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明後日の空模様 朝廷編  作者: こく
第七話 七星の首
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「ま、待て!」


 咄嗟に叫び、俺は追いかけようと足を踏み出す。力が入らず前のめりに傾き、がくりと膝の関節が曲がる。

 自分の体重すら支えられない。身体に限界が迫っていることを思い知らされた。眩暈を振り切るように両手を前に伸ばし、這い蹲って後を追う。

 双子たちは素早かった。まさに脱兎の如く、あっという間に視界から消えた。草を踏むが聴覚の範囲から遠ざかるのを何も出来ずに見送る。

 それでも俺はあの黄金の魔力に取り憑かれたように数歩、未練がましく足を踏ん張っていたのだが、異常な息切れを覚え、こんなことをしている場合ではないと我に返る。


 あの重厚な金飾りが奪われたことは損失かもしれないが、偶然手に入れたプラスがゼロに戻ったに過ぎない。

 落ち着け。必要以上に深追いして、更に面倒なことになったらもう手に負えないぞ。自分に言い聞かせ、冷静さを取り戻す。

 あの双子が一体何者だったのか、俺には知る由もない。通りすがりの盗人だったのかもしれないし、彼らにとっては悪戯の延長だったのかもしれない。

 何にせよ、こんなにボロボロの身なりをした浮浪者が黄金の塊を持っているとは思わないだろうから、双子らにとっては幸運だったのだろう。

 人助けをしたと思えば、それほど気に病むこともあるまい。ただ、泣きっ面に蜂とばかりに、圧し掛かる惨めさが増しただけだ。


 膝をつき、しばらく身体を前のめりにして落ち着くのを待つ。黒々としたものが体内に満ちて、ただ胃の中にある違和感だけが取り残されていた。

 あのとき飲んだ雲上渓谷の水が胃中で生きている。それが時折暴れ、吐き気と激痛をもたらしている。そうとしか説明しようがない腹痛だった。

 やがて痛みが鎮まると、思い出したかのように再び空腹感に襲われる。食べ物が欲しい。栄養失調を起こした身体はある種の麻痺状態に陥っている。

 ここ数日、まともなものを口にしていなのだから当然といえば当然だろう。指先が震え、ぼんやりと霧がかった頭には漠然とした眠気が根を張っている。目を瞑れば二度と目覚めないだろうという確信があった。

 地面に手をつき、どうにか立ち上がる。水が欲しかったが、またあの突発的な吐き気に襲われるのが怖かった。


 結局、俺はまた歩き出すほかなかった。同じ動作を繰り返す絡繰り玩具のように、俺に出来ることはそれだけだ。

 この体力で目指す場所まで辿り着けるのか。絶望する気力すらない。それだけが救いである。


 再びあの双子たちに出会ったのは、それから一時間ほど経った頃だろうか。

 辺りは、切り立った断崖絶壁が連なる峡谷群。緑の乏しい岩壁はくすんだ色の陰影に埋もれ、ふと見下ろせば足が竦むほどの谷底が待ち受ける。

 霧がかった景色は何もかも輪郭がぼやけて見える。いつの間にかかなりの標高まで登っていたらしい。

 街道沿いの針葉樹はほとんどが杉だ。どれも見上げるほど背が高い。深緑の細い葉をびっしり逆立てた枝一本一本、ささくれ立った幹のひとつひとつに近寄りがたい存在感が滲む。

 そんな樹林から妖精が現れるかのよう、あの双子が並んで立っているのが前方に見えた。

 奔放な巻き毛にお揃いの目鼻立ち。鏡のように左右対称で佇んでいる。あまりに音もなく唐突に現れるので、幻覚かと思った。


「──……」


 目を擦り、二度見をする。相手が何者なのかはっきりしない。

 血の通ったネクロ・エグロだと本能が確信する一方、彼らの佇まいはあまりに現実味に欠け、森に棲んでいる杉の妖精なのではという疑いも拭えない。

 声を掛けるべきか迷う。少なくとも、盗んだ金飾りを返せと怒鳴る権利が俺にはあるはずだ。しかし声を張る気概も、彼らの悪戯を追及する気力もない。

 足を止め、双子の妖精と見つめ合う沈黙がしばらく流れる。突然双子たちがそれぞれの手を無邪気に振り上げたので、俺は我に返った。


「鬼さん此方、手の鳴る方へ!」


「え?」


 何を言われたのか理解できない。鬼を名乗るなら、腹痛で死にそうになっている俺から窃盗を働いたそちらの方が相応しいのではないか。

 彼らは微笑んでいた。夏の陽射しが躍るような眩しさで、俺の困惑を面白がっている。

 そしてそれぞれ身を翻し、俺から逃げ出す素振りを見せた。ただし先程のように全速力で脱兎するのではなく、追いかけられることを期待して尻尾をちらつかせている、そんな隙だらけの走り方だ。

 足を踏み出しかねているこちらに気付いたのだろう。双子の少年は息ぴったりに振り返り、大きく手を振って笑う。ここにいるよ、と挑発するかのように。


「ねえ!」片方が息を弾ませた。口の端から零れる歯が眩しい。「こっちに来たらいいこと教えてあげるよ」


「いいこと?」


 無意識に聞き返す。口内でくぐもった呟きは到底聞こえなかっただろうが、それでも彼らは俺が多少の関心を引いたことに気づいたらしい。

 嬉しそうな二人の笑みが、暮れかけた日差しに照り映えた。


「影家の白狐様がどこにいるか教えてあげる」


 息を飲んだ。脊髄反射のようにまず一歩、足が前に出る。

 何故妖精じみた双子が白狐さんのことを知っているのか、そして何故俺が彼を探していることを知っているのか、理性が疑問を投げかける。

 だが深く考えるよりも先に双子たちが背を向けて駆け出した。勝ち誇った笑い声が転がり、彼らの影が針葉樹を横切る。


 俺は慌てて後を追った。子どもゆえの無邪気さか、こちらが追いつけそうで追いつけない絶妙な速度を保っているのが憎たらしい。

 だが白狐さんの名を出され、ぼうっとしている訳にもいかない。

 俺は後先考えずに双子を追いかけた。羨ましいほど身軽な彼らが坂になった土手を下り、街道へ転がり出るのを目の端に捉える。

 彼らが俺をどこかへと連れ込もうとしている意図だけははっきり分かったが、その先の予測まで頭が回らない。普段であればもっと警戒したものを、今の俺には危険を察知する力が絶望的に欠けている。

 ただ白狐さんの名を聞いて焦り、得体のしれない双子から何か聞きだせないかということに気取られていた。




 ***




 奇妙な鬼ごっこは百メートルも続かなかっただろう。

 隆起した断崖に刻まれた街道へ出たとき、俺の足は自然と止まった。心臓がどきりと脈打ち、頭が急激に冷えていく。

 あの双子はすっかり速度を緩め、安全な距離を取って振り返った。そこには長く引き伸ばされた影が立っている。

 樹の幹に繋がれた一頭の馬。その傍らに立つ一人の男。駆け寄った双子の背丈の倍はあろうかという長身で、初めそれが人間だと気付けなかったのは影を濃くする夕闇のせいだろう。斜陽が頬に差し込み、そのとき初めて精悍な男の顔が照らし出される。

 荒野の植物を思わせる頭髪に、炯々とした鋭い眼差し。肉体の無駄な部分を削ぎ落とし、武骨さのみを身につけた体格。背中には何やら物騒な得物を斜めに負い、戦いに生きる軍人であることが察せられる。


「……」


 ──彼と目が合った瞬間、あの悪夢の夜の景色が生々しく蘇った。燃え盛る炎。煙を吐き出す戸口、木造の屋根が燻される嫌な匂い。そして、小雨の降る中佇むあの人影。


七星(チーシィン)の、首──?」


 一番目の名を冠した男。七星(チーシィン)の首が目の前にいる。これは一体、何の神の悪戯だろう。

 困惑するこちらをよそに、あの双子はくるくる足元にじゃれついて「お兄ちゃん、連れてきたよ」と歯を見せた。心なしか七星(チーシィン)の首の表情が緩む。男の顔に滲んだ感情の温度が、彼が生きている人間だと教えてくれる。

 ──お兄ちゃん?

 俺は双子と七星(チーシィン)の首の顔を交互に見比べた。どう見ても二人の褒めてもらいたがっている無邪気な表情は、武骨な男と血縁を感じさせない。彼らが兄弟らしいと飲み込むのにかなりかかる。見かけの歳が離れているので、言われてみなければ分からないだろう。


「……弟を囮に?」


 思わず零した独り言に、悪意を込めたつもりはない。ただ漠然と状況を把握するだけの理性が戻ってきた。

 どうやら──彼ら七星(チーシィン)一行はこの俺の存在を知っていた。そして幼い弟たちを利用し、俺がのこのこやって来るのを待ち構えていたのではないか──。

 罠に嵌められた実感がようやく湧き、顔から血の気が引く。


「囮だと?」首は眉を顰めた。ただそれだけで獣のような迫力がある。「誰がそんな卑怯な手を使うか」


 売った覚えのない喧嘩を買われ、俺は怒るよりも困惑した。

 じゃああの双子が俺をここまでおびき寄せたのは一体何だったのか、という疑問を口に出さなかったのは、相手の機嫌をこれ以上損ねたくなかったからだ。


「お前は、あのとき長遐にいた世捨て人だな」


「……」


 警察から身元確認をされる気分で、無言のまま頷く。相手は険しい表情を緩めない。

 彼がここに居た理由が俺にはよく分からない──しかし、出会えたことは好機と思うべきかもしれない。

 何故なら、差し当たって俺の目的は司旦の“暗殺計画”を阻止することであり、他の七星(チーシィン)と情報を共有できるというのならむしろ心強い。白狐さんの処遇はともかく、都までの彼の身の安全を保障するという点で彼らと俺の目的は一致しているはず。

 家を焼かれたことへの複雑な感情を飲み込み、相手の顔を見据えた。彼が俺に何か用事があるらしいということを承知の上で、自分の話題を振る。「──影家の白狐様は、今どこに?」


「近くにいる」男はにべもなく、詳しい居場所を教えるつもりはなさそうだ。双子の話と違うではないか。「お前には関係のない話だ」


「いや、関係大有りだ」


 俺は顔の前で手を振り、敵意がないことをアピールした。何故この俺が腰を低くしならなければならないのか、家を焼かれた被害者側なのではないか、ちらりと苛立ちが胸に過る。


「司旦もそこにいるのか?」


「そうだな」それがどうした、と言いたげだ。


「司旦が、叛逆を企てている」


 俺は真っすぐと事実を伝えたつもりだった。だが言葉が足りなかったと気付いたのはかなり後になってからで、七星(チーシィン)の首はさしたる驚きもなく「ああ」と漏らしたのがそのときの俺には想定外だった。


「知っている」


「え」


「司旦が俺たちを裏切ろうとしていることだろう。知っている」


 どういうことだ。自分だけが知っているはずだった切り札をあっさり流されたことに俺は狼狽えた。

 彼はどこか面倒くさそうに口を開く。双子は黙って足をぶらぶらさせていた。


「あの司旦が、七星(チーシィン)や皇帝の意に恭順しないことなど初めから分かっていたことだ」


「同胞の離反を知りながら同行させたのか……?」


「これは七星(チーシィン)内部の問題であって、部外者が首を突っ込んでいい話じゃねえ」


 ぴしゃりと跳ねつけられ、俺は二の句が継げない。彼の言う「部外者」という言葉は確かに正論かもしれない。しかし正論だけでは体が動かないのも事実である。俺はただ、白狐さんを助けたい一心で、何か出来ることはないかと無鉄砲を承知でここまで来たのだから。

 黙って話を聞いていた双子たちが、くるくるとよく動く眼でこちらを窺う。


「もしかして、それを知らせるためだけにここまで追ってきたの?」


「そうだとしたら、無駄足だったね」


「う──いや、まあ」それだけではないかもしれない。子どもにすら反論できず、頭を掻く。


 そして、はっとする。遅れてやって来た現実的な疑問が口をついた。


「じゃあ、今この瞬間に司旦が裏切りに走っているんじゃ──?」


「そうだな」彼の相槌には熱がない。こちら言葉に関心を払うのもうるさそうな態度だ。子ども扱いされているのか判然としない。


「そ、そうだなって」


 俺はこの状況に危機感と疑問を覚えた。今この瞬間に、白狐さんは司旦に殺されているのかもしれないのだ。暢気に会話している場合ではない。

 ここからそう離れてないであろう場所で何が起こっているのか気を揉む俺に、七星(チーシィン)の首の態度は不自然に映る。まるで命綱なしで綱渡りをしながら、取り返しのつかない事態にはならないと高を括っているかのようだ、と。


 ──このときの俺は気付かなかった。目の前の男と俺との間には、決定的な認識の“ずれ”があったのだと。互いの齟齬に気付かないまま、噛み合っているようで全く噛み合わないおかしな会話を続けていたのだと。

 しかし互いの誤解を解く暇もなかった。「お前の話はそれで終わりか?」と七星(チーシィン)の首が含みを持たせて問いかけてきたからである。

 彼の目は俺の姿を上から下まで舐めている。犯人の取り調べをする警官の如き、権力に寄り掛かった不遜な目つきだった。彼の居場所はいつでも正義であり、俺はそこに試される側なのだという居心地の悪さを感じる。


「じゃあ、次は俺からの質問に答えろ」


「……?」


 一体何を問われるのか。身構えるほどの緊張感を持たず、俺はその場で棒立ちする。

 七星(チーシィン)の首がおもむろに懐へと手を入れる。そうしてこちらによく見えるよう掲げたのは、あの黄金の塊だった。

 息を飲む。双子に盗まれたものが彼の手に渡っていたらしい。

 彼は不愉快そうに片目を眇める。


「──これをどこで盗んだ? 盗人め」




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