Ⅱ
日没して、青く仄暗い山道に二人分の影が並ぶ。俺と翔は長遐の山岳への帰路を辿っていた。
七星と遭遇したことを除けば、買い出しは上手くいった。頼まれた物はほとんど買えたし、魚市場で水揚げされたばかりの旨そうな魚が手に入った。書簡のことさえなければ、今宵のご馳走に心を弾ませたことだろう。
翔は言葉少なに、俺の後ろをとぼとぼ歩いた。普段の快活さは鳴りを潜め、固く口を結んでいる。俺は背筋に嫌なものが走るのを、どうにかやり過ごす。
翔が深刻そうにしていると、決まって悪いことが起こるのだ。今の俺にできるのは、相方の勘が外れるのを願うことだけだ。
「なあ」
翔の口が重苦しい息を吐き出す。その吐息だけで世界が沈没するのではないかと思うほど重々しい声だった。俺は、何だ、と息継ぎの間に短く問いかける。しばらく、枯草を踏む二人の足音とやや強張った息遣いだけが仄暗い森に響いた。
「どうしようかなぁ」空気の抜けた風船のような、投げやりな言い方をする翔。それは俺に何かを相談しているというより、抱えきれない無力感をぶつけているようだった。
「どうしようと言われても」
口をへの字に曲げる。俺にはまだ状況の全貌が読めていなかった。翔の前には今後起こり得るであろう様々な可能性が将棋の盤の如く並んでいるのだろうが、俺にそれが見えない。せめて翔の思考の片鱗でも垣間見れたらいいのにと思う。
「俺にも分かるように説明してくれ。あの書簡は何なんだ。どうして七星が白狐さんに手紙を?」
「いや、あれは七星から白狐さんに宛てられたものじゃない」翔は気が進まないながらも、確信的に言葉を噛み締める。「あの司旦って奴は、ただ書簡を運んだだけだよ」
「じゃあ、差出人は誰なんだ」
「……」
翔は再び押し黙った。重要なことなのだろう。質問を重ねれば、ああ、とか、う、とか要領を得ない言葉を羅列する相棒は、俺の視線に背を押され、渋々口を開く。
「七星は、孑宸皇国の皇帝陛下直属の隠密隊だ」
「秘密国家警察とも言っていたな」
「そう、表沙汰にならない……いや、出来ない裏の任務を命じられる。七星を動かせるのは、当今皇上しかいない」
「ああ」
相槌を打ち、話の先を待った俺は、それこそが答えであると分かるのに時間を要した。え、と思わず足が止まる。つんのめり、翔が俺の背中にぶつかりそうになった。
まさか。声を漏れた俺の声は半信半疑だった。信じられなかった。その名は世捨て人にとっても、また俺にとっても遠すぎる存在だったから。
「この国の──皇帝が?」
面白いほど裏返った声が喉を抜ける。皇帝、という語に現実味が持てないほど──それを実在するものだと思えないほど、俺は孑宸皇国の朝廷に関心を持ったことがなかった。
翔はうんともすんとも言わない。ただ、いよいよもってこの世の終わりのような表情で地面を睨んでいる。それを見るほどに、俺は懐に仕舞った書簡箱の重量がずんと増していくようだった。
ならば、書簡箱に刻まれた紋は、皇帝権力の正統性を示す印であったという訳だ。
「嘘だろう」混乱し、俺は首を左右に振る。性質の悪い冗談を突き付けられたような気分だった。「皇帝からの手紙を、俺は預かったのか?」
「当今皇上と呼べ。少なくとも表向きでは」
「ごめん」
口早に謝罪する。淡々とした翔の返しが、より事態の深刻さを際立たせていた。指先から血が引いていくような気さえする。俺は幾度か深呼吸し、どうにか自分たちの置かれている状況を整理しようとした。
七星がわざわざ俺たちに接触を試みたのは、書簡を託すためだった。そしてこの書簡は、皇帝から白狐さんに宛てた手紙が入っているらしい──。
俺は思案を巡らす。あの世捨て人の主と、この国を統べる当今皇上その人が、どのような関わりがあるのか。そして司旦がはっきりと発音した“白狐様”という敬称に込められた意味も。
翔はどこまで知っているのか。
「おい、翔」そっぽを向いている相棒を嗜める。「何か知っているんだろう」
「……」
「おい」
再び重ねようとした言葉は勢いよく振り払われた。
「俺、何も分からないよ」
いきなり叫ぶように翔が言ったので、思わず目を丸くする。息を飲み、顔を覗き込めばその目元が僅かに赤くなっていることに気づく。俺は声を失くした。翔が泣いているのを初めて見た。
「だって、嫌だよ。俺、ここの生活が好きだよ。白狐さんが好きなんだ。でも、どうすればいいのか……」
「……」
返す言葉も見つからない。どうしたらいいか分からず、行き場を失くした俺の手がおろおろと宙を彷徨う。
冬の名残がある、冷ややかなそよ風が吹いた。淀んだ空気が掻き混ぜられる。大きな怪物の口元に立っているようだ。松明の柄を引っ張り出し、苦労して明かりを点ける。
幾度試してもなかなか火が続かず、最後は翔のスコノスの力に頼った。ぼうっと灯った炎が、風になびいて尾を引く。僅かに濡れた翔の目尻に陰が差した。
なあ、と控えめな声音で呼びかける。唾を飲み、かけるべき言葉を探す。翔がどのような問題に直面しているのか分からない。ただ途方もなく巨大な壁の前に立ち尽くす相棒のため、何か少しくらい役に立ちたいと思う気持ちが、俺にもあった。
「何か俺に出来ることはあるか?」
返事はない。翔ははらはらと目から雫を零した後、ようやく息を吸って目尻に溜まった涙を拭った。鼻先が赤い。子どものようだ。
大丈夫、と蚊の鳴くような吐息が聞こえる。それは何に対しての大丈夫なのか、訊くに訊けない。ともかく俺にできるのはその窄められた肩を叩いて励ますことだけで、結局その涙の真相は分からず仕舞いになった。
俺は遠くを見やる。何だか寒い。動きたくない。しばらく木立をざわめかす夜風を浴びる。
「俺たちに出来ることは」淡白な息を吐き、翔は自身の頬を叩いた。「この書簡を白狐さんに渡すことだけだよ」
「いいのか?」
「良い悪いというより、当今皇上の直接下された命令に、俺たちが逆らう権利なんてない」
本当に? と言いかけたのは、例えば俺が今ここで書簡を捨ててしまっても誰も気づかないだろうという悪足掻きの念があったためである。そもそも、この手紙が本物であるという確証もない。
俺は先程も言ったよう、この国家の中枢を占める政には興味がなかった。軽視するつもりはないが、外の世界から来た俺には関係のない話である。ゆえに、皇帝という大層な御身分に対する畏れも敬意もほぼ皆無だった。当今皇上という改まった敬称にも、何の感慨も湧かない。
しかし、結局のところ翔の言う通りになった。翔の心配事は皇帝の絶対的な権力ではなく、ほかのところにあるように思えた。そして書簡の中身が何であったにしろ、こちらの勝手な判断で宛て人に届けないことを正しいこととは思えなかった。
翔の背を押し、帰路を辿る。夜風が耳元をすり抜け、亡者のように不吉な声で鳴いた。
***
何も知らない世捨て人の主は、いつものように穏やかに俺たちを迎える。
世捨て人の主こと“白狐さん”は、この長遐の山岳に古びた家を隠し、長らく隠遁生活を送っている男性である。いつからここで暮らしているのか、一体何者なのか。優しくはぐらかすばかりで素性を隠し、謎めいたこの美しい人を「仙人」と、俺は半ば本気で揶揄していた。
老人のような真っ白な長髪を細い腰に垂らし、年齢を感じさせない若々しい肌と男女の区別すら曖昧な佇まいに、この世の美というものを感じずにはいられない。少女のように無垢な振る舞いをしたかと思えば、ふと老成した奥ゆかしさを覗かせる。その柔らかくも頼もしい佇まいを目の当たりにする度、俺たちよりもずっと年上なのだと思い知らされるのだ。
そんな彼は意外にも世話焼きで、天涯孤独な翔の母親代わりであると同時に、俺を拾ってくれた命の恩人でもある。
「おやおや。二人とも、随分お疲れですね?」
にこにこと白眉を上げる彼に、何と切りだしたらいいか分からない。
優しい彼の出迎えに水を差すのは憚られた。目に見えて心労を抱えているらしい俺たちは躊躇する。互いに目配せをすること数秒。さすがに首を傾げる世捨て人の主を前に無言でいる訳にはいかず、話があると理由は伏せたまま居間に集まった。
陰鬱で空気が重く、忘れられない夜になった。
円卓周りは明かりが少ない。男三人がそれぞれ複雑な面持ちを突き合わせていると深刻さも増してこよう。不安な気持ちが伝染したのだろうか。妙に目が冴えている。
白狐さんは、まだ足も洗っていない俺と翔から、只ならぬ様子を感じ取ったらしい。きょとんとした彼を前に、いよいよ懐の書簡箱が重くなり、視線と絡むたびに俺の胃も音を立てて軋む。
しかし、渡さない訳にはいかなかった。
「これを」自分の声とは思えない程、遠い。「白狐さんに、と預かりました」
外気に晒した、ひとつの書簡箱に注目が集まる。直径数十センチほどだろうか。高貴な箱が目に入った途端、白狐さんは一瞬瞠目し、珍しく表情を強張らせる。口許が何かを言いかけて止まった。
しかし、それはほんの一瞬のことだった。書簡を差し出された彼は、眉間に皺を寄せるでもなく、人形のような無表情でじっと押し黙る。それは、俺たちが説明するまでもなく箱の中身まで既に知っているかのような、どこか確信めいた顔だった。
「……誰から?」
掠れるほど小さな声は、妙に鮮明な輪郭を伴って耳に届く。俺の隣にいた翔が答えた。「七星……の、司旦という男から」と。やや緊張しているのが息遣いから伝わる。
なるほど、と白狐さんが打った相槌は、予想に反して軽快だ。少しばかり、この鬱屈とした部屋が明るくなる。
見れば彼の綺麗な唇の端は心持ち上がり、俺の気のせいでなければ、この世捨て人の主はどこか喜んでいるようだった。
「ふふ」抑えきれない微笑を白い歯に乗せ、白狐さんは書簡を受け取る。
「知っているんですか」
「七星の司旦は知りません」
あっさり否定され、翔が安堵にも似た息をほっと吐く。そうして、椅子から身を乗り出した。「白狐さん、その書簡の中身は何なんですか?」
「……」
開けてみます、と。尻すぼみになった彼の語尾に、僅かな逡巡が覗く。それは警戒だった。
白魚のような指で、滑らかな箱の表面を撫でる。面に刻まれた蝶の彫刻。二対の翅を広げて舞う蝶の彫り物を指先がなぞった。何かを確かめるように、幾度も。
俺と翔が感じなかった違和に、白狐さんは気付いたのである。髪の毛に混じった一本の白髪の如く、小さいが確かな違和に。
もしや爆薬でも仕掛けられているのかも。迂闊だった。俺の脳裏にB級映画のような爆発シーンが過った途端、世捨て人の主は迷いを断ち切るよう、突然自身の人差し指を歯で噛む。
それはこの封印された書簡を開けるただひとつの方法だったのだが、何も知らない俺はいきなり流れ出した赤い液体にぎょっと顔を引き攣らせた。そして、それがぽたりと重たい一滴となって書簡を濡らした刹那──薄暗がりの天井まで、眩いばかりの光線が閃く。
まるで、ぱっと屋内で花火が散ったようだった。或いは、何かの液体が化学反応を起こしたようでもあった。
「うわっ」
声を上げたのは俺と翔のどちらだったか。視覚が潰れる。そう思った頃には強烈な謎の閃光は消え去っていた。瞼を開いて、息を飲む。爆心地にでもなっているかと思ったが、違った。拍子抜けするほど、先程と何ら変わりない──いや、ただひとつ、先程までいなかったものがひらりひらりと宙を舞っている。
ひとひらの蝶が。
俺は目を白黒させた。鱗粉の光を撒き散らし、ひらひらと優美に屋内を飛び回る蝶は、そう、書簡の表面に彫られていたそれにほかならない。
網目のよう紋様で彩られた翅は光を透かし、見惚れるほど妖艶だった。俺と翔は揃って顎を外し、突如として現実に抜け出した蝶を眺めていた。
やがて思い出したように、書簡箱へと目を向ける。その表面に刻まれていたはずの蝶は忽然と姿を消していた。
まるで、手品のようだ。呆気にとられる。
「そんなに、驚くほどのものではありませんよ」白狐さんの声は、どこまでも涼しげだ。彼にとって、間近で起こった現象には何の意外性もなかったらしい。
「こういった珍しいスコノスを持ったネクロ・エグロも、この世には存在するのです。こういった……」
「幻覚を見せるスコノスか!」翔が手を打つ。
「その通り」
白狐さんの鋭い一言を合図に、その幻の蝶は薄闇の中に掻き消えた。正体を見破られ、燃え尽きたようだ。手元に残された書簡箱は、彫刻など初めからなかったと言わんばかり。ただ金箔だけがその装丁の品格を飾っている。
俺はしばらく面食らっていた。先程現れた幻視にはどのような“意味”があったのか、見当もつかなかったのだ。
誰かに危害を加えるものではない。むしろ、手品師が観客を湧かせる遊び心に近い。人を殺め傷つけるスコノスをこんな些末な悪戯に使うなど、少なくとも皇帝からの書状には相応しくないように思える。
気の利いた演出のつもりだったのだろうか。或いは──。
咳払いが響く。白狐さんだった。気を取り直したよう、再びその手を箱の蓋にかける。今度ばかりは何も起こらず、呆気ないほど簡単に書簡箱は開かれた。
案の定というべきか、中には折りたたまれた美しい紙が丁寧に収まっている。手紙だ。
「──……」
世捨て人の主がその手紙を膝に乗せ、じっと目を通す様子を、固唾を飲んで見守る。いやに時間が長く感じられた。それほど長文だったのか、俺たちが焦れていただけなのかは分からない。
そして彼がゆっくりと顔を上げた時──俺は静かに肝を冷やす。世捨て人の主のこんな表情を見るのはおよそ二度目だった。昨年の秋の暮れ、俺の因縁の人に翔が拉致された事件があった。そのときも、彼はこのようにうんともすんとも言わない、岩のように無口で冷徹になってしまったのだ。
胸の奥で燻っていた嫌な予感が徐々に確信へと変わっていくのを感じる。沈黙に耐え切れず、翔が口を開いた。焦りに突き動かされているようだった。
「……当今皇上からの御文だったんですか」
「ええ、まあ」
白狐さんの語尾は中途半端に浮く。目線が一瞬だけ泳いだのを見逃さない。俺は、この書簡が偽物であるという可能性に期待していた。
そもそもおかしいのだ。当今皇上と発音するたびに岩石を背負うような顔をする翔に対し、この世捨て人の主は曖昧には濁しながらもそれほど動揺はしていない。
俺は社会の身分の重さに縁はなかったが、一国の絶対者たる皇帝から直々に手紙をもらったにしては喜ぶでもなく、丁重に扱うでもなく、ただ難問を前にしたよう考え込んでいる彼の振る舞いには違和感があった。
一体どんなことが書いてあったのだろう。
「……これは一旦置いて、夕餉にしませんか」ぱん、と軽く手を打ち鳴らした世捨て人の主は、有無を言わさぬ気遣いで空気を切り替えた。
「お二人ともお疲れでしょう?」
そうやって、微笑みを浮かべた彼が取り繕っているように見えたのは、俺だけではなかったはずだ。事実、彼の口から書簡のことが話されることは、二度となかったのである。