Ⅴ
時間は遡り、夕暮れの雁江上流域。
司旦は慎重に、しかし駆け足で急いでいた。左右の目は用心深く動き、周囲に人の気配がないか探っている。
昼時に首を見送ってからもう充分時間が経っていた。少なくとも、徒歩で戻ってくるには遅すぎる頃合いである。
──“あれ”が効くにはもう少しかかるだろうけど。
微かに目を細め、足音を消す。
唯一警戒すべきは共に残った二ノ星であったが、これもさして心配ない。異民族の血を引く二ノ星のことを司旦は気に入っていたし、彼は何かと意欲に欠け、首のように司旦を苛立たせる言動もなかった。
二ノ星に“あれ”を与えなかったのはそうした理由からである。
彼は今頃、周辺の見回りをしていることだろう。司旦に言われたことを訝るでもなく、警戒と呼ぶには必要以上に離れた場所まで歩いているはずだ。彼は司旦の生い立ちも、そこに課せられた重い足枷のような使命感も知らない。
そうして司旦は、この数日間で初めて影家の狐と二人きりになる機会を得たのだった。
地形を削る流れは悠々として、岩棚の間を滑っている。きらきらした水面は薄い桃色の夕陽に染まり、悪くない眺めだった。雲はなく、よく晴れている。
木々の隙間から、煌めく天幕が見えた。影家の狐は、あの中にいるだろう。彼は日向で動けない。じっと身動きせず、目を瞑って。ひどく無防備なまま、夜が来るのを待つほかない。
慎重に、しかし急がなければ。許された時間は今しかない。
司旦は僅かに緊張している自分に気が付いた。手に汗をかいている。そういえば、白狐と初めて見えたときもそうだった。昔のことを思い出す。
そうして背後から天幕に手を伸ばした瞬間、司旦ははっと息を飲んだ。
「──え」
風が舞い込み、ばさりと垂れ幕が捲れ上がる。──いない。蛻の殻だ。影家の狐はどこへ行った?
反射的に振り返った。長年の勘が危険を告げる。しかし遅い。
鈍く殴られるような衝撃。次いで呼吸も止まるほどの痛みが身体を貫通する。
咄嗟に身を捩ろうとするが、それを許さない何かがあった。司旦は呻く。手に固いものが当たり、それが刃物であることが分かる。正面から背中まで、串のように貫かれていた。
心臓の下あたりに深々と食い込む剣の根元。その先には柄を握っている誰かの手がある。司旦は歯を食い縛り、信じられないような気持ちでその男を見上げた。
──知った顔だった。いや、より正確に言えば、知った顔に限りなく近い男だった。目鼻立ちだけ見れば、そのまま間違えてしまいそうだ。ぴんと伸ばされた背筋は如何にも生真面目そうだが、緊張はしていない。
「蜥蜴く……」いや、違う。司旦は苦しげに息を漏らす。男の目は奥深く光るばかりで、皓輝の爬虫類のような眼差しとは明らかに異なっていた。
──本物だ。
司旦は愕然とした。“本物の救世主”だ。長遐の世捨て人ではなく、西大陸の執政官の──。
思考は続かない。救世主は勢いよく手首を使い、司旦の身体から刃を引き抜く。体内から異物が消え去り、穴から勢いよく中身が出ていく。息が出来ない。
どす黒い液体が地面に染み込んでいく。うつ伏せに倒れた司旦は思わず悲鳴を上げそうになった。救世主が何かを脇に抱えていることに気づいたからだ。白く垂れさがる滝のようなもの。風に捲れ上がり、影家の狐その人が目を瞑っている顔が露わになる。
気絶しているらしい。彼の象徴である白い頭髪は、乱雑に切られたような跡があった。毛先はバラバラと解け、風に弄ばれている。ところどころ擦れた傷があり、彼らとの間に一悶着があったのだということが窺えた。
一体いつの間に──司旦が二ノ星とともに天幕の傍を離れたのはほんの短い時間に過ぎない。周囲の警戒に怠りはなかった。どんな凄腕の暗殺者でも一帯に近付き、侵入するのは不可能だ。
人間が気配を消すことにも限界がある。司旦はそれをよく知っていた。ゆえに、この救世主がそれ以外の方法でここまで来たのだと推測できた。
救世主はじっと黙って見下ろしている。司旦が急速に血を失い、死へ向かっていくのを眺めている。どうして、と司旦は唇を震わす。どうして、本物がこんなところにいるんだ、と。
「悪くない計画だった」
救世主の声は落ち着いていた。こちらを見下すでもなく、嘲笑するでもなく、どこか感心している素振りすらあった。
「俺の偽者に目を付けるとは、お前の飼い主はなかなか賢い。危うくこちらも手遅れになるところだった」
「……」千伽様は俺の飼い主じゃない、と言いたかった。しかし声が出ない。
「だが、残念だったな。それと同じだけの頭脳を持った者がいた。一枚上手、ということだ。将棋は奥の手を隠し持った者が勝つ」
不穏な台詞だった。救世主は司旦を貫いた剣を持ち上げ、膜のように薄く残る血痕を眺めている。そして、何でもないことのように口にした。
「皇帝はお前たちの言い分を決して信じない。何故なら、七星はこれより国賊となったからだ」
「な──何だと?」
「千伽との密約、買収……“偽者を使い、俺と三光鳥を逆賊に仕立てる”これが明るみに出れば事態は逆転する。七星は皇帝を裏切った国賊だ。──もっとも、そうなる可能性もあの千伽は考慮していただろうが」
確かに千伽はあらゆる事態を想定していた。しかし問題はなかったのだ。何かに気付いたところで救世主がこんな場所まで来ることは物理的に不可能だった。
もし救世主が朝廷にいたことが証言されれば、もう一人の皓輝による冤罪を着せられなくなってしまう。故に慎重に機を窺って、救世主が確かに西大陸へ向かう船に乗ったことを確かめた上で謀を進めていたのだ。
イダニ連合国からここまで戻ってくるのに一か月はかかる。救世主がここに来ることはまず不可能だった。
もうひとつ問題がある。一体どうしてこの計画が彼らに勘付かれたのか、ということだ。
三ノ星が情報を漏らしたのか? いや、それは考えられない。
あの小心者は生き延びるため千伽に易々と魂を売ったが、それでも敵国に寝返るほど落ちぶれていた訳ではない。半端な忠誠心で国家に属し、そんな大仰なことをする度胸もない、当たり障りのない凡人だ。
「他に内通者がいる……? お前らの国に、情報を売り渡すような──?」
男の目は無言で肯定を示していた。司旦は寒気がする。失血のためか、救世主の冷ややかな眼差しのためか分からない。
自分たちの知らないところで何かが起こっている。積み上げたものが呆気なく瓦解していく。それが恐ろしい。
司旦はどうにかして立ち上がろうとした。胸の下を片手で押さえるが、既に取り返しがつかないほど血が流れ去っていた。身体が動かない。救世主はまだ動こうとする司旦に感嘆したようだった。
屈辱だった。彼らが影家の狐をどうしたいのか分からない。ただ司旦にはやらなければならないことがあった。その機会をこんなにも簡単に奪われたという事実が悔しく、腹立たしい。
「くそ……っ」司旦は虫の息で毒づく。口から飛んだ唾に粘ついた血が混ざった。「お前ら、一体何をする気なんだよ……」
影家を乗っ取り、皇帝に取り入り、白狐を攫い──イダニ連合国は着々と何かを進めている。その目的が見えない。
しかし、実のところ司旦にとってそんなことは大した問題ではなかった。相手もそう思ったのだろう。固い岩盤を思わせる声で、救世主は言い放つ。
「これから死んでいく者には関係のない話だ」
「そうか……よ!」
司旦は素早い身のこなしで地面を蹴った。想定外の勢いに救世主が怯む。一歩、下がるのが遅れた。
「お命頂戴」
隠し持った毒針が救世主の脇に刺さる。的確に狙った動脈に毒液を流し込む。幼い頃から何度もそうやって人間を葬ってきたときのように。
しかし、司旦の身体は糸の切れた人形のようによろめいた。救世主の剣が真横に切り裂く。膝から地面に崩れた後、司旦はもう動かなかった。
傷口から飛び散った臓物が、地面に斜線を引く。司旦の目を惹く鮮やかな着物が、結末とは裏腹に明るかった。
救世主は眩しそうに目を細める。司旦の執念深さは尊敬に値した。あれだけの深手を負いながら戦意を失わない。反撃を恐れず一矢報いる。並大抵の精神力ではなかった。
「……くっ」
やがて体内を廻り始めた毒に顔を顰める。血管が破裂するような痛みが走った。
捨て身で打ち込まれた毒針は脇腹の途中で折れていた。注意深く取り除き、その場に投げ捨てる。ぐらり、平衡感覚が狂った。かなり強烈な毒らしいということは分かった。
危ないところだ──常人であれば死んでいた。救世主は油断した己に舌打ちをする。不老不死の肉体を持つとはいえ、殺されれば死ぬ。毒も度が過ぎれば死は避けられない。早急に手当てしなければ。
まあいいだろう、とさしあたり顎を引いておく。既に七星は国家からの信頼を失った。そうなるように仕向けたからだ。ここでの司旦の死は救世主の手柄になる。
救世主は意識を失っている影家の狐を抱え直した。正直あまり気が進まなかったが、救世主の同僚はこの白髪の男に執着している節がある。連れて来いと言うならそれに従っておこう。
踵を返した。移動にニィを使うだけの体力は残っていた。
目を瞑れば一瞬で別の地点へと転移が出来る。物理法則を無視したこの力は、自分のほかに少なくとももう一人ニィを持つものが必要になってくる。出発点と到達点にそれぞれ一人ずつニィを持った人間が要る。そういう決まりになっていた。
救世主は徐々に荒くなる息を深呼吸で鎮め、目を瞑る。自分の行き先にいる男──すなわち、三光鳥に化ける力を持った同僚のことを考えた。そう、行き先は朝廷。この国を支える政の中枢へ。
脳裏が何か目に見えないものを捉える。途端に、救世主と影家の狐はその場から姿を消していた。風がそよぐほどの揺らぎもない。
ニィがこじ開けた電磁の熱線が、司旦の倒れる岩の地面に奇妙な模様を残しただけだった。




