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明後日の空模様 朝廷編  作者: こく
第九話 雰王山
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 俺たちを背に乗せた神鳥は、雲の上を泳ぐように飛翔していた。羽ばたきの度に力強い空気抵抗がこちらの身体を上下させ、一瞬ふわりと浮遊感がある。


 時折切れ間から覗く眼下の景色は、目まぐるしく移り変わっていく。急峻な断崖が連なる岩場を抜け、鋸歯状の山並みを背景に青く霞む平野がどこまでも広がり、名も知らぬ湖が紫色の夜明けに染まっているのを見た。

 雲まで昇れば空は薄金色に光り、豊隆の背から眺める世界はまるで天地創造のその日のようだ。朝陽が昇るにつれ地上は陰影を増し、色合いも変える。霧がかった雄大な大地。ゆったり蛇行して流れる河は太古の生物を思わせる。

 あれは民河だろうか。では、俺たちは今どこを飛んでいるのだろう──。

 などと考える余裕はなかった。およそ地上から二千メートルもの高さを飛行しながら、景色をのんびり眺めることの出来る人間などこの世にはいない。気温は氷点下。強烈な風が絶え間なく吹き付ける。生身の人間が飛行物体にへばり付きながら耐えうる環境ではないのだ。

 豊隆を呼んだときのような、あの突き上げるような高揚感はすぐに冷める。振り落とされるのでは、という理性も徐々に戻りつつあった。

 残念ながら、巨大な鳥は人間が乗るにはあまり適していない乗り物である、ということはよく分かった。


 隣にいる相方は既に声を出さなくなって久しく、うつ伏せになっているので生きているかも怪しい。ただ真っ赤に悴んだ指先が白銀の羽毛を掴んで離さず、本能的にしがみ付いているのだということが分かる。

 どこでもいい、早くどこか地面に降りてくれ──切れ切れになりつつある意識を繋ぎ止め、俺は焦る。このままでは翔が死んでしまう。

 どれくらい飛んだか。こちらの焦りを読みとった訳でもないだろうが、一際大きく翼をはためかせた豊隆は、膨張する雲の中に飛び込む。

 何も見えない白に覆われ、まるで霧に包まれたかのような無音が数秒ほど。突如として明るい光を浴びせられた俺は、その硬質を帯びた眩しさに、う、と伏せる。


「──……」


 重力を失う身体。旋回しながら滑空しているらしいということが分かる。

 恐る恐る顔を上げれば、目の前に峨々たる銀嶺が聳え立っている。

 飾り気がない。しかし、美しいというのでは足りない何かがある。長い年月の雨風か、太古の海蝕か、形はどっしりというよりひょろりと削られた印象もあったが、同時に余計なものを削ぎ落とし、地に根付いた一本の杭を思わせる。

 頂は渺茫たる雲の海を貫き、白い万年雪に彩られ、鋭利な輪郭は朝の一筋の光を浴びて金糸に縫いとられていた。氷でできているかのようなその輝きを形容するのは難しい。無色透明で空に透けながら、ひとたび照らされれば無数の光の乱舞となり、他にはない存在感を際立たせる。


 豊隆は螺旋を描きながら、見る間に高度を下げていった。気圧の変化が鼓膜を圧す。

 どこに降りるつもりなのかは明白だった。この世のどこを探しても、神鳥が降り立つのにこれ以上相応しい峰はない。

 異質なのは標高や美しさだけではないだろう。あたかも天地を繋ぐ一本の柱となってそびえるこの急峻な霊峰は、神の一部と言っても差し支えのない威圧を放っている。

 やがて、がくん、と大きな衝撃があった。豊隆が翼を広げて趾を延ばした先は、山の中腹よりもずっと低い位置だ。とはいえ、地面からはそれなりの高さがある。

 山肌に激突するかのように思われたが、意外にも吸い込まれるように着地する。突如として真っ暗になり、視界が効かなくなる。

 一体ここはどこなのかと言うより、地面に辿り着いた安堵で力が抜けた。

 巨大な翼が折り畳まれる拍子に、しがみ付く俺たちも自ずと左右に揺さぶられた。ずるり、先にずり落ちたのは翔の方で、それを止める力もないまま俺たちは神鳥の背から岩盤へと落下する。重力に逆らう術を持たない、傘の表面から滑り落ちる雨粒のように。


「……うっ……」


 重なり合って身体を打ち付ける。くぐもった呻きはどちらのものか。幸い高さはなかったものの、背の痛みが内臓にまで伝わって息が出来ない。

 それでも俺は無理に上体を起こす。浮遊感がぐるぐる頭を廻り、地面が揺れているように錯覚した。乗り物酔いに似た不快感。その場で吐こうとしたが上手くいかない。


「……皓輝、ここは……?」


 仰向けに倒れている翔が口を動かす。目は閉じられたまま、ほとんど動かない。

 そうして初めて、俺は自分たちのいる洞穴の内部を見回した。まず目に映るのは、岩盤が剥き出しになった壁面。黒々と濡れ、湿っている。頭上の天井はやたら高く、光が届いていない。霞がかった薄暗がりの向こうから、目眩がするほど明るい光が降り注いでいる。

 自然に出来たものなのか、背後に続く奥行きはかなり深い。水鳥がつくった巣のように居心地よく整えられた形跡がある。どこからか湧いている水が一筋の流れとなって、奥底へと向かっている。

 俺はよろよろと立ち上がって、白光に誘われる。洞穴の入り口にいたはずの豊隆はいつしか姿を消していた。どこかへ飛び立ったのかもしれない。もしくは俺と翔が揃って幻覚を視ていたのかもしれない。


 あらゆる思考は、眼下の景色を見た途端に消し飛んだ。

 見渡す限りの碧色の陰影。波のように広がる神秘的な樹々。植物の緑は光の加減で絶妙に色合いを変え、時折赤や黄色が混じっているのが目を惹く。

 葉が垂れる下には漣ひとつない水辺がある。ひとつふたつではない。無数の湖や泉が各々の弧を描き、南国を思わせる光を反射させている。

 その色彩は名状しがたい。碧と翠の美しいところを混ぜ合わせたような鮮やかさ。河底に沈んでいる巨木は、白骨化した恐竜を思わせた。


「──」


 目を奪われる白峰の彼方、天の焔が燃えている。赤、桃色、紫に朝雲が焼け焦げる。東の空に大輪の薔薇が咲いたような──こんなにも壮大な朝焼けを目にすることが出来る人間がこの世にどれだけいるだろう。

 声を失っている俺の背後から「皓輝」と呼ぶ翔の声がする。

 振り返れば、やや眠そうな眼と目が合って、仰向けに倒れたままとはいえ首を動かす気力はあったらしいと密かに安堵する。

 浅い息を吐く頬を、斜めに照らし上げる朝光。空を彩る五色の光が、碧い秘境の水面に降り注ぐ。反射の光線が、ときに銀箔を延べた細工のように輝く。

 鏡だ──と記憶が蘇った。春の女神が綺麗な鏡を落として割ってしまった。その破片が数え切れない煌めきを散らし、幾つもの湖になった。そんな神話を耳にしたことがある。


「翔」どうにか喉を使い、言葉を吐く。「──ここは、雰王山だ」




 ***




 ともあれ、翔の腹部の傷を塞がなければならなかった。

 今や溺死体のように地面で潰れている翔をどうにか引っ張り、手元にあるもので止血の処置を施す。

 布切れを傷口に押し付けていると、いつしか翔は気絶したらしい。うんともすんとも言わなくなった身体に包帯代わりの布を巻き付け、ぐっと引き絞り、血管を圧迫する。

 力を込めれば壊れた冷蔵庫のように呻くので、痛覚は残っているのだろう。この程度の処置だけで間に合うとは思えない。どう見ても出血しすぎている。しかしその一方で、本格的に手当てをするには翔の体力の回復を待たねばならないとも思った。

 一通り自分に出来ることだけ終えると、俺はぼんやりと洞穴の口を見上げた。自分の輪郭が光に溶けているのを感じる。どうして自分はここに居るのだろうと他人事のように考えた。

 外の風景には有無を言わせぬ強烈な何かがあった。圧倒された、と言うべきか、つまり、ここは人間の住む場所ではないのだという感覚が全身に降り注いでいた。


「……」


 雰王山はこの大陸で最も重要な信仰の聖地だ。地図上では冴省と朧省の境にあり、東大陸で最も高い山だが、神域ゆえ平面図には正確に書き表せない。

 俺が雰王山について知っていることは、かつて第二王朝時代を築いた二人の天子が生まれた地であるということ、そして今は豊隆が守る宇宙の央であるということだけだ。

 何度か深呼吸をして、土っぽい湿り気を帯びた空気を肺に取り入れる。再び入り口に目を向けるが、やはり豊隆の姿はそこにはない。

 夢でも見ていたのか、と瞼を擦ると同時に、豊隆はそれほど遠くないところにいるのだと俺は不思議と知っていた。目を瞑れば豊隆が今どの辺りを飛んでいるのかはっきりと浮かんでくるのだった。

 そして豊隆もまた、巣穴で放心している俺のことを心の中で見ている。監視というほどの拘束力もなく、ただあの巨大な鳥の心の片隅に自分が置かれているという漠然とした確信があった。

 この奇妙な繋がりが生まれたのは一体どのタイミングだっただろう。俺が豊隆の存在を生々しく実感したのは、崖際に追い詰められ、無力感に空を仰いだその瞬間だった。


 しかし今にして思えば、豊隆はずっと前から俺のことを見ていたのかもしれないとも思う。

 あの始まりの日、翔と軒下で見守った通り雨。燃える屋根を白ませた霧雨。山塑都で俺を足止めした連日の雨。灰毛の老馬と仰いだ曇り空。水霊に助けられた沼地の小雨──。

 豊隆は初めからそこに居たのだ。「何故」も「だから」もない。ただ居た。その事実を前にすれば朝廷のいざこざも千伽のことも些末なことに思えた。


 しかし現実問題、いつまでもぼんやりとしている訳にもいかない。豊隆が俺を雰王山に連れてきた──という表現が正しいのか自信はないが──ことに如何なる意図があったにしろ、なかったにしろ、だ。

 遠くにいるはずの白狐さんや七星(チーシィン)の動向も気になった。正直彼らのことはもう手に負えないと諦めが募る一方、どうにでもなれ、と自棄になりきれなかったのは、目の前の翔の容態が心配だったからだ。今俺が全てを抛り出す訳にはいかない。

 翔の顔を覗き込み、首筋に指を当てる。脈はある。しかしあまりに体温が下がりすぎている──。

 息を吐いて、よろよろ立ち上がる。膝が震え、絡繰り人形の心許ない関節を思わせた。

 自分の体がこんなにも思い通りに動かないことなど今までなかった。どうして意識があるのか自分でも分からない。


 ただ疲労感がもたらす麻痺状態に浸りながら、俺は豊隆の巣穴を具に観察する。

 俺たちがいるのは下界を一望する神の背骨だ。誂えたような入り口は展望台よろしく一面を見下ろすことが出来、飛び降りるのはかなり無謀に思われた。高度で言えば三百メートルほどの低い位置だが、それでも最上階スイートルーム並といったところだろう。豊隆の巣穴がもっと高い標高にあったならと思うとぞっとする。

 他方、巣穴の奥行きに目を向ける。こちらは黒々と湿った岩に四方を囲まれ、しかし近付いてみれば足元から微かに風の鳴く声が聞こえる。注意深く進んでみると、視認するのが難しいほど真っ暗な闇の向こうに人間がやっと一人通れるような狭い穴口があった。


「……」


 目を瞑り、耳を澄ませる。穴の先は僅かに傾斜になっており、天井からぽつぽつと垂れる水滴が闇の下へと消えている。目を凝らせばどうにかそれと分かる岩の通路は、差し当たり唯一この山上の牢獄からの抜け道と考えて良さそうだった。

 俺は一度振り返り、眠っている翔を目で確認する。それから前を向き、緩やかな闇の斜面へと足を踏み出した。仄昏い朝の陽光が、泥に塗れた俺の背を追いきれず、やがてため息のように陰影となって溶けた。




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