Ⅲ
それから丸一日経った。
幸い翔の容態が悪化することはなかった。あれから酷い高熱が出たが、一晩うなされた後は呼吸も穏やかになり、幾分顔色もましになった。一進一退しつつ、どちらかと言えば回復傾向にある。
豊隆はあの夜から姿を見せていない。雨を降らす神であれば世界中を飛び回る役割があるのかもしれない。神がどのくらいの頻度で寝床に戻るものなのか俺には見当がつかない。いずれにしろ神のみぞ知るといったところだろう。文字通りに。
稲妻の夜以来、俺の身体にも変化の兆しが顕れつつある。
それは突如芽生えたものではなく、ある時期に差し掛かって植物の成長が次の段階に移るようなものだった。決して後退することのない、緩やか且つ着実な前進。
どうやら豊隆との電撃的な邂逅が、長らく俺の体内で燻っていたものに小さく決定的な刺激を与えたらしい。思い当たる節はそれ以外にない。要するに神気に中てられたようなものなのだと漠然と推測する。
変化はまず、断続的な腹痛となって現れた。今までの胃腸の痛みとよく似ているが、波のような鈍痛が狭い間隔で繰り返された。胃の辺りが何か固いものに圧迫されるような張りがあり、吐き気もあった。
食欲はますます遠ざかっていった。俺に残されたのは食わねば死ぬという本能的な使命感だけで、時間の経過とともにそれすら削ぎ落とされていく。空腹感はとうに忘れ去られた。
翔の容態から目を離さないため終日標高の高い洞穴で過ごす俺は、結局水さえも口にしないまま四十八時間余りを無為に見送る。身体を横にして、時折やって来る腹の痛みに耐えながら日が昇って沈むのを眺めた。
眠れない夜、また熱の上がった翔の傍に付き添いながら俺は漠然と自分の身が自分のものでないような違和感に襲われる。それはまるで他人の夢を見ているような、或いは他人が俺の目を通して夢を見ているような、その双方が入り乱れた奇妙な錯覚だった。
入れ代わり立ち代わりやってくる感覚の波に激しさはない。揺りかごの中で穏やかな慣性に身を任せるようでもある。しかし目を瞑っても、心のどこかが浮足立って頭が冴えてしまう。
そうして再び朝を迎えた俺は、半月ほど前に雲上渓谷で水を飲んだことを翔に伝えるべきか迷った。
やはり、あの水が俺の身体を奇妙な何かに作り替えたように思えてならない。全て吐き出したつもりが胃の中に少量残り、それが時間の経過とともに消化器を圧迫している。
何らかの意思を以て。
目を覚ました翔は、気だるげな眼差しを当て所なく宙に向けていたが、飲まず食わず不眠不休のこちらの顔色の悪さには気付いたようだ。
「大丈夫か?」
手を伸ばされ、俺は曖昧に頷く。その場で打ち明けられなかったのは、背徳というよりも翔に余計な心配をかけさせたくなかったため、そしてこの件が非常に俺の個人的なものであるように思えたためだ。
何がどう個人的なのかと訊かれると窮するのだが、よもつへぐいによる体内の違和感も豊隆との間に生まれた繋がりも、目に見えない霊的な次元で起こった出来事であることは間違いない。
そしてそのことを言葉の限り他者に伝えようとしても、神が関わっている以上正確に言語化することは不可能なのだ。言葉にすればするほど、それは余計な枝葉に分かれて真実とは遠ざかっていく。
しかし勘のいい翔のこと、俺が抱える不発弾じみたものを見透かしたのかもしれない。或いは何か思うところがあったのだろうか。眼下の景色を一望しながら、しばらく豊隆の姿を見ていないことを話題にすれば「でも、きっと戻ってくるな」と独特な確信を帯びた声で呟いた。
「全くさ、恐ろしいことになったよ」
「何が?」
問い返す俺の声は如何にも間抜けだ。平静を装ってはいるが、気を抜けば喉からぽろりと何かが零れそうである。
「分からないのか? 豊隆が俺たちを助けたんだぞ」
「少なくとも、助けるような真似をした」
「それがどういう意味か分かるか?」
「有難いこと?」
「お前は本当に、全く……」翔は首を振って何かを言おうとしたが、やめた。
何だか懐かしい気持ちになる。昔俺が無知で森や精霊のことを何も分かっていなかったとき、翔は時折そういう表情をしたのだ。
翔は滅多に怒ることはなかったが、それでも俺がこの世界に非常識なあまり彼らの信仰を無自覚に踏み躙るようなときには、顔を顰めたり叱るようなことはあった。
乾いた掌を擦り合わせ、翔は何度か呼吸を繰り返す。そして、顔を上げた。
「皓輝。お前だって分かるだろ? 神は俺たちには到底手の届かない存在だ。全く別の次元で存在して、何を考えているか分からない。意思疎通だってできない。格が違いすぎるからだ」
俺は黙って聞いている。翔は続けた。
「そんな神が俺たちの命を救うような真似をしたということは、神は俺たちに何かを伝えようとしているんだ。──いや、分かりやすい言い方をすれば、何かの見返りを要求しているんだよ。恐らく──」
「とてつもないものを?」
「そう、とてつもないものを、だ」
俺は少し考えてみた。神の思考を推し量ろうとするのは不毛なことだと分かってはいたが、可能な限り想像してみた。豊隆が俺に何かを求めるのだとすれば、それは俺が支払えるようなものだろうか、と。
「命とか?」
でまかせで口にするが、違うということは自分でも分かる。そんなつまらないものを神が欲しがるはずがない。命を対価に支払うなど、豊隆の存在感を前にすれば生易しいことのように思える。
「豊隆が俺を呼んだんだ」
俺の言い分は、声に出すとより無責任に響く。「俺はそれに応えただけだ」
「応えたところが問題なんだけどな」と翔は言いたげだったが、言わなかった。恐らく、俺を不愉快にすると思ったのだろう。
それが分かったので、俺も「じゃああそこで焼け死ぬのを待てば良かったのか」と食って掛かるのはやめておいた。無駄な議論だ。
その代わり、俺はひとつ息を吐いて「豊隆が要求する見返りって何だろう」と言ってみた。思いの外、声は重く沈んでいた。
「分からない」
翔は力なく首を振る。「俺には豊隆の声は聞こえないし、きっと分かるとすればお前だけだよ、皓輝」
「……」
これはある種の契約のようなものなのだと、後に俺は実感することになる。豊隆は、目に見えない透明な縁を俺に結んだ。神に応えた時点で俺はその縁に縛られ、自由を失ったのだ。豊隆が求める見返りを支払い終えるまで、永遠に。
厳密にこの契約がいつまで続くのかは誰にも分からない。用が済めば縁は消えるのかもしれないし、或いは死後も子孫に引き継がれるような長期的なものかもしれない。こちらからどうこうすることは出来ないという意味で、契約というよりは呪いに近かった。
全ては後の祭りだ。今の俺たちは何もかもを受け入れるほかない。まあ生きているだけましだよ、と翔が口にした励ましらしきものに俺は幾分救われた気がした。
少なくとも慰められたという事実だけで、このどうしようもない現状を己の過失と思い詰めなくて済みそうだ。
俺たちは沈黙した。翔の容態の安定は安堵をもたらした一方、地面を這う水のように、いつか向かい合わねばならない現実がひしひし迫る心の隙間となる。俺たちは所在なく、会話もなく、しばらく巣穴の中で転がっていた。
互いに話したいことも聞きたいことも山ほどあったが、それを実行して起こり得るあらゆる反応をやり過ごすだけの気力の余がない。
そも、白狐さんを救うことが出来なかった俺たちが今になって反省会をしたところで何の意味があるのか? 俺も翔も口には出さず、そういった倦怠感と無力感に取り憑かれている。
俺と翔が揃って思考を放棄するというのも珍しいことだ。高山特有の酸素の薄さも、二人の寡黙さに拍車をかけていた。
ぐったりと、翔の手足から力が抜けているのはそもそも空腹のためだとしばらく気付かなかった。
神域という空間がそうさせるのか、翔の身体もまた飢えという感覚にある程度慣れてきてはいるらしかったが、それでも食べ物は必要である。
「ああ、腹減ったな……」
昼頃になって翔がようやく仰向けで息を吐いた。食欲が湧くのはいい兆候だ。身体が生きようとしている証である。
俺は身体を起こして、持ち物を漁った。自分の持っていたなけなしの食糧はほとんど底を尽きかけている。どこかで調達しなければならない。
「あれならあるよ」と翔。
「何?」
「たくあん」
冗談かと思ったが、翔の所有物の大半が萎びたたくあんだったので俺は久し振りに声を出して笑った。塩分濃度が高く保存もきくたくあんに、今は感謝しなければならない。
丈夫な皮袋に飯と腊腸という豚の腸詰、刻んだたくあん、水を入れ、最後に火で炙った石を投入する雑炊の作り方を教えてもらい、久しぶりに文明的な匂いが辺りに立ち込める。
今まで雑草を食べて空腹を凌いでいたと言えば翔から呆れられた。じゃあ先に食べろと差し出されるも、なかなか食が進まない。不用意に口を開けるとそこから何かが出てきそうな苦痛がある。湯気を嗅いだだけで皮袋を翔に手渡し、心配された。
「何か軽く口にしたほうがいいぞ。水は飲んだか?」
「いや……」俺は首を振る。
ふうん、と。翔は飢餓状態の者の振る舞いを心得ているように、がっつくことなく少しずつ汁を口にしていた。
確かに翔が訝るのも無理はない。俺の食生活を振り返ってみれば、とうに行き倒れていてもおかしくはなかった。何故自分が意識を保っていられるのか不思議だ、という場面も何度かあった。
人間は水さえあればしばらく生きられると聞くが、俺は既にそれすら断って久しい。あの双子たちに出会う前、異様な吐き気と腹痛で死にかけたとき以来水辺を避けるようになったので、四日以上ろくに水も飲んでいないことになる。
「……しかし、どちらにしてもここの水は飲めないな」
何の気なしに腹具合を隠し、俺は洞穴のどこかから湧いている清流を目で追う。よもつへぐいの二の舞をする訳にはいかない。すると翔は意外にも「大丈夫だよ」と奥歯を動かして答えた。
「俺、飲んだけど平気だったぞ」
「何でだよ」
「俺たちが、豊隆に招かれたからじゃないのか」翔は土で汚れた前髪を触りながら言う。
「そもそも傷を消毒したときに使った湯も元はと言えばそこの水だし、毛穴から摂取しても問題なかった」
「毛穴に浸透する水もよもつへぐいカウントなのか」
「あれから特に異常もないから、多分平気だよ」
それに、水がないと生きていけないだろ、と翔が当たり前のように言うので俺は返す言葉を持ち得ない。
豊隆に招かれた正式な“客”ゆえに異界の食物を口にしても許されるという理屈は分かるような分からないような、実際のところは半信半疑である。恐らく俺たちのような事例は他にないだろうから、比較する術もない。前代未聞という肩書に心躍るような無邪気さも当然ない。
結局は「翔がそう言うのだからきっとそうなのだろう」と曖昧に納得して、俺は残りの食糧をもう一度確認する。大量のたくあんのほか、香辛料をきかせた豚の腸詰、どこかからか採ったであろう行者大蒜やら何やらの山菜類、乾涸びた木の実が少し。干飯はもう残っていない。水はあと二口分といったところだろう。
俺は重たい腰を上げ、まずは新鮮な水を汲みに行くことにする。翔が雑炊を食べている様子を見て、どうにか生きていくため現実を向く気持ちになった。巣穴から景色を見下ろしたとき、水場は幾つか見受けられたので不自由はしないだろう。
「ここにも水はない訳じゃないから、無理して外に出なくてもいいんだぞ」
空の袋を手渡しながら翔は一応気遣うが、残り少ない飲み水が尽きるのは時間の問題であることは双方分かっていた。岩から染み出る水だけでは賄いきれないだろう。
それにしても、「たくさんある方がいい気がするから」と返した声が本当に自分のものだったのか自信がない。どこまで察したかはともかく、翔もまた俺の内部の異変を感じ取ったようだった。
あの岩の通路を抜け、ようやく地面に降り立ち、外の空気を浴びる。幾度か繰り返すうちに身体に染みついた工程は、身体がこの神域に馴染みつつある証なのだろうか。
否、それだけではなさそうだった。立ち止まって空気の匂いを嗅ぐうちに、体内が二重か三重に分裂しては再び重なり合うようなあの違和に襲われた。口一杯に朝露の匂いを吸えば、この空間と皮膚が奇妙な引力を伴って溶け合うことに気付く。
慎重に斜面を下り、俺はいつしか早足になった。急ぐ必要もないのに気持ちが急いでいる。理性は水辺を恐れて避けたがっているが、身体はむしろ水のある場所を求めている。宝石のように煌めく若緑の樹々を抜け、欲求はますます強くなっていく。
「──……」
藪を踏み分けた先に鏡の水辺が現れた。誰かが来るのを待っていたよう、緩やかな円を描く岸辺にはひっそりとした静謐が満ちている。
それは雰王山から見下ろした鏡水の湖のひとつだ。やはりその色彩は名状しがたい。鮮烈な蒼と碧と翠が木漏れ日に融解している。不純物は一切取り除かれ、寒気がするほどの透明度が水底まで続いている。
沿岸から柔らに茂る樹々は優雅に枝を垂らし、眼球をひた隠す初心なまつ毛のようでもある。そよ風にさえ漣を立てず、瞬きもせず、水面は確かに俺をじっと見つめていた。
乱れた呼吸を整え、水際で立ち止まる。足元の地面は柔らかく、土すらも生きているようだ。
あの腹痛がやって来る。今までにないほど猛然と痛み、足元がよろめく。全身の関節が軋むようだった。神経をのたうち回り、傍若無人に肉体の骨や筋を蝕んでいく。そのときが来たことを悟ったかのように。
僅かな躊躇があり、大きな期待があった。湖を前にすると、きりきりした痛みの塊が喉元にせり上がってくる。早くしろと何者かがせっついてくる。
踏みしめる土がぐらりと動く。やめろ──と全身の細胞が拒否していた。皮膚の下を何かが這いずり回るような高揚感。しかし取り憑かれたような動物的本能が、ぎりぎり保っていた理性を振り切った。
最後の力を振り絞り、湖に向かって飛び込む。そうしなければいけなかった。空中にいた一瞬は永遠のように感じられた。目の前に迫りくる水面の美しさに魅入られ、時間さえ狂ったかのように。
帰りたい。そのときになって俺はようやく自分の中にいる者の望みを聞く。──帰りたい。声なき声が体内で反響したのを最後に、派手な水飛沫もろとも青に溶けて消えた。




