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明後日の空模様 朝廷編  作者: こく
第十話 暗殺者
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 俺と翔が寝付いたのは夜が訪れて幾拍も経たない頃だった。互いに疲れ切っていたのと、薪材を節約するためにすぐに身体を横たえ、目を瞑っている内にそれぞれ寝転がって鼾をかいていた。

 生ける屍のような司旦は、目を醒ます望みは薄いという容体から岩床に放置した。司旦に生きていてほしいのか、それともこのまま死んでほしいのか、自分の感情を掴み損ねている。ただ、限りなく死体に近い男が傍らで着実に死に近づいている、という現状は俺も翔も同様に居心地が悪かった。


 そんな不吉な予感を察知した訳でもないだろうが、俺の意識はまだ周囲が暗いうちから奇妙な浮力に引っ張られる。

 辺りはまだ夜の気配が色濃く、露を含んだ湿気がしっとり漂っている。

 俺は微睡みながら、ほとんど無意識に顔を横向ける。寝返りを打つようなもので、そこに映っているものが何なのか理解が遅れた。

 影がある。暗がりの中、更に暗黒で塗り固められた塊がじっと息を潜めている。落雷で折れた樹木の残骸のようなものが人間だと気付いたとき、寝惚けの倦怠感が、血の気とともに引いていった。


 悪夢かと思った。

 背筋が固まる。どくどくと耳の内側で血管が脈打ち、何かが出入りするような規則的な音が隣に寝転がっている翔の寝息だと分かるのにしばらくかかる。

 ではあれは誰だ? あそこで上体を起こして、浅い呼吸を殺しているのは。

 ぞわり。首筋に鳥肌が立ったが、それよりも俺が目覚めたことを相手に気取られてはいけないと防衛本能が勝った。咄嗟に詰めていた呼気を毛穴から吐き出すよう、ゆっくりと身体の力を抜く。あたかも眠っている人間が寝返りの後に再び眠りに身を委ねるように。

 瞼は開けたままだった。閉じる勇気がなかったと言っていい。そこで何が起こるのか、そもそも目の前の光景が現実なのか見届ける必要があった。どうせこれだけ暗いのだから、相手には気付かれないだろうと高を括った。


「……」


 それが司旦だと、俺は認めなければならなかった。仰向けに転がり、死斑が浮き出て、後は完全に息絶えるほかなかった司旦の身体が起き上がっている。

 どす黒い、ねっとりと粘着質な何かが司旦と地面の間で糸を引いているように錯覚する。

 司旦の身体はやや猫背気味に、ゆっくりと呼吸だけ繰り返している。意識的に空気を吸い、肉体に循環させている。まるで呼吸に仕方を思い出しているような、そんなぎこちない動作。同時にどこか作業的で、それ自体が初めてではないのだと俺は恐ろしい予感に駆られた。

 つまり、この“生き返った”としか呼ぶほかない異常現象が、司旦の身に起こるのは初めてではないのだ、という恐ろしい事実に。


「……」


 声は出ない。暗闇が圧し掛かり、上手く呼吸ができているかも怪しい。どうするべきか。翔を起こすか? 司旦が何をしようとしているのか、そもそも本人にどれだけ意識が戻っているのかも不明で、会話を試みるべきなのかも分からない。

 異様な緊張感の中、俯いた司旦の横顔に何かしらの表情があることが肌を通して感じられた。少なくともそこにあるのは虚無ではない。しかし同時に、理性もない。


「あ……」


 その感触を後押しするよう、司旦の口から声らしきものが洩れる。


「……あ……何で……何でだ……? また俺、俺……どうして……」


 小さな混乱が口から垂れ流れた。そこには誰に向けるでもない、どこか道標を失った子供のような一抹の心細さが込められている。


「また……どうして、おれ……? 何で」


 俺が聞き取れたのはおおよそそこまでだった。司旦が自らの口許を覆い、譫言の羅列はくぐもった呻きと化した。弱々しく、そのまま消え入りそうだった声は、何故だか徐々に力が込められる。

 当て所もなく彷徨っていた語尾が徐々に苦しげになり、どこか忌々しげになり、悪態をつくような淀みを孕む。憎悪や悪意、或いは殺意。呪詛にも似た呻き声が止めどなく溢れる。脈絡なく、吐瀉物のようにどろりと周囲を汚してゆく。

 荒い呼吸を聞いているとこちらまで息苦しくなってくるようだ。最早司旦の異様さに声を掛ける勇気などすっかり消沈した俺は、次の瞬間凍り付く。


「何だよさっきからうるせぇんだよ。寝た振りしやがってバレバレなんだよ」


 はっきりと意志を持った声。それが司旦の喉から出たと認識できないほど歪んでひび割れている。殺気のようなものが暗闇一帯に漲り、俺は首を竦めるのが精一杯だった。

 はっと見上げれば、口許に両手を残したままの司旦が、到底正気とは呼べそうにない獣性を込めて目を見開いていた。無言で視線がぶつかるはずが、焦点が微妙にずれている。司旦の大きな瞳孔は俺の目を透かして別の誰かを捉えている。


「……お前かよ」


「え?」す、と冷えた空気。気迫に圧されて、思わず腰を浮かせて後退る。最早狸寝入りをする必要はなかったが、代わりに明確な命の危機が迫っていた。


「お前か」囁くように音量を押さえた声が、逆に狂気の気配を募らせる。「お前のせいだ」


 恐怖で体が跳ねるが、素早く逃げれば下手に相手の神経を刺激しそうで、余計に俺の動きを鈍らせる。

 首が回り、司旦の両目が爛々とした光を帯びた。暗がりの向こう、息を殺し、鎌首を擡げた蛇と対峙したような心地にさせられる。


「返せ」


 今度の声は先程よりも大きく響いた。怒鳴る一歩手前といった声量だ。生きている、と場違いにも実感する。司旦は確かに生きている。ただの狂気ではなく、そこに何か熱に浮かされた異様な執着のようなものが見て取れた。心は確かにそこに在る。


「返せって、何を」


 空疎な俺の声は司旦の掠れ声に掻き消された。


「──さま、を」


「え?」


「おれの白狐様を返せぇえええええええええ!!」


 司旦の機敏さは獲物に跳び掛かる捕食者を思わせた。ただ、肉食獣にしてはその動きは些か乱れすぎていたが。

 咄嗟に仰け反ったが避けることは叶わず、顔面を固いもので横凪にされる。殴り飛ばされた勢いで床に這い蹲り、二撃目が頭頂を掠めた。最早司旦の喚きは人の声とも思えず、ただ意味を成さない絶叫が鼓膜の上で反響していた。

 口腔に鉄の苦味が広がる。顎を濡らしているのが鼻血なのかそれ以外の出血なのか判然としない。薄暗がりの巣穴、司旦の二つの目が理性を失ってただ爛々としていた。


「皓輝、一体何が」


 目を醒ましたらしい翔の声が聞こえた。飛びかかってくる司旦の気迫に圧され、翔の頸椎につい肘をぶつけてしまったのは不運な事故だったが、結果として相棒の目は冴えただろう。司旦の気が俺から逸れた一瞬の隙を突き、無防備な脛を薙ぎ払って転倒させた反射神経はさすがだった。


「翔……!」


 名を呼ぶまでもない。翔は素っ転んだ司旦に問答無用で跳び掛かり、力づくで押さえつける。両手首を掴まれながらも司旦は動く部位をがむしゃらに振り回し、両者の力の拮抗は息つく暇もない。


「──あぁあああ!!」


 抵抗する口から喘ぎとも悲鳴ともつかないものが唾液交じりに吐き出された。どこか泣いているようでもある。

 鬼気迫る表情の凄絶さに翔が僅かに怯んだ。瞬間、司旦の左腕が神速で顎を狙う。


「──っ!」


 声にならない呻き。躊躇ない一撃をまともに受け、傾いた翔の身体は人形のように見えた。恐ろしいことに、精神を崩壊させながら尚、司旦の動きは研ぎ澄まされている。急所を狙う躊躇のなさは、紛れもない明確な殺意だった。

 狂った目に俺たちは映っていない。ただ奴にとり、今の自分を邪魔するもの全てが敵なのだと、がくりと膝をついた相棒の背中を見つめながら、俺は、ひゅ、と不自然な息を吸った。

 皓輝、と翔の叫び。咄嗟に顔を背けねば、また同時に翔が司旦を羽交い絞めにしなければあわや目が潰れるところだ。顎から耳まで走る熱い痛み。司旦が降り上げたその爪先で何かが光る。仕込みの針か何かが俺の顔面を狙ったらしい。


「死ねぇえええええええ」


 拘束されながらも尚暴れる司旦は手が付けられない猛獣のようで、俺は頬から滴る血流を押さえながら数秒呆然とする。翔の方が力では勝っていたが、既に肉体の限界を超越した司旦は自身の腕を折ってでも逃げ出そうともがいている。

 どうにかしなければ、と思うよりも先に握った拳で司旦の鳩尾を突いていた。

 的確に、確実に。──技量で劣っていても、急所さえ突けば逆転の糸口はある。以前そう語った相棒の言葉を思い出しながら、嘘だろ、と一歩後退る。嗚咽と大量の唾液を吐き出した司旦は、僅かに手足の暴れを鈍らせたのも束の間、尚も抵抗の意志を見せる。


「うぁぁああああ……返せぇ……返してよぉお……」


 しゃくり上げるような喘鳴。内心で悪いと思いながら、再び両手を握り込んで鳩尾に一撃を加える。息が止まったのか、意識が飛んだのか、司旦の身体がだらりと力を失って翔の両腕にぶら下がった。

 刹那、翔が自身を僅かに横へ滑らせ、司旦の肘鉄を躱す。まだ抗うのか、という驚愕とは裏腹に、それが司旦の最後の抵抗となった。翔は素早く司旦の両腕を捻り上げ、その身体を地面に捻じ伏せる。後に残ったのは、薄暗がりに響く荒っぽい呼吸音のみ。

 声にならない嗚咽が聞こえる。息を殺すように、地面に向かって流れ散ってゆく。その透明なものが司旦の涙だとしばらく分からなかった。


 いつしか巣穴の入り口はぼんやりとした藍色に滲みつつある。薄明の闇と光。夜と朝が混ざり合って、臓物を思わせる毒々しい曙の紅色へと染まってゆく。媚態のない、ただ自然の残酷さをそのまま映し、雲さえも黒々と呑み込む朝焼け。

 司旦は最早手向かうことはなかった。何かの糸が切れたのか翔の膝に押さえつけられたまま、肩を震わせている。


「何でだよお……何回俺から奪えば気が済むんだよぉお……」


 肌を舐め回す、湿った寒気。真っ赤な朝焼けに染まる巣穴は内臓を失った空っぽの人体のようだった。

 俺も翔も身動きできず、嗚咽を漏らして拳で岩床を叩く司旦の姿に声を失っていた。




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