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明後日の空模様 朝廷編  作者: こく
第八話 謀略と逃亡
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 俺は全身の力を振り絞って、翔の身体を引っ張り上げる。

 炎は物欲しげに身を捩り、空気を盛んに燃やしながら、巨人が足の裏で蹂躙しているかのような不吉な音を立てて木々を薙ぎ倒していく。その割にちらちら暴れる火の舌先には悪戯っぽい無邪気さがあって、何だかあの双子そのもののようだった。

 いずれにせよ俺は無力だ。そんな状況で翔の傷の具合を確かめようとしたあたり相当焦っていた。こんなことをしている場合ではないと思いながらも、他に打つべき手がない。森全体が軋んでいるようだ。


 俺たちの背後に残された余地は五メートルほどの崖際の出っ張りで、草木も疎らな土の地面が剥き出しになっている。端まで運んで寝かせた翔はどうにか意識だけはあるようだ。

 着物の襟もとを解いて傷の具合を見た俺は、ぎょっと閉じてしまう。へその下辺りがどす黒く染まり、二十センチほどの生傷が横向きに口を開けていた。覗き込めば、人体解剖の図で見るような臓物の一部が見えそうだった。

 表面の皮が右から左へ捲れ上がり、どのような刺され方をしたのかはっきり分かるだけに生々しい。切られたというより、得物の先端を突き立てられたと言った感じだ。


 俺は真っ白になった指先を彷徨わせ、どうしよう、と譫言を漏らす。

 とにかく止血をしなくては──いや、最早手当てをすることに意味などあるだろうか? 既に一酸化炭素中毒死は避けられない事態になっている。逃げるとすれば、崖の下に跳び降りるという自暴自棄な策しか思いつかない──駄目だ。そんなことをすれば本当に翔が死んでしまう。

 どうすればいい、と狼狽える俺の手を翔が引いた。存外しっかりと意志のある掴み方で、「き……」と口を動かす。意識はあるが、痛みで声が出しにくそうだった。


「早く、火……消さなきゃ。木が……」


 こんなときでも森の心配をする翔はあまりに翔らしい。


「火を消すって、一体どうやって」口に出しながら、俺は去年自分が山火事を起こしかけたときのことを思い出す。


 花神に襲われ、止むを得ず手元の松明の炎で彼女を燃やしたのだ。灌木が出火し、周囲の欅林を二十メートルほど焼いた。そんなことがあった。

 あのときは白狐さんがいて、雨師──すなわち雨の神を呼んで火を消した。対応が早かったために、それほど被害が広がらずに済んだのだ。


 雨の神を呼べるだろうか、この俺が。目線を左右に広げ、「無理だ」と弱腰になる。

 針葉樹林は全身が膨張したかのように炎上し、それが視界どこまでも続いている。

 火の回りが早かったのは、ただの火ではなくスコノスの生んだものだったためか。雨を降らせたところでせいぜい蒸発するだけだろう。

 俺は何だか呆然としていた。万策尽きて腹を括ったというより、何だか気怠くなって、もう無理だと諦めてしまいたくなった。ここまでの道のりを思い、馬鹿馬鹿しくなったのかもしれない。

 ただ「このまま死ねば千伽の思う壺だよなぁ」という漠然とした悔しさがあった。膝立ちになってぼんやり上空を仰ぐ。意外なほど空は澄んでいて、雲間から覗く星に煙が吸い込まれていくようだった。


 気付けば頬が濡れている。


 あの双子も死んだのだろうか。うまく逃げおおせたのだろうか。結局俺は、掌で転がされただけだったのだろうか。当て所もなく「翔──」と目線を戻すが、翔からの反応はない。


「……翔?」


 慌てて服を掴み、耳を押し当てる。焦りのためか、鼓動があるのかないのか判断つかない。僅かに目を開いたままになったその顔面は蒼白だった。唇まで青い。

 すう、と血の気が引いていく。指先が冷たく、目の前が眩み、頭だけがやけに痛い。耳鳴りがする。翔が死ぬ、という恐怖にも似た黒いものが全身に満ちていった。


「──……」


 駄目だ、ここで諦めるわけには──拳を握り、自分を叱咤する。あの老馬は既にいなかった。俺は自分に出来ることをやるしかないのだ。

 貧血を起こし、研ぎ澄まされた神経の先端に何かが触れた。それはそよ風のようにささやかで、微かにしか捉えられない信号のようだ。所謂、第六感に近い精霊的な本能である。言い方を変えれば、人間の耳では感知できない高音の周波といったところか。

 頭を上げる。不思議と頭痛も恐怖どこかに遠のいていった。肉体の五感が薄れ、代わりに見えないものまで見えるような、あの寒気がするほどの透明感がやってくる。気を抜けば、ふわりと身体が浮いてしまいそうだった。

 あと一歩で崖から落ちる。そんな瀬戸際で、俺は確かに言葉に出来ない不思議な揺らぎを受け取る。


 呼んでいた──というより求めていたという方が近い。いずれにせよこの超感覚を人間の言葉にするのは不可能だ。ただ、それが今までずっと俺に向けられて発せられていたのだということは漠然と理解できた。

 突如として全身に稲妻が走る。受け止めきれないほどの強い衝動。何かが溢れ出したよう俺は上空に吼えて応えた。

 背を反らせ、息が続く限り、咆哮する。尾を引いた叫びは獣の遠吠えのよう、炎の壁と険しい地形にぶつかって反響した。

 煙に灼かれ、目も鼻も耳も痛かった。傍目から見れば狂ったように映っただろう。否、本当に狂っていたのかもしれない。正直に言えば、このとき何を考えていたのかよく思い出せない。


「……」


 俺は掠れ声で名前を呼ぶ。ほとんど言葉にならず、届いていたとは思えない。息絶え絶えに膝を付き、手を伸ばす。

 翔は意識があるのかも分からなかった。じっと瞼を閉ざし、諦めているようにも見える。間に合うだろうか、という焦燥があった。一方で、絶対に死なせやしない、という決意もあった。

 俺は翔の脇に手を入れ、どうにかして担ぎ上げる。その体重に耐えかね、立ち上がれない。

 唸るように前のめりになり、どうにかして持ち上げたと言えそうな体勢になる。肋骨が軋み、背中の辺りに生暖かい血液が付着するのを感じた。


 一歩、足を踏み出す。何かに取り憑かれたように。

 巨人の舌を思わせる断崖だった。目の前は空白となってぽっかり口を開けて待っている。土砂が抉れた痕跡に沿って暗い陰影が落ち、それが遥か眼下で闇と交わっている。谷底は見えない。奇妙な引力を感じ、ひやりと背筋が冷えた。


「……」


 何をしているんだ、と理性が慌てる。しかしほとんど身体は勝手に動いた。

 俺は何も考えず、そのまま地面から両足を離した。断崖の頂を起点に、暗闇を目指し、垂直に落下したのである。

 俺たちの姿は、一瞬で霧がかった闇に飲み込まれた。

 空気が急速に通り過ぎていく。重力に引っ張られ、俺たちはごくごく当たり前に凄まじいスピードで落ちていった。

 翔が悲鳴を吐く。少なくとも意識があったならそうしたに違いなかった。数百メートルの自由落下は死体を呼び覚ますのに充分な恐怖と絶望があった。

 俺はきつく目を瞑る。心臓を鷲掴みにされたような感覚が自分を保つ核だった。ただ翔を離すまいと、その身体を空中でしっかりと抱き締める。


 瞬間、耳の端で甲高い声を聞いた。そうして落下は終わる。唐突に。


 強い衝撃に、半ば意識を失っていたようだ。それでも自分がいる場所が地面ではないことは漠然と分かる。打ち付けた箇所の痛覚はない。

 おもむろな慣性に引っ張られ、ぐらりと身体が傾いた。上昇していた。少なくとも俺たちを受け止めた背中は、エレベーターのように空へと向かっていた。

 俯せのままぼんやりと目を開く。指先に翔の着物を固く握ったまま、ようやく俺は呼吸することを思い出した。


「あ……」


 感嘆のような声を漏らし、そこにしがみつく。指先に絡んだのは羽毛だった。俺はそれが何者であるのか知っている。

 浮上する風に靡き、銀色に煌めく巨大な翼。あまりに巨大で、視界の端で上下するそれを鳥類の翼だと認識するのに時間がかかる。羽ばたくたびに力強く空を切り、俺たちを空へと運んでいく。お前は死んでしまったのだ、と言われても信じてしまいそうだ。

 ただ稲妻が如き咆哮が、俺の声とよく似た響きで脳裏に呼応する。羽ばたきは暴風を起こし、頬に当たる風には小雨が混じる。


 巨大な翼をもった豊隆──宇宙の央を守る霊鳥。皇国民からそう畏怖されてやまない雷神が、左右の翼を広げ、俺たちを背に乗せて運んでいる。


 書物でしか見たことのない、数十メートルはあろう巨躯は二人を乗せても揺らぐことなく、軽々と大空へと飛び立った。

 眼下には、山火事の炎が急激に遠のいていく。上空から見下ろせば、炭に埋もれた熾火のようささやかに見える。先程まで自分たちがそこに居たとは何だか信じられなかった。

 飛行機に乗って飛ぶよりも遥かに現実感のないミニチュアの景色は、あっという間に見えなくなる。

 胸が一杯になった。泣きたいような笑いたいような、言葉にならない何かが込み上げてきて、知らず俺は白い羽毛に顔を埋めたまま、掠れた声で何度も囁く。「良かった……助かった」と。


 助かった──。

 そのときの俺にあったのは、そうした歓喜にも似た感情だけだった。自分の咆哮が神を呼んだという事実も、神が俺たちを助けるような真似をしたことも、それがどれだけ恐ろしいことであったのかということも、どこか遠くに吹き飛ばされていた。


「う、そだろ……」翔の掠れ声が辛うじて鼓膜に届く。「どうして、豊隆が……俺たちなんかを──……」


 俺たちを背に乗せた霊鳥は、何も応えない。

 逞しい翼をはためかせ、夜明け前の空を滑空する。雲を通り過ぎ、ぐんぐんと上昇する。高い高い鳴き声が、仄かな薄金に霞む暁へと吸い込まれていった。




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