Ⅳ
湖は地上から見下ろしたときよりも遥かに深かった。白っぽい水底こそはっきり見えたが、指を伸ばしても何故か届きそうにない。むしろ、沈めば沈むほど遠ざかっていく。
無限と呼べそうな青い空間で、俺は現実味を失ったまま漂っていた。不思議と呼吸の苦しさは感じない。
透明な青さが永遠の時間のように広がっている。時折好奇心のある魚たちがこちらの目の前で花びらのような尾ひれを振る。太陽の光が斜めに差し込み、水底から伸びる植物に陰影をつける。そこがひとつの世界のように、無音のまま何もかも動いている。
俺はじっとそれらを眺めていた。酸素を取り入れているという感触はなかったが、意識も視界も明瞭だ。自分の外側の表皮が剥がれ落ち、内側の固い痛みだけが取り残される。そんな状態だった。
このまま自分は朽ち果てるのだと悟る。役割を終えた表面の肉体はどこかに沈み、魚や微生物に啄まれ、白い骨だけ残るのだろう。そして意識はこの水と一体となり、いつまでも世界中を流転するのだ。
そんな壮大な夢は頭上から妨害された。誰かの声が聞こえる。呼んでいる。しかし水面に阻まれ、本来あるはずの抑揚や意味を失って響いていた。
眉を顰める。くぐもった叫びの連続は、青い世界観に不釣り合いだった。一方で、水上に出なければならないような気もした。
あと少し、と心が横着する。あともう少しでいいからここにいたい。その少しの時間は、俺に許された生命の刻限でもある。
「──皓輝!」
突如として五感が正常に戻った。誰かが俺の足首を掴んでいる。痛いほどの感触が俺の目を覚ました。その瞬間、俺は呼吸器になだれ込む冷たい水に噎せ返り、窒息した。
悶絶する叫びは声にならない。吐き出す空気は白い泡となって目の前で踊り狂う。翔が引っ張り上げてくれなければ、間違いなく死んでいた。
皮膚に触れる空気が、音が、水上に戻ってきたことを教えていた。しかし俺はそれどころではない。溺れた人間がそうであるよう、酸素を求め、逆流する体内の水に全身が引き攣れた。咳き込むという生易しいものではなく、食道も呼吸器も引き千切られるような激痛だった。
「げほっげほっ、げえ、がはっ……おえっ」
岸辺で繰り返し水とも唾液とも鼻水ともつかないものを吐き出し、涙が撒き散らされるがまだ足りない。胃の奥底に居座り、湖の青さと一体になりたがっていた塊がますます膨張し、呼吸を妨害している。
「皓輝!」
翔が俺の背中を叩いた。無呼吸状態は三十秒あまり続いた。まとまりを帯びたものが俺の食道の形をぐにゃりと変え、口腔を目指してせり上がる。俺は前屈みになって最後に息む。赤ん坊を産み落とす動物のように。
おげ、と醜い声とともに吐き出したそれは吐瀉物ではなく、透明な何かだった。光を浴びて虹色に輝き、液体でありながらほとんど地面に染み込まない。翔が息を飲んでいた。俺は口から酸味のある胃液を垂らし、浅い呼吸で身体を上下させる。
筒状の食道が元の形に収縮するのを感じる。ゆっくり時間をかけて、身体が自分のものにもどっていく。はあ、はあと繰り返し喘ぎ、生きていることを実感した。酸素を取り入れた全ての細胞が、奇妙な達成感に浸っていた。
「これは……」
翔は困惑して一歩後退る。俺が吐き出したものはおおよそ五〇〇ミリリットルにも満たない水だったが、やはりただの水ではない。
スライム状の丸みを帯び、幾つかの塊に分かれている。染み込まずに地上に留まっているのは、表面張力と言うよりそれ自身の意志であるように見えた。
ふるり、と震える。光を反射して、虹色のプリズムが鼓動のように波打つ。そうして幾つかの水の塊は自然の本能らしきものに従って互いに引かれ合った。世にも奇妙な光景だった。複数の水塊が生き物のように動き回り、ひとつに結合して形を成す。
息を漏らしたのは俺と翔のどちらだろう。呆気にとられ、口を閉めることさえ忘れた。目の前で形状を変えるそれは不安定に細長い首を伸ばし、やがて尾までひとつながりの生き物になった。
「へ、蛇だ……」
先に翔が口を開く。そう、蛇だった。さしあたりそう呼べそうな細い棒状の水の塊だった。身体は無色で透けていたが、頭があり、胴があり、尾までにゅるりと蠢く様子は生まれたての蛇にしか見えない。体長は三〇センチほどだろうか。
俺は水の蛇を見つめ、お前だったのか、と心で叫ぶ。お前が、雲上渓谷からずっと俺を不調に陥れてきた胃の中の違和感の正体だったのか、と。
蛇は応えない。しかし脳の信号が蛇の思考を捉えてそのまま俺のものにする。血を分けた子どもと言うべきか、限りなくそれに近い繋がりが俺と蛇の間にあった。
「──」
ぽたぽた、髪の毛から垂れる水滴も構わず、俺は蛇の目らしき粒を凝視する。まるで精巧なガラス細工のようだった。まさに水が意志を持ったらこうなるのだろう、という不安定な揺らめきとともに、蛇もまた三センチあまりの透明な頭を擡げてこちらを見上げている。
その目はどこか不満げだった。もう少しだったのに、と口を尖らせていた。もう少しで、還れたのに──。
「そんなに帰りたいなら帰れよ」俺は力の入らない声で言う。「好きにしろ」
水蛇は、どこか腑に落ちない面持ちでくるりと首の向きを変え、ようやく鎮まりかけた湖へと向かって這う。そうして振り返ることなく、ちゃぷんと水際で着水し、湖面を滑るように泳いでやがて見えなくなった。
「……」
残されたのは、ずぶ濡れのまま解放の余韻に浸っている俺と、呆然と立ち尽くす翔のみ。
「え?」翔は真っ当な混乱をしていた。「何あれ?」
「あらいぐまラスカル」
「は?」
「冗談。説明は後でするから、とりあえず何か食べていいか」
蛇から解放された身体は完全に飢餓状態になっている。今まではあの蛇が俺の生命維持に一役買っていたのかもしれない。無事に孵るまで“母体”を死なせるわけにはいかなかったのだろう。
翔が戻るまで、俺は取り留めなくそんなことを考えていた。この体力で上の巣穴まで登ることは不可能だった。地面でくたりと力尽きていると、やがて翔が食べ物を手にこちらへ戻ってくる。わざわざ通路を伝って行き来したのだとすると、翔の体力の回復は目覚ましい。
身体を拭いて、手渡された雑炊の残りと丸のままのたくあんをゆっくり味わう。空腹のあまりがつがつ貪りたかったが、翔がそれを許さなかった。
久し振りに水も飲み、臓器が再び動き始め、生き返ったような心地になる。雰王山の足元は、上にいるときよりも時間の流れが穏やかだ。恐らく、空気の濃度が身体に何らかの影響を与えているのだろう。
「ふうん、異界共食ねぇ……」
紺碧の水辺を尻目に、翔は雲上渓谷での話を一通り聞いては、興味深そうに頬杖をついている。
「正確には水だけど」水が神話で言うところのよもつへぐい扱いになるのか自信はない。しかし、迂闊に飲んだせいで禁忌を犯したことだけは確かだった。
「全部吐き出したはずが、胃の中に一部が残っていたらしい」
「それがあの蛇になったのか」
「寄生する卵みたいなものだったんだと思う。いつの間にか、俺の体内で養分を吸って孵った」
ただの水ではなく、霊力を帯びた雲上渓谷の湧き水だったからこそ、消化もされず育ち続けたのだろう。あれからずっと、俺は体内で水の霊を養っていたのだ。
内側から胃を圧迫されていたので、慢性的な腹痛の原因も明白である。今にして思えばかなり気持ちの悪い話だ。
「そして多分、皓輝がスコノスだったから霊力を食わせてやることが出来たんだ。普通のネクロ・エグロならきっと水を飲んだ時点で干乾びて死んでいる」
「あの蛇は何者なんだろうか」
「見たところ、精霊の成り損ないみたいだったな。無形の霊に限りなく近い。雰王山に来て、濃い霊気に触発されて促されたんじゃないか。その……」
「出産が?」
「そう、出産が」翔が顔を顰めながら言う。
恐らく想定通りであれば出産は水の中でなされるはずだった。そして出産は同時に母体の死を意味していたはずだった。
しかし、翔が咄嗟に水から引き上げたので止む無く地上で吐き出され、何かを欠いたまま誕生したのだろう。詳しくは分からないが、去り際に見たあの蛇の表情にはそういった動物的不満があった。
「いきなり水音がしたからびっくりしたんだよ。まさかと思ったらそのまさかだった」
「よく気付いたな」
「跡をつけたからね」
俺は一拍黙り、まじまじと相棒の顔を見つめる。どこまで本気かは分からないが、得意げな目尻の笑い皺に嘘はない。翔の勘の良さにはいつも驚かされる。
「ともあれ、引っ張り上げてくれて助かった」
自分一人ではどうにもならなかった。産み落とさねば胃が破裂するなりして死んでいたし、あのまま産んでいても水死していた。紙一重で命拾いしたのだと思う。
「よもつへぐいをしたことの罰だったのかもしれない。或いは」
「或いは?」
「あの蛇を通じて豊隆が俺に何かを伝えようとしているのか」
二人の間に沈黙が降りる。予測不能な神のこと、なさそうな話ではなかったが、あのとき俺が雲上渓谷で霊水を飲むことまで運命に織り込み済みだったというのは如何せん出来過ぎなように思えた。
豊隆の霊気が俺の身体に変化をもたらした一方、恐らく水蛇そのものは雰王山に無関係だろう。──少なくとも、今の段階では。
この先どうなるのかはさっぱり見当がつかなかった。豊隆が、よもつへぐいの禁忌を犯した俺のことを知らないはずがない。何かしらの天罰は覚悟しておいたほうがいいだろうか。
「あの蛇は、一体どこへ行ったんだろうか」
しばらくして、翔が空気を吐き出すような声で問う。誰かに向けたというより、この空間そのものに問いかけていた。
さあ、と俺は関心も薄く応える。あの得体の知れない精霊もどきに思考があるのか判然としない。あれはただの水だった。魂が宿ったというよりは、物質がそのまま無機質な意思に目覚めたようなものだ。
蛇が俺を水辺まで導いたのは、出産の時期に差し掛かった胎児が下腹部に降りてくるような自然発生の本能でしかない。「好きにしろ」という俺の言葉を聞き取って去ったのも、本能に従った、感情のない行動に思える。考える脳みそがないので、水以上の何かになることは出来ないのだろう。
あれは、たまたま形を得てしまった、水なのだ。
「きっと、本来あるべきところに戻ったんだろう。水は水らしい場所に。雌を見つけた訳でもあるまいし」
「それがラスカルなの?」
「ラスカルは多分もっといい話だよ」




