Ⅵ
「は?」と一際素っ頓狂に響いた俺の声も無理はない。翔の顔をまじまじと見据えるこちらに居心地悪そうな翔は、「奴隷商人のところだよ」と再び声に出した。
「それは、一体どうして」言いかけてはっと口を噤む。
奴隷売買を生業とする集団のことは、翔にとってデリケートに扱われるべき話題だった。
生い立ちを思えば当然のことで、俺は進んでその単語を晒そうとは思わないが、一方で翔は時折自分の凄惨な過去を自虐的に話題にしようとする節もあるので、困る。
「止むを得ずというか、必要に迫られたというか」
曖昧に濁す翔の声は感情が窺いにくい。
「……奴隷狩りに、捕まったのか?」
「まあ聞けよ。あの火事の晩以来、俺も大変だったんだ」
翔の語り口は昔話のようだ。現実味は翔が意識的に遠ざけたらしい。俺は余計なことを挟まず、黙って聞く。
あの夜、翔と対峙したのは七星の二ノ星だった。雨戸を突き破って現れたあの男だ。俺を庇って逃がした後、翔は炎で家が焼け崩れることを察して間一髪で外へと逃れた。二ノ星はしばらく追いかけてきたが、翔のほうに地の利があると判断したか途中で引き返していったという。恐らく、俺や翔を殺害するのは本来の目的ではなかったのだろう。
「朝が来たらすぐに皓輝を探そうと思ったんだ」
弁明交じりになる必要はない。翔が夜になれば目が見えなくなることを思い出し、俺は無言で頷く。あのときでさえ、翔に見捨てられたとは考えなかった。止むを得ない事情があったに違いないのだ、と確信していた。
「夜更けの渓流の畔で、じっと動かずに時間が経つのを待っていた。長い夜だった。そうしているうちにだんだん誰かに見られているような感覚があってね。やばい、七星かも、って伏せて隠れようとしたんだけど、どうにもおかしい。違和感に気付いてよかったよ。あのときの俺、樹上に潜んでいた奴隷狩りに狙われていたんだ」
そうと分かってしまえば翔は素早かった。夜目は利かずともその腕前に狂いはない。咄嗟に投げ飛ばした槍は、相手を樹から撃ち落とす。
そのまま鮮やかな手並みで男の息の根を止めた翔は、はっと身体を強張らせた。どこからか人の話し声が近づいてくる。複数人の大柄な足音。どうやら七星ではなさそうだ。──この奴隷狩りの仲間かもしれない。隠れる場所はない。
「で、俺が何をしたと思う?」
「死体から服を剥ぎ取って自分で着たんだろう」
「よく分かったな」
B級映画のような展開は、実際やってみると滑稽なものだ。実践した本人はやけに得意げなので俺は微笑ましいが、敵の格好をして成りすますなど現実的に考えて無理がある。
「最初は良かったんだよ。暗かったし、髪も頭巾の中に隠していたから帰化人だってこともばれなかった。奴隷狩りの奴ら、完全に仲間だと思い込んでてね、正直笑いを堪えるのが大変だった」
笑っている場合でないのは夜が明けてからである。太陽が昇れば当然正体を見破られるだろう。
それがどのタイミングだったかはよく分からないが、徐々に翔の言動に粗が見え始めたのは一行が南へと向かっている最中だった。彼らの目的地が凉省と分かり、翔が密かに慌てたのが発端らしい。
「結果から言えば、バレて殴る蹴るの暴行を受けた末に捕まった」よくその場で殺されなかったものだ、という俺の内心を読んだか、翔は付け加える。
「奴ら、俺が異民族の血を引いているって知って張り切っちゃってさ。あっという間に縛り上げられた」
翔の実力を思えばそこで死に物狂いの抵抗をしたことは想像に難くないが、それでも捕縛されたということは余程不利な戦局だったのだろう。翔は「すぐに逃げ出せると思ったんだよ」と口を尖らせる。それが容易ではなかったのは俺にも察せられた。
「連中は凉省の安居に向かうつもりらしかった。さすがに勘弁してくれって泣き付いてもきいてくれなくてね。まあ当然か。ともあれ、詳細は省くけど、奴らは俺を南へ連れて行くことに決めた。道のりは散々だったよ」
人身売買組織はその闇商売ぶりゆえかあまり街道を使わない。彼らには彼らなりの道路があり、大抵それは目立たない山や森の中に隠されていた。足場は悪く、囚われの身とあっては余計に苦労したことだろう。
「──ただまあ、悪いことばかりじゃなかった。裏の社会を生きている連中の集まりだからね。白狐さんが恩赦を賜って都へ帰るっていう話は表沙汰になっていなかった分、奴らは詳しかった。恩赦が見せかけのもので、本当は影家の狐を秘密裏に葬るのが当今皇上の目論見なんじゃないかってことまでだいたい予見していた」
「大したものだな」
正確に言えば、秘密裏に葬るどころか真正面から堂々と処刑するつもりだったようだが、いずれにせよ影家と望家の因縁は裏でも有名な話なのだろう。
道中の翔は、世間から離れていた長い期間の溝を埋めるよう、常に商人同士の会話や動向に注意を払った。時には無遠慮に質問の嘴を差し込むことさえあった。答えが返ってくるときもあればぴしゃり黙れと封じられることもあったが、如何なる状況でもへこたれない翔のタフさはさすがである。
ところが、本人には本人なりの葛藤があったらしい。それは俺がずっと抱えてきた、自分の矮小さに嫌気が差し、何もしたくないと投げ遣りになるあの無力感とほぼ同じだった。
朝廷はこの国の政治の中枢。その大舞台を生き、また立ち向かおうとしている白狐さんの姿は俺たちの知る世捨て人とはまるで別人だ。
そう、彼が俺に託した手紙の内容が思い出される。あのとき何故白狐さんが陰謀と知りながら七星と共に帰京する決意を固めたのか、今なら分かる。
彼は、戦うつもりなのだ。俺たちが知らなかっただけで、彼はずっとそうするつもりだったのだ。
翔は俺と違って、人生のほとんどを彼と過ごし、死ぬときは傍で、とまで言い切ったほどだ。恩人とはいえ彼の行動に疑念を挟み、誰が不義理と責められるだろう。
俺たちは思案に耽り、それぞれが沈黙した。どんな形にせよ白狐さんへの不信感を声に出せば世捨て人たちの間に築かれた透明な何かが決壊すると分かって、双方が何も言わなかった。それは愚かしい努力に違いなかったが、その後も俺たちにとっては大切な暗黙の取り決めとなった。
「……それで、どうなったんだ?」
空気を切り替えるように、俺は沈みかけた声を精一杯取り繕う。目線で続きを促せば、翔は再び口を開く。存外暗さはないが、また上手く隠れ蓑を着てしまったようにも感じられる。
「結局逃げ出す隙も見つけられないまま、奴隷狩りに連行されて凉省に入ってさ。商売が盛んな省だからやっぱり人も物も、情報も行き来が多くてね。そこでまた思いがけないことがあった。ねえ、誰に会ったと思う?」
「誰だ?」
「情報屋」
その胡散臭い肩書に耳覚えはあったが、記憶を引っ張り出すのにかなり時間がかかる。情報屋? と一度聞き返し、その響きを頼りに遡った。
「ほら、去年の夏至祭のとき、コウキと一緒にいた奴だよ。お前とイケメンを見間違えていた」
「時々お前は物凄い失礼なことを言うよな」
「安居の港辺りを拠点に動いているのか知らないけど偶然また会ったんだ。覚えているだろ?」
俺は頷く。情報屋のことなら確かに覚えがあった。火陽という夏至祭の日、ひょんなことから出会った不思議な若者だ。
猫科の動物のようにしなやかな骨格をして、手足が長く、どちらかといえば軟派な印象でありながらどこか食えない。そんな彼は怪しげな情報屋を名乗り、文字通り仔猫の姿となって俺を占い師の元まで導いた。あの扶鸞のお陰でどうにかコウキに拉致された翔の居場所を突き止めたようなものだ。翻ってみればコウキと俺を引き合わせたのも彼だった。
運命的な要を握りながらついぞ思い出すことがなかったのは、彼の名前や素性をよく知らないためかもしれない。
「俺も初めは思い出せなかった。向こうから声を掛けてきたんだ。何してるの? って」
翔はむすりと答えた。「奴隷やってるんだよ」
「大変だねぇ」
若者は相手の苦労を一ミリも汲み取らない笑顔で言った。そこで翔は、この若者に見覚えがあることに気付いた。
「あ、お前は……」
「やあ、また会ったね」情報屋の若者は相変わらず屈託ない。
自然さを装っているのか、本当に自然な仕草なのか判断しにくい。軽快な立ち居振る舞いは、涼しい風のように周囲の空気を幾分軽くした。
彼と翔がばったり出くわしたのは、安居に向かう道のりにある宿場地のひとつで、港からの品物が取引される三慶運河が通る城市だ。凉省が商業の地として栄える発端となったこの長い運河は朧省にまで続き、開通から千年余りが経つ今も賑わいは絶えない。
埃っぽい喧騒の中、情報屋だけはその胡散臭い肩書に似合わず爽やかな出で立ちで、目立っていた。
やがて彼は翔が不自由の身であることを目に留め、翔を率いていた奴隷狩りの首と幾つか会話を交わし、そこに笑みさえ零しながらあっという間に縄を解かせたのだ。目で見た限り、金銭のやり取りなどはなかった。
「……一体何者なんだ?」
逃げるように立ち去った商人一味を見送り、強張った手首の関節を回しながら、訝る翔に彼は片目を瞑る。「情報屋だってば。ちょっと顔が広いだけ」
「ともあれ、助けられたな」
そんな場違いに牧歌的なやり取りを経て、知り合いに出会ってこれ幸いとばかりに斯く斯く云々、これまでのあらすじを大まかに話すに至った。知り合いと呼ぶにはかなり立ち位置の曖昧な若者ではあったが、翔が頼れる数少ない人間は凉省にはいない。
翔はどうしても長遐に戻りたい一心で情報屋に助けを求めた。勿論、不穏な陰謀の渦中に飛び込まんとする白狐さんのことも助けたかった。しかし、いやだからこそ彼は「戻っても意味はないよ」と首を振る。
「君が元の家に戻って出来ることはないよ。かといって都に行ったところで同じだ。無力感に打ちひしがれるのが落ちじゃないかな」
何もかも見透かしたような言い方をする若者には腹が立ったが、翔がどんな言葉を並べても彼の正論を打ち崩すことは出来なかった。彼の物言いには不可視の現実そのものが持つ冷徹な重みがあった。
「じゃあどうすればいいんだよ」
遣り切れない声で翔が嘆けば、彼はそれを待ち受けていたようだった。蜘蛛の巣に羽虫が引っ掛かった瞬間を思わせた。そこまでの不吉さはなかったにしろ、八方塞がりの状況に変わりはなかった。
「いいこと教えてあげようか?」
「タダなら」翔は悔しさに口元を歪ませるが、若者はその反応を悪意なく面白がった。
「やだな。タダで情報を売る情報屋がどこにいるのさ。ちゃんとお代は戴くよ。ああ、心配しなくてもいい。吹っかける相手を間違えるような素人じゃない。ちゃんと君が支払えるものを請求させてもらうよ。今じゃなくていい。今度会ったときにでも、ね」




