Ⅰ
颯爽と地面に着地した姿。灼けた肌が、一日の最後の光を受けて照り映える。
くすんだ色の髪の毛を風がさらった。右手に弓を握り、土を踏みしめる粗末な履物。逆光で陰になった表情。阿呆な口上で名乗りを挙げた割に、そこには意外な焦燥感が滲んでいる。
「か、翔──」
吐いた息は震えた。身体からずるりと力が抜けそうになるが、どうにか踏ん張る。
いつになく薄汚れた格好をした翔は、ただ何も言うことなく真っ直ぐとこちらを捉えた。一瞬だけ緩んだ目元に皺が寄り、その笑い方すら懐かしい。
俺は込み上げてくるものを抑え、僅かに頷いて応える。声は出なかったが、それだけで充分だった。
「あれは」七星の首はぽつりと声を落とす。唖然としていた意識を徐々に取り戻すような言い方だ。「あのときの世捨て人の餓鬼か」
「その通り!」
翔の返答は大袈裟に反響する。息切れ混じりのその声が余裕のなさを窺わせた。俺は倒れないよう平衡感覚を掴み、何か言いたげな翔の意図を探る。
このたくあん王子は何を以てこの場に駆けつけてくれたのか。そしてここで何をしようとしているのか。言い知れぬ予感に駆られ、いつでも動き出せるように身構えた俺は、ふと縛られていた両手首の違和に気付いて声を漏らしかける。
翔はこちらから目を逸らさず、手元に携えた弓の弦を落ち着きなく弾いた。
「悪いな、皓輝。本当はもっと格好良く登場して格好良く助けてやりたかったんだけど、今は時間が惜しい」
「ああ──」
俺は腰の辺りに隠した拳をぐっと握る。後ろ手で拘束していた縄がいつしか解けていたことを偶然とは思わない。
自由になった手を、七星の首とその弟たちに悟られぬよう背後に回し、さり気なく一歩後退る。彼らはあの奇妙なたくあん王子に気を取られ、俺への注意を欠いていた。一触即発の空気に千載一遇を狙う。
「一体何をしに来た」
「決まってるじゃん。大事な人を助けに来た」
七星の首の問いかけにも翔は物怖じしない。その即答ぶりは「俺は自分のやりたいことをやるだけだ」と欲望や好奇心のままに行動できる翔そのものだった。「お前がどう思っていようが知ったことか。俺が友達だと思っているからお前は俺の友達なんだよ」と身勝手に言い切ってくれたあの翔だった。
「大事な人だと?」七星の首はその言い回しを青臭いと思ったのかもしれない。精悍な顔つきを歪める。
「その大事な人とやらが、盗人で人殺しだとしても、か?」
「皓輝はそんなことしない」
「一体、何を根拠に」
「──俺の、友達だから」
語尾に不自然な力が籠る。翔の目の奥が光る。七星の首が何かを感じ取る前に、既に事は始まっていた。
「走れ、同胞!」
いつの間にか後ろに回り込んだ女の声。俺を同胞と呼ぶのはこの世で一人しかいない。巻き上がった強風に目を瞑り、俺は駆け出す。よろめくかと思ったが、声に勇気づけられたか不思議と力が湧いてきた。
何かがぶつかり合う衝撃が空気を通じて森に広がる。彼女の奇襲は光のように速かったが、それを防いだ七星の首はそれだけで翔の思惑を紙一重で上回ったように見えた。
こっちだ、と手を振る翔の元へ走りながら、尻目に映った彼女の姿を追う。翔が呼び出した風のスコノス。この世でも稀な、人型に進化した──つまり俺と同じ、精霊。
長い髪が砂埃を巻いて逆立つ。痩せこけた四肢は長く、ほとんど裸に近しい姿は人というより獣に近い。隙間だらけの歯を剥き出しに笑って、この状況を愉しむかのような彼女の横顔に、如何に人の似姿に進化しようが決して人には為れないスコノスの不完全さを思い知らされる。
翔がこの凶暴なスコノスを呼び出すことは滅多にない。それだけ彼女は翔にとって御し難く、半身でありながら危険を伴う存在だからだ。俺はいつか翔が言っていたことを思い出す。ネクロ・エグロが己のスコノスを呼ぶのは、相手への宣戦布告に等しいのだ、と。
「逃げるぞ、皓輝」
「え、でも」
振り返りそうになるのを翔の声が咎めた。「あれはただの時間稼ぎだ」と。俺は精一杯頷く。
最初の一撃で決しなかった時点で、既にこちらに勝ち目はなくなったのだと、その事実を認めるのに労力を要した。これまで翔と、翔のスコノスよりも強いネクロ・エグロを俺は見たことがなかった。
「出来る限り距離を離して、有利な地形で乱戦に持ち込むか……」
走りながら何やら呟く相棒の様子に、少なくとも自棄になっている訳ではないと悟る。その乱戦に俺の頭数が入っているのか訊くに訊けない。ふっと翔と目が合った。「それにしても」と。
「会えて良かった」
息を弾ませる翔は、こんな状況でも再会の喜びを分かち合おうとする能天気さが窺えて、それがあまりにいい笑顔だったので俺は吹き出しかける。
「お前こそ……」
俺の返事は背後からの怒号に掻き消された。
「正々堂々戦え!」
俺と翔が聞き取れたのはそれだけだったが、何の前触れもなくスコノスを繰り出すというネクロ・エグロ同士の対決としてはマナー違反甚だしい翔のやり方に七星の首が怒り心頭であるということは伝わった。
「殺し合いに正々堂々も糞もあるかよ馬ぁああああ鹿!」
その怒号を上回る、嘲笑交じりの絶叫。なんともまあ、お行儀の良いスコノスだと感心すれば翔は渋い顔をしている。
「一体、何があったんだ?」
時間が惜しい。先程の翔の言葉が引っ掛かる。七星から逃げるという無謀な策。翔たちはただ俺を助けるためにこんな無謀なやり方を取った訳ではないと相棒の気迫から察する。
太陽は既に地平線に沈み、鬱蒼とした杉林は夜の暗さに飲まれつつあった。縮む光が急速に遠ざかり、速度が追いつかず、俺たちだけ取り残されて行くように錯覚する。
暗闇に弱い鳥目の翔とそのスコノスには不利な戦局である。
「説明している暇はない。ただ、白狐さんが危ないんだ」
翔は唾を飲み、やっとの思いで答える。「白狐さんの命が危ない」
「この近くにいるのか」
「ああ、雁江の上流域に野営しているらしい」
どうやら行き先は確定しているようだった。七星の首も野営している場所くらい分かっているに違いないので、彼を放置して走り出したということは相当急がなければいけないのだろう。俺は勝手に、司旦の暗殺計画のことだと確信していた。
そのときだった。薄暗くなった街道の向こうから赤みを帯びた閃光が輝く。俺が捉えられたのはその光の一片に過ぎないが、背中が燃え上がるように灼けつき、もんどりうって転げる。
背が熱い。着物か何かが焦げる異臭がする。
「そんなのアリかよ」
俺の傍で膝をついた翔が、呆然と呟いた。振り返れば、杉林が真っ赤な熱線で歪み、ゆらゆら高温に揺らぎ、まるで太陽が落ちてきたように錯覚する。
その中心に立つ七星の首の影。あの男がスコノスを呼んだのだと、これが七星を率いる首のスコノスなのだと、俺はひりひりと痛む喉で唾を飲んだ。
この世界にやって来て一年余り。人との関わり合いを避けて平穏な山暮らしをしていた俺は、他人のスコノスを見た経験が少ない。俺自身もまた人型のスコノスでありながら、人を殺すというこの精霊の力を想像で補い、何となく知ったつもりになっていた。
その認識を遥に凌駕するものが目の前にいる。
森全体が赤々と燃えているようだった。しかしよく見れば発火はしておらず、ただ極度の高温で火を出すよりも早く焼け焦げているらしい。杉の枝先がその先端を黒く変形させていくのを、俺もまたまつ毛をちりちりと灼けつかせながらぼうっと見つめる。
自然現象を超えた異常なものを見ると、人は固まって動けなくなる。先に正気を取り戻したのは翔だった。俺の二の腕を引っ掴んで立たせると、すぐさま迎撃の体勢に入る。それが幾分自暴自棄の類に見えたのは、気のせいではないだろう。
翔が地面を蹴る。その周囲に巻き上がった風が形を為すと同時に炎と化す。この空間が丸ごと七星の首のスコノスに支配されている。
遠くに佇む首が従えているのは、大型の生き物にも似た火のスコノス。その赤々とした熱気が陽炎のように輪郭を揺らがせるのではっきり視認できない。極度の高温で空間が溶けているようだ。
翔のスコノスの絶叫が響く。無理だ、と思う。風を操る翔と、あの触れるもの全てを灼き尽くすかのような炎を操る首。両者を理論的に比較する余裕はなかったが、翔が勝てる見込みのない相手に立ち向かったのだということだけは分かった。
「皓輝、お前だけでも逃げろ」
突っ立っているこちらに気付いたのだろう。振り返った翔がそう怒鳴るのに、俺は声が出なかった。翔は顔を険しくして「ここは俺がどうにかするから」と叱るように言う。首を横に振った。そうしなければ翔が死んでしまうと思った。
これはあの日、家に火を放たれて散り散りに逃げたときと違う。戦況が絶望的すぎる。翔が勝てないなら、誰なら勝てるんだよ、と俺は本気で思った。
「一刻も早く、白狐さんのところへ」
「嫌だ」声が枯れている。「俺に選ばせるなよ。どちらかしか助けられないなんて言うな」
絞り出した言葉は存外翔の心に刺さったらしい。狼狽えた表情はすぐさま真剣になり、振り向きざまに飛来した炎の塊を弓で払いのける。炎のスコノスが咆哮し、地鳴りとともに火の玉が辺りに飛び散った。この距離で灼けつくように熱いなら、近付けば一溜まりもないだろう。
俺はよろめきながら翔に歩み寄り、その腕を掴んだ。
「お前が逃げないなら俺も逃げない」
我ながら馬鹿なことを言ったと思う。だが本気だった。これまで白狐さんを助けるために費やした苦労の数々を思っても、今ここで翔の命を斬り捨てる選択が俺にはできなかった。
掴んだ腕に感じる、確かな熱と痛み。
一蓮托生。
そんな言葉が脳裏を過る。誇張でも何でもない、文字通りに、どんな結末になっても一緒にいさせてくれと俺は目で訴えた。
「……分かった」
翔が頷く。その顔の半分が赤々とした熱線に照らされ、もう半分が翳る。余裕がない。炎のスコノスが動きだすまで、あと数秒。底冷えするような青い目で、「足手まといにはなるなよ」ともう包み隠さずに翔は言った。
「言っておくけど、俺、別に負けるつもりはないから」
自分に言い聞かせるようなその口ぶりに、俺はどす黒い殺意を汲み取ってぞっとする。ネクロ・エグロの核とも呼べる、戦いに生きる本能。否応なしに、翔が戦っているのを初めて見た日のことを思い出した。あのときもこんな日が暮れた後の夜だった。
突き飛ばされるようにして、俺は翔が七星の首に向かって駆け出すのを見送る。その後すぐに、断末魔にも似た翔のスコノスの凄絶な高笑いが響いた。




