Ⅱ
髪の毛が勝手に踊る。風ではない。熱気だ。湧き上がる凄まじい高温の熱気が、森を広範に炙っている。長く居れば命も危うい。
木が変形するほどの熱でありながら見渡す限りどこも発火していないのが不思議だった。これが七星の首の力の制御なのだとすれば、その物差しの上に立つような精度には舌を巻く。
深い溝となって横たわる実力差を見ながら、翔もそのスコノスも怯むことなく相手の間合いに飛び込んでいった。離れた場所で戦いを覗く俺には、時折燃え上がる炎の片鱗のため神秘的な舞を見ている気分になる。翔のスコノスが起こす風が火に反応して、その周囲を赤く廻る。それでも彼女にあるのは惧れではなく、命を懸けることへの悦びだけだ。
これはただの力比べではない。理性からは切り離された領域での戦い。実力や経験なら圧倒的な優位に立つ首を相手に、狂気というその一点だけで勝とうとしている。
俺は祈るように見守る。動けないのがただの栄養失調なのかネクロ・エグロ同士の殺し合いに気圧されたためなのか分からない。
「おい、よく聞け」
七星の首は、翔と距離を取りながら声を張る。彼としては炎のスコノスを少しも怖れることなく飛びかかってきた翔に思うところがあったのだろう。舐めるような炎に照らされ、その眉間の皺がくっきりと刻まれているのが分かる。
「向こうで腰を抜かしている餓鬼だけ引渡せば、お前の命は助けてやるぞ」
「はあ?」
翔は唾を吐き捨てる。
「無駄な殺しはしたくないって? 散々馬鹿にした癖にまだ正義ぶるつもりか?」
傍らにふわりと浮いた翔のスコノスが、如何にも正義とは無縁そうに笑った。
「世捨て人のことを何だと思ってるが知らないが、俺が命惜しさに友達を差し出すと思ったんならそれはちょっと甘く見すぎだぜ。俺たちにだって譲れないものはある」
その言葉は飾り気がなく、翔自身の性格のように率直に響く。
「それは蛮勇だ」
「知ってるさ。でも、それだけじゃ俺たちを止める理由にはならないぜ」
口角を上げた翔の笑い方には凄味があった。その前髪をひゅうと風が吹き上げ、空気がより一層緊張を帯びる。
先に地面を蹴ったのはどちらだったか。肉眼では捉えられない。何かがぶつかり合い、爆風が吹き荒れる。
スコノスという霊的な存在が戦いに興じているためか、目に見えない衝撃が輪になって森中に広がった。もうもうと黒煙が上がり、時折弾ける閃光だけが唯一の明かりだった。
忙しく土を踏む音。羽虫が飛び交うよう、互いの金属が掠る音が耳に届く。
俺に出来るのは身を伏せ、熾烈な嵐が収まるのを待つことだけだった。口の中に仄かな土の味が広がり、詰めた息を吐き出すこともままならない。瞼もぎゅっと閉じたまま、踏み潰されないよう、髪の毛が燃えないように祈る。
そんな無防備な俺のところへ、いつしか二つの影が迫っていた。嵐を潜り抜けるようにして、二人の子どもが渦中に転がり込む。はっと身体を起こしたとき、目の前に双子の影があった。
飛び掛かろうとしていたのか、臨戦態勢の彼らと目が合う。身を竦ませ合う僅かな間があり、先に動いたのは俺だった。後ろに身を引き、距離を取る。明らかな体格差がある子ども相手ながら、今の俺なら彼らにでも負けると確信した。
「逃げないで、遊ぼうよ」
「遊ぶ?」
俺は混乱する。有利な状況に持ち込んで獲物を甚振ることは、確かに彼らにとっては遊びなのかもしれない。ちらりと背後の様子を窺う。悔しいが、翔が首に勝たなければお仕舞いだ。だが、俺がここで死んでも意味がない。
「……あのさ」
おもむろに口を開けば、隙を窺うように落ち着きなさげにしている彼らの動きが僅かに止まった気がした。そうして俺はようやく二人の身体の違和感に気付く。気を引ける話題を探した俺は、咄嗟にそれを口に出した。
「腕が、ないのか?」
そう、区別できないほどよく似た彼らは、向かい合わせのように腕が片方ずつないのだ。どうして今まで気づかなかったのかといえば、そんなところに注目する余裕がなかったと言うほかない。左右揃った袖の着物のため、自然と両方の腕があるように錯覚していた。
親しい人が相手ならばおよそ俺もそんな言い方はしない。案の定、双子はむっとしたようだった。
「それの何が悪いのさ」
「いや、悪くはないけど」
ひらり、と何も入っていない袖がはためくのを目で追う。隻腕であるところまで双子でお揃いだなんて、あまりにも神秘的だなと声に出しそうになるのを堪える。あまりこの話題を引き延ばすのも賢明でない気がした。
向こうで繰り広げられる戦いの熾烈さを鼻先で感じながら、俺は出来るだけ平静を装う。時間を稼げれば何でも良かった。
「──双子って、やっぱり間違えられるのか?」
「は?」変声期前の声が、鼻にかかったように響く。「間違えられるって?」
「いや、二人とも顔が似ているから、どっちがどっちなのか間違えらえたりするんじゃないかって……」
「何でそんなこと訊くのさ」
全くもってその通りである。それでも俺はめげずに回らない舌を動かす。俺は俺の出来ることで血路を拓くほかないのだ。
「実は、俺にもそっくりな奴がいるんだ」
口から出まかせを言えるほど器用ではなかった。俺の場合は双子ではないが、相手の気が引ければ何でもいいと思った。
「顔も背丈もほとんど同じで、鏡に映したみたいに似ているんだ」
「ふうん?」双子の片方は、俺との距離をじりじり詰めようとしながら、嘘か真か見極めようとしているかのようだった。俺が必死に呂律を回す意図を見極めようとしている。
それでも、話題を振られれば気を引かれてしまうあたりは子どもらしい。心持ち力が緩んでいる。
「遠目からだとほとんど区別がつかないから、あいつのせいで冤罪をかけられたこともあってさ。例えば──」
言葉を続けようとした俺は、ふとおかしな点に気付いた。
初めて俺がコウキと勘違いされて冤罪騒ぎになったとき、確か七星がそこに関わっていたはずだ。司旦──そう、司旦が俺のことを西大陸の刺客呼ばわりしたのだ。つまり司旦はコウキの存在を知っている。
水霊使いの三ノ星はそれを知らなかった。だから俺を「影家の現当主の近習」だと勘違いしたのだ──コウキがどうして影家の近習などを装っているのかという問題はさておき──知らない者からすれば同一人物に見えるのも無理はない。
──俺は、何か重要なことを見落としているのではないか? 何か、自分でも気付かぬうちに取り返しのつかないことに手を染めているのではないか?
「……翔!」
明確な答えを掴む前に、俺は知らず叫んでいた。今すぐこの戦いをやめなければならない。そんな予感に駆られ、双子の存在も後ろを見やる。
隙を見せた途端距離を詰められた。背後から片方しかないそれぞれの手が俺の肩を押さえつける。それらを振り払い、俺は駆け出そうとする。
しかし、実のところ慌てる必要などなかった。既に手遅れだった。彼らの戦いには決着がついていたのだ。それも、誰も予期していない形で。
いつしか荒れ狂っていた熱風も鎮まっていた。硝煙を思わせる匂いと白んだ煙が行き場を失い、周囲を取り巻いている。暗闇に沈む直立の杉林、翔の青ざめた顔がやけにはっきりと映る。
「皓輝……」
血の気の引いた表情の割に、その声は重たく根を張っている。下腹を押さえ、黒いものが着物に飛び散っていた。だが翔は既に、次にすべきことを見据えている。
背後の双子が凍りつくのを感じた。
げほっ、と苦しげに咽る声。七星の首が厳つい身体を折り曲げ、自身の口元を押さえている。表情は見えない。蹲るようにして膝を折り、その手に武器はなかった。
痰が絡まったよう、何かを吐き出そうとしている彼の様子に不穏なものが胸を駆ける。その指の間から尋常でない量の液体を垂らしたのが辛うじて見えた。思わず目を逸らしたくなる。
怯えたよう後ずさりをした翔が、「逃げなきゃ」とどこか冷静に呟いた。




