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明後日の空模様 朝廷編  作者: こく
第九話 雰王山
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 岩の通路は存外短かった。目はほとんど役に立たず、壁伝いに前に進んでいると分かる。慎重に足を踏み出しながら、それでも間違いなく地上へ向かっているという確信があった。

 途中、枝分かれした横道やぽっかり口を空けた穴に幾つも出くわしたが、大抵は潜り抜けられそうもない窮屈さで、歩ける幅に限ればほぼ一本道と見ていいだろう。

 寄り掛かる壁があるのは幸いだ。足元が覚束なくなったときは立ち止まってそこで休むことが出来る。それにしても螺旋階段のように曲がりくねった通路は狭く、これを下った後は登らねばならないと思うとさすがに気が滅入った。

 足元を這う水の流れに導かれ、薄い空気に息が上がる。酸素が足りず、どんなに息を吸ってはいても肺の奥に溜まった苦しさが抜けない。岩壁の向こう、ぼんやり霞んだ光が見えたとき、俺は安堵の息を吐く。

 時間の感覚はとうに狂っていた。しかしある程度時間さえかければ外に出られるというのは大きな収穫だ。


 徐々に拡大される光の先を早足で抜ければ、新鮮な大気が意識の淀みをさあっと拭い去る。目が眩み、頭痛が収まるにつれ、そこがどういった地形なのか見えてきた。

 蟻の巣を下るような下山を終えた俺を待ち受けていたのは、百八十度どこを見回しても途切れることのない鬱蒼とした緑の原生林だ。振り返れば岩壁が視力の及ばない高さまでそびえ、そこが雰王山の足元であると分かる。正確に言えば出口は地上から十メートル余りの高さに位置していたが、斜面を下ることは不可能ではない。

 上から見下ろしたときに何となく把握していたつもりだったが、ここでは天文学的な迫力で満ちている。人間など何の力も持ち得ないのだと、大自然を前にしたとき特有の無力感に打ちのめされそうになる。何もかもが巨大で強烈で、鮮やかな森だ。

 恐らくこの広大な空間の中にはあらゆるバイオームが隣接し、さながらテーマパークのようにそれぞれの地区を形成しているのだろうが、ひとつひとつが途方もなく広すぎて一歩足を踏み入れれば全貌を把握するのは難しくなる。


 さしあたり苦労して急斜面を下ると、そこはむせ返るほどの濃密な山気と、煌めく翠光に満ちていた。どっしりと根を下ろした神話的な樹木の幹は直径四、五メートルほど。そんな巨木が奇妙にうねりながら密生している様は、太古の地球を思わせる。豊かな自然の天蓋がつくり出す木漏れ日が、地面を這い茂るシダ植物に光を散らしていた。

 気を抜けばその辺りからひょっこりと恐竜が頭を出してもおかしくはない。そう思えるほどの原始的な植生だ。この宇宙が始まって以来、人間が一切手を加えなかったことの表われだろう。

 碧みがかった霧の中、俺は手で拾える木材を探す。斧も何もないので倒木を切り崩すのは難しく、人間が素手でやれることは限られていた。

 飲み水になる水場を探さねばと分かってはいたが、水辺に近付くとまたあの異様な腹痛と吐き気に襲われるのではという恐怖で脚が向かない。他に湿った腐葉土から何種類かの茸が生えているのを見かけたが、どれも食べられそうになかった。


 結局俺が手に入れたのは両手に余るほどの天然の薪材だけである。だいたい大きすぎるので、焚き木にするにはこれを折ったり切ったりしなければならない。

 力仕事の連続にげんなりとする。あの通路を登って豊隆の巣穴に戻ることを思えば殊更に憂鬱だった。

 せめてもの幸いだったのは、一本道ゆえ迷う心配がほぼないことだろう。下りよりも登りの方が倍ほども時間がかかった。いっそ翔を引き摺って下ろし、地上で野宿したほうが楽だったと舌打ちしたくなる道のりだった。

 しかしその一方で、どうしてもあの巣穴に戻らねばならない使命感にも逸っていた。合理的に楽をしたい自分と、何やら神秘に取り憑かれて混乱している自分がいて、まとまりがつかない。

 よく分からないがそうしなければならない、という感覚に始終乗っ取られ、俺が楽よりも面倒を選ぶのは珍しいことだった。


 ともあれ四苦八苦して巣穴に戻れば、そろそろ日が傾こうという時刻に差し掛かっていた。翔が特に変わりなく眠っていることを一通り確かめ、その傍らに火を熾す。

 乱雑に折った薪材はしばらく煙るばかりで渋っていが、やがて疲労困憊の俺の努力を認めたかのように音を立てて燃え始めた。

 外の風に吹かれ、炎がじたばた暴れる。それでも消えることはない。暖かな空気が肌を撫でる。ふっと安堵したあたりで俺の気力は切れた。役割を負えたことを悟り、緊張の糸がぷつりと音を立てたかのように。


 砂っぽいざらついた岩盤に身体を横たえ、その後の記憶がない。寝たというより気絶したと言う方が近かった。


 次に目を覚ましたとき、自分が長いこと眠っていたのだと受け入れるのに時間がかかる。背中の筋肉が強張り、身体の奥に芯のような気怠さ残っていた。鼻の粘膜の水分がほとんど奪われていることに不快感を覚える。

 視界の向こうで、自分が苦労して熾したよりもずっと大きくなった焚火が忙しく踊っていた。ぱちぱちと薪がひび割れ、炎が勢いよく爆ぜる。


「翔」


 その火を守るよう、片膝を立てて座っている相棒。じっと暗闇を睨む横顔には疲労とも憔悴ともつかない陰影が落ち、幾分歳を取ったように見受けられた。

 その何も身につけていない半身を明かりが舐める。時折歯を食い縛り、薄っすらと汗ばみ、自慰をしているようでもある。

 俺は乾燥した目を擦って、目頭についた泥を払った。翔がこちらを見た。


「随分よく眠っていたな」水底から浮かび上がる泡のような吐息だ。


「ああ……」


 起き上がってみて初めて、辺りが真っ暗になっていることに気づく。乱雑にまとめていた薪は丁寧に揃い、大きさも丁度よく整えられていた。翔が自分でやったのだろうか。


「皓輝、ちょっと手伝ってくれるか」


 上半身を晒した翔は息を殺し、感情をどこかに押しやったような声で言った。

 下腹がどろりとした血液で汚れ、そこから粘着性のある鉄臭さが吐き出されている。赤黒く染まった指先には白い針のようなものが握られ、翔が何をしていたのかは明白だった。


「自分で、傷を縫っていたのか」上手く喋れている自信がない。


「死ぬほど痛い」


「だろうな」


 何の麻酔もなしに傷口を縫い合わせる痛みは想像を絶する。翔の口許から涎とも泡ともつかない液体が流れ、噛み締める歯が小刻みに震えているのが苦痛の大きさを物語っていた。

 手伝ってくれ、と言われるまま俺は縫い針を渡される。動物の骨を削って作った針だ。暗闇の中、その白さだけがやけに目についた。


「縫合なんて、やったことないぞ」


「いい。ひと思いにやってくれれば」


 俺の気弱な声が翔の苦しげな喘鳴に掻き消され、やるしかないのだと悟る。糸は植物の繊維らしい。千切れないよう注意しなければならない。

 横向きに開いた傷口は幾分乾いて赤褐色になった痕跡がある。止血が多少効いたのだろう。しかし縫うために解いたので新しい血に塗れ、傷口の位置が把握しにくい。


「湯を沸かして」俺はひび割れた唇を舐める。「消毒をする」


 翔は辛抱強く耐えた。針や糸が皮膚を貫通する激痛に呻き声を殺し、たどたどしく傷口を縫合されながら泣き言ひとつ零さなかった。

 代わりに険しく顔を歪め、時折びくりと身体を強張らせ、握った拳が白く変色しているのが痛々しい。よくその拳で俺を殴りつけなかったと感心するほどだった。

 拙い針先が傷口の端まで到達する頃には、翔は息も絶え絶えで無言のまま嗚咽を漏らしていた。思わず頭に手を伸ばせば、翔は力なくこちらの肩に預けてくる。その重さと震えを受け止め、手を重ねた。乾いた翔の手は今やだらりと垂れ、血色を失っていた。


「大丈夫か?」


 問いかけに意味はなかったが、そう問わずにはいられなかった。翔が首を縦に動かしたのも、意味がないことは分かった。

 糸の端を処理し、しばらくの間、俺たちの間には沈黙が降りた。暗闇に揺れる炎だけが生き物のように動いていた。

 翔の息は荒く、泣いているようでもある。肩に寄り掛かる頭に力はない。俺はその体勢のまま、翔の呼吸が鎮まるのを待った。


「ごめん」


 唐突に翔が謝罪をする。押し潰されそうな声だ。俺は首を動かした。翔は薄っすらと目を開けているが、焦点があっていない。

 その謝罪は手元に散らばった事柄ではなく、もっと全体的な範囲に向けられているように思えた。


「もう少し、俺が上手くやっていれば、間に合ったかもしれないのに」


「……」口を挟もうとして、やめる。何の話だ、と掘り下げるには、あまりに翔が錯乱しすぎている。


「白狐さんが誰なのか、俺はずっと知っていたんだ」


「……うん」


「知っていたけど、知らない振りをしていた。それで、あの長遐での日々がずっと続けばいいと思っていた」


 掠れた声が懺悔を紡ぐ。もしかすると俺があの夜にどさくさ紛れに責めたことを気にしているのかもしれない。


「いい」俺は翔の指を握る。


 翔は見かけによらず鋭い直感を持つが、その鋭さを見せびらかしたことなど一度もなかった。翔が隠し事をするのは本人なりの考えや優しさがあってのこと。翔にとってあの家と白狐さんの存在は俺が想像する以上に心の拠り所だったのだろう。


「俺はもう先は長くないし、このくらいの現実逃避は許されると思ったんだ。せめて死ぬ間際くらいはさ、まやかしの夢を望んでも罰はあたらないだろ?」


 何度か繰り返された呼吸には俺の返答を期待しているような節がある。湿った吐息が無為に闇に染み込んでいった。


「皓輝……」


「少し、眠ったほうがいいよ」


 俺の一言が引き金になったよう、翔の首からがくりと力が抜ける。うん、と頷いたようにも思えた。可哀想になるほど、か細い声だった。俺は自分の腰をどかし、翔を楽な体勢にして横たえさせる。


「……」


 上着を肩まで掛けてやると、翔の身体はいつもより頼りなさげに見えた。相棒が眠りについたのを確かめ、ぬるい湯で手を洗い、俺はまた一人で空を見上げる。

 巣穴の中から仰ぐ空は必要以上に暗い。これほどの大自然の中、星のひとつも見えないのは奇妙なことで、更に言えば、不気味ですらあった。

 ──間に合ったかもしれないのに。

 ふと翔の嘆きが耳に蘇る。あのとき、七星(チーシィン)の首から俺を助け出した翔は、早く白狐さんのもとまで急がなければと焦っていた。彼の命が危ないと切羽詰まっていた。


 間に合わなかったのだ。俺はその事実だけを手渡され、受け入れるほかなかった。白狐さんがどうなっているのか全く分からない。最悪の事態も想定できた。


 しかし何度も言うが、俺たちに出来ることはなかった。今になって豊隆に乗ってあの場を去ったことが正しい判断だったのか、考えることも無意味だった。

 受け入れるだけか、と声に出して呟く。

 今なら自分の無鉄砲ぶりを客観視することが出来る。俺はきっと司旦を殺すことなど出来なかった。ただ、居ても立っても居られず、どうにかしたかった──それだけだったのだ。

 白狐さん一行に追いついて、何か解決の糸口を探そうと漠然と考えていた。具体的な策を練る余裕もなく、自分が追い込まれていることに気づかないほどに。

 彼を助けなければという焦燥、司旦を殺せという千伽の脅迫、一日先のことすら予測出来ない不安、このまま野垂れ死ぬではないかという恐怖。そういったものが重なり合って、俺の判断力を鈍らせ、あわや取り返しのつかない事態になるような場面を運で切り抜けてきた。いや、既に取り返しのつかない事態にはなっている。


 西大陸の連中が絡んでいることは間違いない。千伽は俺の顔を利用して、コウキに冤罪を着せようとしている。コウキはあの三光鳥と繋がり、三光鳥は綺羅と名乗り、影家の当主という肩書で朝廷に出入りしている。綺羅の正体は分からない。しかし、白狐さんを処刑しようとしている。千伽は、恐らく白狐さんを助け出そうとしている。

 結局、俺は彼らの掌の上を転がされただけだったのだ。綺羅と千伽、二人の間で奪われ、最終的に千伽の手駒にされた。俺に殺されるだけの役回りだった七星(チーシィン)のほうがずっと酷かったかもしれない。

 全ては白狐さんを中心に輪が広がっている。皆が彼をどうこうしようと必死になっている。その輪の理不尽さに翔が打ちのめされるのも無理のない話だ。

 翔にとって、そして俺にとって、白狐さんはどこまでいってもただの世捨て人でしかない。料理上手でお人好しで、いつも出掛けるときは入り口で見送ってくれる、あの人だ。


 知らず俯く俺の横顔に、突如、刃物じみた白い雷光が浴びせられた。怪物がビル群を倒壊させたような轟きが周囲を震撼させる。

 はっと首を伸ばし、それでも足りずに腰を上げる。

 巣穴の向こう、夜空は急激に膨れ上がる雲に覆われつつある。僅かな月明かりで、空全体が白濁したように映る。低いところにも集まった積乱雲が、神々しいほどの立体感で迫ってくる。


「──」


 俺はその場で立ち尽くした。

 暗雲を切り裂き、流星の如き横切っていく白銀の一閃。長い尾を引き、鱗粉のような煌めきを撒き散らして。

 夜空を飛ぶ、豊隆──。

 甲高い鳴き声が天を貫いた。脳髄にまで直接届く、電撃じみた超音波が。

 豊隆はほとんど翼を動かさず、雷鳴をものともせず雨を浴びて滑空する。猛禽の頭部は微動だにしない。

 豊隆が横目でこちらを捉えた。視認出来るはずもないのに、俺はその視線に貫かれる。はっきりと“見られている”感触があった。


 幾拍ばかり、鼓動も止まる。

 その瞬間、俺は確信した。豊隆は間違いなく何か意図があって俺をこちらに連れてきたのだ。偶然や気まぐれなどではない。

 千伽の陰謀、未だ俺には見えぬコウキや綺羅の目的。全てを知った上で、わざわざ俺を運んだ。

 雷雲を引き連れて飛び去る、豊隆の後ろ姿。霧雨を含んだ風を顔に浴び、俺は濁った色の夜空をじっと睨みつけていた。


 まだ終わらない。豊隆は俺にそう告げたようだった。この騒ぎは、まだ終わらない。


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