Ⅰ
どさりと無造作に投げ出された一人の男。まるで人形のように、意志を失った関節が地面に跳ねる。土や血痕で汚れてはいるが、皮膚には若々しい張りがあり、骨格は未熟と言っていい。まじまじと眺めれば、俺たちとさほど年も離れていないように見える。
これは結果だった。俺たちの与り知らぬところで何かが起こった、その後に残された残骸のような結果だ。血まみれで固く目を瞑る司旦は、到底生きているようには見えない。顔色には生気が一切なく、その鮮烈な着物の色が仄暗い光の中で際立っている。
「……え」
どちらからともなく、浅い呼気から漏れた声は、鳩尾を指で押されたときの短い呻きのようだった。豊隆が風を巻き起こしながら翼を畳む。顔を見合わせる俺たちの前髪が煽られ、巣穴の砂埃が渦を巻いて鎮まった。
「……」
豊隆は何も言わない。元より神々は言語で意思を表象することはないが、それ以上に感情の揺れというものが窺えなかった。捕らえた獲物の如く巣穴まで運んできたものも、投げ出した途端に興味を失ったようだった。
ただ、その金とも銀ともつかぬ眼光が俺たちを、否、俺を射竦める。思わず顔を伏せた。銃口を向けられ、そこから目を背ければ自分には当たらないと過信したくなる、あの感覚に似ている。
呼気すら止まる数秒間の沈黙は、豊隆が逸らせたために途切れた。ふ、と強烈な金縛りが解けたような脱力感に襲われ、ぐっしょりと冷や汗をかいている自分に気づく。
俺も翔も身動きが取れなかった。指一本動かせず、素っ気なく身体の向きを変えた豊隆が、巣穴の入り口に座るのを呆然と眺めるほかない。巨大な怪物が身動きをする、何かを引き摺るような大きな音だけが岩壁に反響した。
背を向けたとはいえ神鳥の輝きは瞼の奥に焼き付き、土気色でぐったり息絶えている司旦がより一層霞んで見える。
「どういうことだ」無様な狼狽が洩れる。翔は首を振った。何かを言いたげだったが形に成らず、ただ口腔に溜め込んでいる。
「し、死んでいるのか?」
声が震えるのは、突然死体を目の当たりにしたためか、それが見知った顔であったためなのか、その双方だろうか。今や司旦の表情に底抜けな明るさも、目の奥に隠れた歪な剽悍さもない。僅かに開いたその口許は、歯を食い縛った後に力尽きたようでもある。
一体彼の身に何があったのか。腹部を袈裟に横切る刃傷が、ただ物語の結末のよう無慈悲に口を開けている。なまじ翔の傷口と似た位置にあるため、深刻さが生々しく感じられた。皮膚の下にあるべき臓物が少なからず飛び散った痕跡もある。
先に動いたのは翔だった。さっと下肢を屈め、司旦の傍らに膝をついてその死体をくまなく観察する。俺は正視するのも躊躇われたが、翔は困惑よりも状況判断を選んだようだった。
だらりと垂れた司旦の手首を持ち上げ、襟巻を除いて首筋に指を当て、腹部の傷口を入念に調べてから再び首筋に指を押し当てて脈を調べている。眼球の辺りに触れ、背中や腕の裏を確認し、やがて僅かに青褪めた顔の翔が「皓輝」と深刻に囁くので面を上げる。
ふらり、一歩後ろに後退った翔は、困惑と驚きが入り混じり、異質なものから身を守らんとする動物じみた怯えがあった。
「落ち着いて聞いてほしい」という前置きは、自分自身に言い聞かせているようでもある。
「こいつ、生きている」
***
「嘘だろう」と言ったのは反射でもなく本心で、残念ながら目の前で転がっている司旦は、お世辞にもあまり生きているようには見えなかった、むしろ誰がどう見ても死んでいると分かりそうなあたり、立派な死体と呼んで差し支えなかった。
「いや、生きている。正確に言えば、まだ死んでいない」
その言い回しにどのような違いがあるのか分からず眉を顰めれば、翔は未知のものへの恐怖と興奮の入り混じった声で、それで極力淡々と説明してみせる。
「傷の具合から見て刺されたのは三、四日前。外に放置されていたようだからとうに腐敗が始まっていてもおかしくない。でもほら、皮膚には水分が残って、生きているときとそう変わらない。腐って変色した痕跡もない。何より、血が止まっている」
翔の死体への知識がなければ、司旦の身体の異質さは見落とされたままだっただろう。他に眼球や角膜の透明さを挙げ、翔は「少なくとも、完全に死んではいない」と結論付ける。その声はどこか自信なさげで、目で問えば「でも背中に死斑はある」と付け加える。
死斑というのは、心臓が止まってしばらく経つと死体の地面に近い方に血液が溜まる現象のことだ。
「じゃあ死んでいるんじゃないのか。心臓は動いていないんだろう」
俺は迷いながらも好奇心が勝り、翔がそうしていたように司旦の首筋の脈を測る。その体温がぎょっとするほど生暖かいのは、太陽の光を浴びたためだろうか。
気味悪い温度に耐えながらぴくりとも動かない動脈をしばらく触り、諦めて手を離そうとしたそのとき。まるで卵の中で身動きする稚魚のように、僅かな震動が指越しに伝わり、「あ」と間抜けな声が出た。
「……」
声を失って見上げれば、翔は無言で唇を引き結んでいる。その強張った表情に、俺は翔と同じことに思い至った。恐ろしいことに、司旦にはまだ僅かに脈動が残っている。その血圧があまりに弱々しいので重力に抗えず、死斑が出てしまったのだろう。確かにその背中には痣に似た黒い血溜まりが大きく浮かび、不吉の象徴のようだった。
「こんなことってあるのか?」
誰かにというより俺は自分の知識に問う。二十一世紀の日本の医療技術なら、大量出血して瀕死になった人間の命を人工的な機器で繋ぎ止めることもできるだろう。
しかしここは違う。何らかの刃物で内臓を抉られ、数日屋外に放置された人間の身体がまだ淡々と生きようとしている。奇跡というより、呪いじみている。
「どうする?」
「どうするって」翔の問いに困惑する。俺たちに何が出来る。大きく息を吐いた翔が、乾燥した掌で自身の膝を撫でた。「いや、出来ることはあるぞ」
「何をするんだ?」
「司旦に留めを刺す」
思わずひゅっと息を止め、無意識に司旦の命を持続させる方向に傾いた自分に気付く。
それは死にかけた人間を前に助けなければと働く自然の焦燥でもあり、行き先を失った俺たちに何らかのヒントを与えてくれそうな唯一の存在を失ってはいけないという理性の働きでもある。
「どうする?」翔の眼差しは研ぎ澄まされた刃物のような光を帯びていたが、どこか俺の内心を見抜いていたようでもある。
「皓輝、お前が決めていいぞ。この傷を治療するのは正直厳しい。意識が戻る保障なんてないけど、殺すことは出来る。楽にしてやるのか、今までの報復か、どっちでもいいけど、多分こいつに振り回されてきた皓輝に選ぶ権利があると俺は思う」
「……」
上手い言い回しを探し、俺は唇に力を込めたり緩めたりを繰り返し、やがて首を横に振った。
「人の生き死を選ぶ権利なんて俺にはない。楽にしてやる義理もない。ただ、どうせこのまま死ぬんなら、わざわざ殺さなくていいだろ、としか言えないよ」
「そっか」翔はあっさりとした相槌を打って、膝についた砂ぼこりを払う。「俺もそう思っていた」と付け加えた言葉が本心なのかは果たして判然としない。
司旦は恐らく何か知っている。彼をこんな風にした者が一体何者なのか。白狐さんか、コウキか、あるいはそれ以外か。いずれにせよ司旦にとってそれが想定外だったことは傷口からも明白で、二か所の刺し傷はそれぞれ背中と腹部から刻まれている。俺と翔は検死官のようにぐったりと動かない司旦の身体を調べることにする。
「多分、最初に後ろから不意を突かれたんだろう。背中からの傷は胸まで貫通している。普通ならこれで致命傷だ」
「でも続いて正面から斬りつけている。余程殺意の高い相手だったんだろうか」
そうかもしれない、と翔は呟く。「でも分かるか? かなり刃渡りのある武器で斬られているんだぜ」
その指が示すところは司旦の胴体を横向きに切り裂いた傷口で、なるほど言われてみれば脇腹からもう片方の脇腹まで躊躇のない一直線で裂かれている。短い刃物ならばこうはいかない。
「つまり、かなりの近接で斬られた訳。こうやって、自分の身体を守るために長い刃物を横にして、司旦を押し退けた感じ」
翔が自身の腕を刃に見立てて再現してみせる。「じゃあ、背中を刺し貫かれた後も司旦は生きていたんだな」
「今も生きているけど」
「死ぬはずだったのに生きていたんだ。相手もそれが想定外だったんだろう。もしかしたら瀕死の司旦に攻撃されて、咄嗟に身を守ろうとした二撃目だったのかもしれない」
「司旦は」俺は不自然に乾燥して苦い味の唾を飲む。「司旦はどうして死んでいない?」
俺たちはその答えを知っているような気がした。本来ならば致死する凄惨な傷を負っても尚、驚異的なペースで回復する人種がいることを知っている。
西大陸の連中がここにも絡んでいるのだとすれば、厄介なことこの上ない。不老のあの国の連中と司旦がどのような関わりを持っているのか、どう試行したところで憶測の域を出ないのだが。
司旦は西大陸の連合国民だったのか──? いや違う。俺は自分で否定する。
ニィに憑依され、不老の肉体を得たネクロ・エグロは、その代償にスコノスを失う。俺自身が、コウキから引き離された人型スコノスであるからよく分かるつもりだ。司旦はスコノスがいる。少なくとも一年ほど前、俺たちは蛇の姿をした司旦のスコノスと対峙したことがあった。
この一年の間に司旦がスコノスを引き離された可能性もない訳ではなかったが、それよりもスコノスの直感が勝る。司旦のスコノスは生きている。死にかけた宿主の内部で衰弱しながら、冬眠するように蜷局を巻き、次に目覚めるのを待っている。迂闊に手を伸ばそうものなら毒牙で報いることも辞さない。そんな気配がある。
じゃあ一体何なのか。答えを持ち得ない俺たちは一通りの議論を終えた倦怠感で、沈黙の重力すら増して思えた。敢えて手を下さないと判断したものの、介抱するほどの慈悲が必要なのかも判断つかない。ただ黙って死ぬのを眺めているのは居心地悪く、さしあたり有り合わせのもので傷口を塞ぐ程度の努力はした。
「気休めでしかないけど」翔は自嘲気味に言う。「既に死んでいるはずの奴をどう手当てしろっていうんだか」
「確かに……」
司旦の身体に如何なる現象が起こっているのか定かでないが、目で見た限り出血は既に止まっているようだ。もし助けるという選択をしたところで、俺たちに出来ることはなかっただろう。
──まただ。俺たちは大河に押し流されるよう、抗いようのない巨大な力に飲まれている。一体いつからだっただろう? 初めから?
誰かの掌で転がされるのも腹立たしいが、相手が神となれば無力感なんて言葉は既に重ねすぎて陳腐になり、かといって大袈裟な絶望でもない。ただ、空の彼方へ飛び去る鳥を見送るような、途方に暮れた虚無感だけが延々と尾を引いている。
気が付けば随分と日が傾き、豊隆は姿を消していた。雲を焼け晒すような夕陽が輝き、洞穴の中を、泥で汚れた頬を、乾燥して噛み締めた唇を照らし出す。
思えば奇妙な話だ。今朝太陽が昇ったのも同じ方角ではなかったか。この神域では東も西もなく、天体の廻る理ですら狂っている。




