て人たちは普段と変わりない。かちゃかちゃと食器が音を掠め、外は静寂で、いつも通り世界中にたった三人しかいないように錯覚する。
俺と白狐さんが小皿で配されるたくあんを、翔だけは丸ごと出されたものを齧っていたり、何の変哲もない俺たちの日常だ。
「ねえ、吉草って知っています?」
白狐さんと交わした、こんな会話が耳に残っている。俺と翔は、聞こえの新しいその単語に顔を見合わせた。
「それ、最近流行ってるんですか」
「何の話です?」
「司旦も同じことを言っていましたよ」
「へえ。……司旦が」
七星の名が出ると、白狐さんは複雑そうな、曖昧な笑みを覗かせる。俺にはそれが不思議で仕方がなかった。何の思い入れもないのに、そんな意味ありげな表情を浮かべられるとは思えなかった。
その後、どんな話をしたのかよく覚えていない。食卓で交わされる彼らとの会話は楽しく、他愛のないものばかりだ。頭に記憶されたのは料理の味の余韻と、世捨て人の主が見せた曖昧な微笑みだけである。
そうして食の細い白狐さんが、いつもより料理を多く皿に残していることには気付かなかった。
月が昇る。今宵は満月まであともう少しといったところだろうか。上空で風がひゅうひゅう吹いている。
俺は自室の窓から、不吉の影でも見えやしないかしきりに外を眺めていた。この先何かが起こる、という漠然とした胸騒ぎがあった。仄暗い顔をした翔のせいかもしれない。下手に取り繕った白狐さんのせいかもしれない。
何より気掛かりだったのは、司旦という七星のことである。思い出す度に心がざわめいて落ち着かなくなる。忘れた頃に日常の隙間からひょっこり顔を覗かせたあの男のことを、俺はどうやら恐れているようだった。
一年前に出会ったときはあれほど執拗に冤罪を擦り付けてきたというのに、今回はその件に一言も触れなかったのが不気味である。何より、当今皇上から預かったという手紙もきな臭い。未だに皇帝という雲の上の存在を現実と捉え難い俺は、性質の悪い冗談に付き合わされている気分だった。
あの男から託されたものが信用に値するとは到底思えない。あの男そのものが、信用に値しないからだ。
欠伸がせり上がる。
食後の余韻のためか、はたまた邑まで赴いた疲労のためか。頭が痺れるような倦怠感がある。徐々に全身に広がるそれは、筋肉を弛緩させるようで、俺は指先から力が抜けていくのを感じた。触覚が消えていくと言ってもいい。
──このままでは窓にもたれたまま寝てしまう。幾度か、雪の重みでしなった枝のように頭ががくりと傾いたところで、俺は意識と戦うことを諦めた。
隅に敷いてある布団に倒れ込んだ。それは確かだった。頭の片隅を過ったのは、風呂に入らなくてはとか、そんな悠長なことばかりである。
気づけば、真っ暗だった。瞼を開けているのか閉じているのか、差異がない。俺はぼんやりと瞬きした。それまで目を閉じていたと気づいたのはしばらく経ってからで、まだ夢の名残を引っ張られている。
欠伸が漏れた。
物理的に、何も見えない。目やにを擦り取り、涙を拭う。再びせり上がってきた欠伸を噛み殺し、ふ、と短く息を吐いた。口から漏れる呼気すら目前の闇に溶けていくようだった。
随分長いこと眠っていたらしい。時間の感覚が狂うほど、意識を失っていた。
明かりはどこだろう、と手を伸ばす。確か枕元に油と灯を置いていたはずだった。手を伸ばす。真っ暗な怪物の口の中を手探りしている気分だ。
同時に、伸ばした足が意識せず動いた。そしてその爪先が、近くに転がっていたものを蹴飛ばす。固い。鈍い呻き声のようなものが上がる。はた、と俺は肩の動きを止めた。
「翔?」口から出たのは、覚束ない寝惚け声である。「どうして俺の部屋にお前がいるんだ」
返事がない。俺はうつ伏せのまま上半身を捻じ曲げ、足元を見ようとした。そうしてようやく、異変に気付く。やけに狭い。
手をついている地面は固い木床だった。道理で身体の節々が痛む。布団はどこだ。寝相の悪さに呆れたくなる。しかし、残念ながら違う。
ここは、俺の部屋ではない。
記憶がなかった。闇雲に伸ばした手は宙を掻き、何か固いものにぶつかる。がつんと痛い音がして、上から何かが降ってくる。雪崩のように。続いてがしゃんと陶器らしきものが床で割れ、しょっぱい異臭が鼻腔を刺す。
俺は這い蹲ったまま、異臭の正体を嗅ごうと鼻の上に皺を寄せた。「糠か……」
「たくあん?」
鼻詰まりして力の抜けた声が聞こえる。さすがは王子といったところか、特定のワードに対する反射神経が尋常でない。そのたくあん王子が、何故俺の足元で眠りこけていたのかは全く理解出来なかったが。
俺はため息をつく。
「翔、起きたか?」
「たくあん王国万歳」
「ここは貯蔵庫だよ」
「ちょぞうこ?」むにゃむにゃ、そんなふやけた寝言を口走り、目を擦っているようだ。まだ夢うつつを彷徨っているのだろう。一方、俺はすっかり眠気が冴えた。
身体を反転させようとした弾みで相棒の顎を思い切り蹴飛ばしてしまったのは、決してわざとではない。が、いい目覚ましにはなったようだ。「ふぎゃっ」と悲鳴がして、俺は小声で謝罪する。何せ明かりがないので、どこに何があるのか、互いの距離感すら掴めないのだ。
「男に蹴られても嬉しくないよ」
「別にお前を喜ばせようと思った訳じゃない」
足元から返ってくる翔の声も、徐々にしっかり根を張ったものになる。翔も異変に気付いたのだろう。落ち着きなく辺りに手を伸ばし、貯蔵庫の石壁を手探りしている。
「ちょっとじっとしていろ」俺は危なっかしい動きをする鳥目の相棒に呼びかける。ここが食料を置いておく地下の貯蔵庫ならば、去年つくった鹿脂がどこかに残っているはずだ。「……翔、火を貸してくれ」
ほい。短い返事とともに空気が一点に収束する。スコノスを呼んだのだ。精霊の気配とともに空気が震え、両手に抱えていた小壺が熱を持つ。
途端に中の動物性の脂に炎が燃え移り、ぼうっと周囲が照らし出された。そうして揺らめく火の明るみに、俺たちはようやく自分たちの置かれている状況を目で捉える。
そこは、世捨て人の家の東の棟にある、地下の貯蔵庫だった。いつも白狐さんが忙しく行ったり来たりする厨房のすぐ下に備え付けられた、畳四枚ほどの小さな空間だ。古びた木棚が壁をびっしり隙間なく埋め、保存食や乾物を漬けておく壺などもあるため、もっと狭く感じる。
「何で俺たちがこんなところに?」翔は尤もな困惑を口にして、周囲を見回している。
俺はといえば、同調して頷いていたものの、すぐにここが密閉空間であることを思い出し、慌てて出口を探した。このままでは一酸化炭素中毒になってしまう。
幸い、地下室の天井に備えられた正方形の扉は難なく開いた。新鮮な空気を取り込んで一息つく。通気口代わりに僅かな隙間を作り、俺は梯子を下りて地下へ戻る。
「なあ、どうしてこんなところに?」
「俺が訊きたい」
火の燃える壺を囲って座り、俺たちは不安な面持ちを突き合わせる。こんな場所に入った覚えはない、と言えば、翔もそうだと首肯する。そう、眠っていたのだ。自分の意志で移動出来るはずもない。まさか睡眠状態のまま布団から起き出し、廊下を渡り、わざわざ貯蔵庫にまで降りてきたというのか。
「翔は、夕餉の後も白狐さんと一緒にいたんだよな」
「うん、そう」翔は神妙な面持ちで眉を寄せる。「いつの間に寝ちゃったんだろう。何か、頭痛がするな」
俺の目に浮かぶのは、いつもの日常の光景である。食後の余韻に浸り、居間で寛ぐ翔がそのまま寝椅子で居眠りするのは珍しいことではない。
が、今回は同時刻、俺も自室で眠っていた。壮絶な睡魔に襲われて。そして、今こうして二人揃っておかしな場所で目を覚ましている。単なる偶然ではあるまい。
俺はこめかみを押さえた。ぼんやりと脳髄が痺れるような感覚がある。
「寝こけている俺たちをここまで運んだ人がいるんだろうな」
翔は瞬きを遅くし、口を真一文字に結んだ。思い当たるのは一人だった。「一体どうして」という呟きは、大きくはないが狼狽えていた。
「確かめてみればいいんじゃないか。本人に」
貯蔵庫の天井を指さす。その先には、深い暗闇が口を開けて待っていた。即席の明かりも、その先には届かない。鳥目の翔は僅かに瞳を揺らした後、俺の目を真っ直ぐ見る。
行こう、と頷き合ったその判断が正しかったのか、後になっても分からない。ただ、一抹の不安が胸を締め、暗闇に心細げな尾を引いた。
俺と翔は順に梯子をよじ登り、誰もいない真っ暗な厨房へと這い上がる。無音に塗り込められた闇を用心深く探れば、全身の感覚が鋭く研ぎ澄まされるようだった。閉じるのを忘れた口許から息が漏れる。
今は一体何時ごろなのか。それすらも分からない。
鹿脂につけた即席の明かりは、念のため消してきた。目の見えない翔が俺の肩にしがみつく。俺は目一杯に瞳孔を開き、闇に生きる獣のよう嗅覚に頼りながら進み出した。
板間に上がり、居間を抜けて廊下へと向かう。人の気配がない。やけに空間が無機質だった。いつもは世捨て人たちが集って談笑する寛ぎの間も、人がいないだけでこんなにも寒々しく感じるものなのかと。
「白狐さん……」
声を殺し、翔がぼそりと呟いた。本当に心細い顔をするので、俺はどうにか励まそうとする。「何かあったのかもしれない」と。
俺の脳裏には様々な可能性や憶測が渦巻いていた。その中心にあるのは例の書簡とあのときの白狐さんの顔で、視覚が潰された不安に急かされ、嫌な予感ばかりが募っていく。
一体何があったというのか。
俺と翔は木床に足を這わせ、まず世捨て人の主の部屋へと向かった。とにかく彼を探さなければ始まらない。
白狐さんもこの異常事態に巻き込まれたのだろうか。眠っている隙を突き、俺たちを地下まで運んだのが彼であるという確証はなかった。ただ、そんな事件の匂いすらある犯行の割に貯蔵庫の扉という脱出口が難なく開いたことが気になった。
拉致や誘拐が目的なら、鍵で完全に封じてしまうはずである。殺すためなら言うまでもない。そのどちらでもないのなら、わざわざあそこに俺たちを“移動”させた意図は何なのか──分からない。不可解な状況に俺たちは胃の底が削られていくようだった。
居間からL字の廊下を曲がれば、そこは世捨て人の主の私室。入り口には彼のお気に入りの黒檀の飾り棚があり、花器には切り木が生けられている。ふわりと毛玉にも似たネコヤナギ。早春の川辺で咲いていたのが嬉しくて、翔が切ってきたんだっけ。
障子を横に滑らせれば、途端に煙草臭い、しかし柔らかな匂いが鼻先に染みる。廊下と差異のない薄暗い室内を見回し、肩を落とした。誰もいない。案の定と呼ぶべきか。
翔は沈黙し、見るからに落胆している。
「布団も敷いていない」
俺の背から離れ、白狐さんの部屋の板間を慎重に歩き回る。鼻をひくつかせて視覚を補う相棒は、主の痕跡を探す迷い犬のようだ。俺は言い知れぬ寒気に襲われ、ぶるりと身震いをした。
骨董じみた調度品の収集癖のある彼の私室は、いつも以上に整然としていた。寝具は隅に片付けられ、普段は数冊床に積まれている書物などもなくなっている。俺にはそれが、死期の近い人がやる身辺整理のように思われた。
主を失った部屋を嗅ぎ回ること数分。ああ、と。床に膝をついた翔が、気の抜けた声を漏らす。俺はすぐに、翔が手に取ったものを理解した。例の書簡箱だ。
窓下の文机にあったそれが、世捨て人の主と共にないことは少し意外だった。俺はこの一連の異変の元凶がこの手紙であるとほぼ確信していた。
「開けよう」
翔が声をひそめる。蓋を開く指先は震えていた。中はあった。あの美しい紙が、折り目正しく収まっていた。顔を見合わせ、ほとんど躊躇いなく手を伸ばす。この緊急事態で、他人の手紙を盗み見る背徳感に怖気づいている場合ではない。
急いで畳まれた文を開く。薄い菊色の紙は闇に浮いたが、さすがに暗くて読めない。
火を、と言いかけた翔は、刹那、凍り付いた。
書簡に気を取られていた俺は怪訝に思い、何事かと耳を澄ます。しかし、聴覚を研ぐ必要などなかった。直後、見知らぬ男の声が朗々と中庭から響いたのだ。
「──その御髪、影家の白様とお見受けします」と。
それは力強く、怖気など微塵も感じさせない男の声だった。同時に、どこか冷ややかで近寄りがたい雰囲気でもあった。まるで、台本を読んでいるかのように。
「七星一同。当今皇上の命により参上した次第です」