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明後日の空模様 朝廷編  作者: こく
第八話 謀略と逃亡
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「皓輝! 早く」叫び声に叩き起こされ、俺は我に返る。何が起こっているかは分からなかったが、やるべきことは分かった。


 兄の窮地に呆然としている背中の双子は、既に拘束という役目を忘れている。振り切るのは容易かった。


「一体何をしたんだ……!?」裏返りそうな声を抑え、俺は問う。数メートル先の七星(チーシィン)の首は前屈みに倒れ、既に息をしているか定かでない。


「何も……」


 翔は語尾を狼狽えさせる。

 七星(チーシィン)の首が吐き出した、吐瀉物とも血とも内臓ともつかない液体が、果実を潰したように周囲を汚している。倒れている彼に、外傷らしきものは見当たらない。

 猶予はなかった。半ば翔に腕を引かれるようにして俺たちは走り出す。逃げなきゃ、と繰り返す翔の声は上擦っていた。

 水を打ったように静まっていた山林は、再び焦燥を帯びる。背後であの炎のスコノスが吠え立て、その熱線が辺りを暴力的に照らした。

 四つん這いに地面を踏んで、低く下げた首には光輪のような鬣がある。二メートルを超える体長は、熱を帯びた毛皮のためより膨張して見えた。暗闇を溶かす熱がくらくらと眩暈をもよおし、余計に現実感を失わせた。震動が足を捉え、よろめく。


「宿主が死ぬと──スコノスは、どうなるんだっけ?」


「すごく怒る」翔は息切れの合間に答え、「時間稼ぎはあいつが」と一瞬だけ背後を見やった。狂人じみた喚き声が響き、翔のスコノスの荒ぶる旋風が俺たちの背を押す。


 版築の街道を逸れ、気付けば坂道を登っていた。ほとんど獣道に近かった。草を掻き分けるようにして、闇雲に足を動かす。


「どこへ行くんだ」と怒鳴れば、翔は「白狐さんのところに」と喘いだ。きちんと方向を掴めているか怪しい。


 どこへともなく走りながら、俺は無為に頭を空転させる。

 先程捉えかけた答えと、七星(チーシィン)の首が突然倒れたことは偶然の一致ではないように思われた。神が俺たちを手助けしてくれたのだとすれば、神には悪いが悪趣味な奇跡だった。

 いや、俺たちが踏み入れたのは、大人たちの汚い思惑が絡み合う底なし沼だ。神のほうがまだ信用できる。

 直立する杉林はほとんど闇に溶け込み、薄っすら苔むした表面だけが幽霊の顔のように浮かんでいる。変化の乏しい景色をよろよろ走れば、どこにも逃げられないような心地にさせられた。

 背後から一陣の風が吹き抜け、翔のスコノスがそこから姿を現わす。彼女が「おい、まずいぞ」と翔の脛を蹴飛ばすのと、赤い火炎をまとった霊が、目の前で明るく炸裂するのは紙一重の差だった。

 逃げ場を奪うよう、背後から次々と投げつけられる火の玉。着弾した草や樹木は焦げた異臭を放ち、黒々とした煙を上げた。炎上することはほとんどなかったが、山火事の危険性は充分に考えられる。


「スコノスはいい。あの双子に気をつけろ」


 翔のスコノスはそう言ったかと思えば身を翻し、脛を押さえている翔の中に消えた。風の化身である彼女はこの状況に不利を悟ったのだろう。

 残されたのは、焦げ臭い匂いに囲まれ立ち往生する俺と翔である。顔を見合わせる暇もなく「よくもお兄ちゃんを……!」という叫び声が降ってきて、火の粉が桜のように散る。

 霧がかった青い湿気を、迫りくる炎が容赦なく焼き払った。振り返れば、逃げたつもりがほとんど同じ位置で右往左往していただけなのだと気付く。塊となって投げ込まれた熱風が顔面に痛みを焼き付けていく。

 獣のように飛びかかってくる小さな影。俺は咄嗟に躱し、振り向きざまに思い切り回し蹴りを入れた。怒りに鈍った子ども相手なら牽制も容易かった。

 小犬を蹴飛ばしたときのような高い声とともに、双子の片割れが地面に蹲る。腹に直撃したらしい。呻いている。

 こんなにも滅茶苦茶にスコノスの力を暴発しているのは初めて見た。倒れている子どもに向け、翔が腰の小刀を引き抜いた。俺は慌てる。


「待て。殺さないほうがいい」


「どうして!?」


「騙されていたんだ」喉に引っ掛かっていた小骨がようやく抜けたように、荒い呼吸を繰り返す。「騙されていたんだよ、千伽に」


「何の話だよ」


 俺が言葉を続ける前に、目の前に垂れていた枝が発火する。双子のもう片方がどこかから俺たちを狙っている。

 突如として充満した煙に追われ、結局また走り出すほかなかった。逃げ場なんてあるだろうか。


「やたらと放火をするのは、あいつの家の教育方針か何かか?」


 翔は苦しげにそうぼやいたが、応える気力もない。むしろ、こんな状況でも冗談を口にする翔に苛立ったくらいだ。

 俺は自分の推測で頭が一杯だった。今まで見えていなかった全貌がようやく掴めたようだった。差し当たり、身の安全を確保しなければならない。これ以上取り返しのつかないことをする前に。

 ああ、だが千伽はこうなることまで見越していたのだろうか。文字通り尻に火が付いたように斜面を登っていた俺たちが逃げ場を失ったのは、どちらかといえば喜劇的な展開だった。少なくともこの光景を千伽が見たら喜んだに違いなかった。

 否応なしに足が止まる。針葉樹林がぱたりと途絶えたと思えば、その先の地面がなかったのだ。


 半ば抉れた断崖の下は暗く霧がかり、地底までの距離感を失わせる。下を覗けば血の気が引く心地がした。岩壁の表面は牙のない巨大な化け物の口のようで生々しい。もしかすると連日の悪天候で山肌が崩れたのかもしれない──。

 引き返すには遅かった。既に俺たちの背後には、山火事の片鱗が迫っている。あの双子か、或いは瀕死のスコノスか。発端は定かではないが、煙を出すばかりだった火球が遂に制御を失って杉林を燃やしたようだ。

 ぱちぱち、樹皮が乾いた音を鳴らす。どこもかしこも火の手が上がり、目の前の樹木のみならず地面までもが燃えている有様であった。上空は汚染されたように灰煙で濁り、それが水蒸気と混じって一帯に立ち込めている。

 呆然としている内に昏倒した杉の木が目の前に迫った。「危ない!」と翔に引っ張り出され、瞬きをする。斜めに傾いた幹は別の樹木に引っ掛かって止まった。

 身体がやたらと熱い。熱気のためか、煙を吸ったためか、頭がくらくらとする。


「皓輝……」


「騙されていたんだよ……」俺はその言葉の響きが気に入ったように、もう一度声に出した。


 ぱちぱち、炎が爆ぜる。顔面を炙る熱が奇妙な高揚をもよおした。逃げ場がない焦りと恐怖で、譫言じみた呂律を回す。


「ずっと腑に落ちなかったんだ。()()()()()()()()()()


 そう、何故俺でなければならなかったのか。他の誰かでは駄目だったのか──。世捨て人の家の焼け跡で出会ったあの千伽という男は、どんな理由があって()()()()()()()

 司旦を殺すなら、密約を持ちかける相手は三ノ星でも良かったはずなのだ。彼を買収して司旦を殺させる方が余程楽だ。例えば、捨て駒にするには惜しいとか──そういった事情はともかく、見ず知らずの俺のところにまで来る必要はない。

 ──冤罪だ。千伽は俺を使って、コウキに冤罪を被せようとしている。


「俺の“顔”が必要だったんだ。コウキとそっくりな俺の顔が……」


 これは憶測に過ぎないが、「皓輝」という人物が二人存在することを知る人間は限られている。千伽は恐らく知っている側の人間だ。

 そうして俺をけしかけ、七星(チーシィン)を追わせたのだ。俺が七星(チーシィン)と敵対するような情報を、毒のように流し込んで。知らない者からすれば、俺の行動は全てコウキのものになるに違いないのだ。

 何故かコウキは“影家に近習”として朝廷に出入りしているらしい。影家の現当主は、噂によればあの三光鳥。彼に“仕えている”近習が七星(チーシィン)たちに危害を加え、あまつさえ殺害などすれば──どうなるだろう?

 影家の三光鳥が政界で信用を失うのは間違いない。七星(チーシィン)は皇帝直属の隠密隊。反旗を翻したと取られてもおかしくない一大スキャンダルである。

 千伽の目的はそれなのではないか? もしそうなら、三光鳥が俺のところへ飛んできて「この件には関わるな」としきりに忠告したのも頷ける。

 俺の迂闊な行動の責任は、全て何も知らないコウキに負わせることになるからだ。少なくとも「俺」の存在を認識しない者にとっては。


 千伽は、現影家当主の失脚を狙っている──念入りな手段であの三光鳥を貶めようとしている。そう考えると、本当に司旦が白狐さんの暗殺を企てているのかも怪しくなってきた。何故なら、司旦もまた二人の「皓輝」の存在を知っているためだ。

 この回りくどい計画は、「俺」の存在が世間に明るみになれば成立しない。双子を用いたミステリの謎解きは陳腐だが、ドッペルゲンガーを用いて冤罪を着せるのは逆パターンと言える。

 ともあれ、この巧妙なトリックが暴かれないよう、次に千伽がすることは容易に想像がつく。用済みになった「俺」は存在を抹殺されるのだ。既に七星(チーシィン)の首は死んだ。「俺」が殺したのだ。その罪は、コウキがそのまま被ることになる。

 俺は自分の立てた推理に呆然としていた。もしこれが事実なら──俺は。そして、翔は……。

 そうして振り返ったとき、ようやく異変に気付いた。

 翔が俯せで倒れている。僅かに膝を折り、下腹を押さえている。どす黒くなった指の間から液体が滴り、何かの絞り汁のように地面に垂れていた。

 俺は青くなって駆け寄る。


「おい、しっかりしろ」と肩に触れたとき、風に煽られて火の粉がぱらぱら舞った。


「翔──翔」


 何度か肩を揺さぶる。翔は何も見えていないような目を開けたまま、苦しげに呼気を詰めていた。傷が痛むのか、煙を吸ったのか定かでない。

 迫りくる火の海を避け、崖の上に引っ張り上げようとその脇の下に手を入れたとき、翔が呻く。

 かさかさに乾いた唇を動かし、熱に浮かされたよう「ほんとにさ、もう、火はこりごりだよ」と呟いた。



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