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明後日の空模様 朝廷編  作者: こく
第七話 七星の首
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 それから日が沈み、再び昇った。自分がどのようにして歩いてきたかほとんど覚えていない。ただ湿地で出会った三ノ星の言葉をなぞり、足取りも重く亡霊のように東を目指した。

 ふと、重く垂れこめていた針葉樹の林が途切れ、目の前が開ける。遠くには、険しい頂に雪を残した冴省の山脈が雲間の光に煌めいていた。


 どうやら街道沿いに抜けたらしい。狭い峡間に版築固めの路がうねり、南東へ続いている。俺はしばし頭を空にして曲がった路の先を眺める。誰もいない。廃れた街道のようだ。

 そのとき、風に乗って何かが聞こえた気がして、我に返る。複数人の人の足音や、動物の息遣い、金具が軋む音。耳を澄ませるほど、気配は近くなる。

 俺は顔を左手側に向けた。誰かがやってくる。一人ではない。車輪が地面を滑り、馬の蹄の振動がここまで伝わった。乗り物に乗っているらしい。

 こんな侘しい路もきちんと使われているのだな、という漠然とした感心を覚えながら、俺は林の中に身を引っ込める。こんなに汚い恰好をしているのだから、堂々と姿を晒すのは憚られた。山賊だと思われかねない。

 杉の大木の陰に隠れ、様子を窺う。いや、こうしているほうがむしろ怪しいのではないかという不安が過るも、冷静になったときには既にその行列が視界の端に差し掛かったところだった。


「──……」


 思わず目を見張る。

 きっと、高貴な身分の人なのだろう。正面には従者がしずしずと先導し、後ろには白銀に輝く金具が留め付けられた二頭立ての馬車がひとつ。

 車体は涼しげな白木で、ささやかに花が差し飾られている。

 護衛と思しき者たちが幾人か左右を固めているが、見える限り全てが女性だ。馬車の装丁からして、恐らくそこに乗っている貴人も女性だろう。馬車の左右に垂れる薄水の絹がはたはたと翻り、遠目ながら中の女性の影と目が合ったように思えた。

 見惚れたのは、燦然とした行列全体の現実味の薄さのためである。詩的に誇張するなら、月の天女たちが舞い降りたよう、土に塗れた道を進んで来た俺にはそれが白昼夢のように見えた。

 杉林の前に、白木の車が差し掛かった。一瞬息が止まるような痛みを覚える。車を引く馬は雪のような斑の葦毛で、それが逝ってしまった老馬の佇まいに重なった。

 気が付けば、身を乗り出していたらしい。「誰だ!」という声が空気を裂き、急に周囲の音や匂いが戻ってくる。

 大勢の目線が俺を貫いた。間抜けにも林の陰からはみ出し、身動きが取れない。


「何を呆けている、頭が高いぞ!」


 俺に向かって叱責を浴びせたのは、馬車のすぐ隣を歩いていた従者の一人だ。声が低いので、初めは女性だと分からなかった。その気が強そうな顔立ちに気圧された俺は一歩後退る。

 ここで逃げ出せば賊だと判ぜられる。そんな理性が、俺の足をぎりぎり食い止めた。どうすればいい、敵意がないことをどう証明すればいい。


「頭を下げよ、不敬者!」再び怒声が飛び、一瞬の逡巡の後、俺は咄嗟に膝を折って地面に伏せた。


 冷静になってみれば、その方が顔も見られなくて済む。見知らぬ人間相手に土下座をすることに抵抗がない訳ではないが、面倒事を避けられるなら幾らでも頭を地面に擦り付けようと思えた。

 両手を重ねたところに額を置き、時代劇のようにひれ伏した体勢のまま行列が過ぎ去るのを待つ。

 あの女従者は、俺のぎこちない土下座に満足しただろうか。そんな危惧が的中したかのよう、地面と鼻先をすれすれの位置で留めている俺の前に、誰かの足先が止まり、影となる。布で出来た女物の履物だ。


「おい」


 蹴飛ばされるかと思った。しかしそんな暴力が降ってくることはなく、控えめに顔を上げればあの従者が険しい目付きをして俺を見下ろしているところだった。

 怒られる、という漠然とした予感にぎゅっと身を縮める。俺が何かしただろうか。ひれ伏すのが遅かったのかもしれない。いちゃもんを付けられるのには慣れつつあったが、見ず知らずの他人に痛めつけられる気配に身体が委縮する。

 従者は、女にしては長身で迫力があった。豊かな胸回りと腰つきに目が行くが、下品さはない。短い髪は、生涯独身を誓った女のそれである。


「ぼうっとしてんじゃねえよ、薄汚ねえ面しやがって」


 いきなり吐かれた暴言が自分に向けられたものだと飲み込めない。そして、彼女が乱暴に差し出したものが何なのか理解出来ず、更に混乱する。


「姫様からの施しだ。有難く受け取れ。そんで、とっととこの領から失せやがれ!」


「……」


 ぽかんと開けた口から空気が出入りする。押し付けられるまま受け取ったそれはずしりと重く、鈍い金色の光を反射している。大きさは俺の手に収まるほどで、何やら渦を巻いた装飾的な形をしており、恐らくは首飾りか髪飾りの一部と思われた。

 そして、うっかりすれば取り落としてしまいそうな重量は、紛れもない純金のそれ。一体どれほどの値打ちがあるのか、天文学的な数字が眩暈を引き起こす。

 女従者がきっと眉を吊り上げた。


「返事は!」


「は、はい……!」


 一体何に対する返答なのかさっぱり分からないまま、俺は反射的に声を出す。従者は感情の窺い知れない眼差しで俺を一瞥した後、顔を背けた。

 着物の裾を翻して行列へと戻っていく彼女の姿は颯爽としている。

 行列が過ぎ去っていく。旗を持った最後の列が通りすぎ、俺は一人で魂が抜けたようその場に取り残される。手の上に乗った重量感だけが、夢で拾った落としもののように奇妙な現実味を伴っていた。


 一体、何が起こったというのか。てっきり俺は不敬な挙動不審を叱り飛ばされるのかと思ったのだが、まさか暴言と施しを同時に受けるとは思わなかった。

 いや、と首を振る。みずぼらしい浮浪者にくれてやるには、この純金の装飾はあまりにも大盤振る舞いが過ぎる。馬車に乗っていた女主人は意外と慈善家なのか、或いは貧者にこれくらいやれるほどこの国の貴人は裕福なのか。どちらもしっくりこない。素直に喜べばいいのか、物乞いに間違われるほど落ちぶれたことに屈辱を覚えるべきか、それすら分からない。


 このとき、捨てるという選択肢が浮かばなかったのはそれだけ俺の神経が衰弱していたということなのだろう。根拠の分からない施し物は、警戒しなければならないのだ。降って湧いた宝物に目が眩んで、俺はぼうっとその重さに浸っていた。

 傍目から見れば相当奇妙な光景だっただろうが、幸い人気のない谷の街道を通る人はいなかった。

 少し経って、ようやく正気が戻りつつある俺は、とりあえずあの女従者の言動から事態を推測してみる。彼女は「この領から失せろ」と宣った。つまり、あの白木の馬車の中にいたのは冴省に領土を持つ貴族の女人だったのだろう。

 南東を目指したあの行列がどこを目指しているのか、詮索する権利もないのだが──結果として、彼女たちと居合わせたことは幸運だった、のだろうか。俺はじわじわと喜色と不安に胸が蝕まれるのを感じる。


 手に余るようなものを持っていて、何か面倒なことにならないだろうか。そんな嫌な予感を胸に仕舞い、隠すように懐に差し込む。大きさ以上の重みが着物を弛ませ、やましいこともないのに、俺は逃げるようにその場を去った。

 天女のような一行と居合わせたことは、偶然の産物として受け取るのみで、それ以上は深く考えないことにする。

 ふと、この金飾りを受け取るのがもう少し早ければ、あの灰毛の老馬を救ってやれただろうかという一抹の痛みが胸に走り、俺も未練がましいなと自嘲する。




 ***




 その日の午後。俺は眩暈を覚えて足を止める。

 路は坂道だった。俺は自分の中で何かのバランスが崩れていくのを感じていた。

 思えば、今までずっと歩き通しだった。蓄積された体調不良と疲労感、空腹はどす黒い無力感となって、じわじわと内側を蝕んでいく。

 何よりも挫けずに進むことが出来たのはあの老馬がいてくれたお陰だったのだと、一人で歩き続けることの辛さを噛み締めていた。

 息を吐いて痛みを逃がしながら、再び足を進める。

 関節のあちこちが痛んだ。斜面になった獣道は、一歩進めるごとに息苦しくなりが、骨が軋む。

 ここで諦めたくなかった。というよりも、諦めたら文字通り死が待っている。助けてくれる人はおらず、前に進んで僅かな希望に手を伸ばすほかない。

 それ以外に、生きる道がなかった。


 最早、考えるという作業には何の意味もない。今ここで死ぬか、一歩前へ進んでそこで死ぬか、そういった次元で生命を繋いでいる。

 白昼の光の中、ただただ無心で歩いていた。春を告げる金縷梅の花が一面に黄色く色づき、どこまでも連なる木立はやけに眩しい。脳に栄養が回らず、思考もままならない。

 ──ふ、と。ささやくような水の流れが耳に届いた。音につられて顔を向ければ、岩陰から染み出すよう、細い湧水が流れをつくっている。水面に垂れかかる翠緑の葉がきらりと裏表に靡いていた。


「──……」


 水でも飲もう。そう思うと同時に足から力が抜け、よろめくようにして地面に膝をついた。今は馴れ親しんだ土臭さが鼻腔につく。

 ふと、雲上渓谷の出来事を思い出す。周囲を見回し、ここが現実であることを確かめ、ため息を吐いて透明な水を掬った。


 ところが、口を開いた途端、食道から何かがせり上がってくるような異常な吐き気に襲われ、口許を覆う。

 ──掌で掬った湧水は、唇に届く前にすべて滴り落ちてしまった。

 身体を折り曲げ、俺はその場に力なく崩れる。辛うじて漏れた呻き声が己の辞世の句になる場面すら過った。下腹部の内臓が猛然と痛み始め、束の間肺が痙攣して息が詰まる。

 立ち上がれない。全身から力が抜け、ここ数週間、ぎりぎりで張り詰めていた極限状態の緊張の糸がここで途切れそうになっている。

 耳元で響く心地良い水音が、やけに穏やかに鼓膜を揺らした。急激に痛みの何もかも薄れ、俺はその場で目を瞑る。

 こんなところで野垂れ死ぬなんて、という思いと、もう嫌だ、という疲れ果てた思いが、脳裏で渦を巻き、混じり合っていた。

 眩い午後の陽光が瞼の上をなぞる。沁みるように水晶体を刺激する白さが、夢の空間に溶けていく。

 ──朧げな意識の向こう、くぐもった囁きが聞こえた気がした。


「……眠っちゃったの?」


 誰かが、ひっそりと息を潜めた。透明感のある幼い声だ。うん、と別の誰かが頷く。


「このまま、死んじゃうのかな」


「可哀想」


 声が頭蓋に反響した。どこからともなく森の奥から囁いている。

 まるで人ではないようだった。花神だろうか。それとも、死神だろうか。

 そのとき、何かが近付いた。くぐもった話し声がする。手が伸び、するり、と懐から何かが抜き取られる。重いものが消えた。


「──!」


 は、と目を見開く。俺は跳び起きた。胃痛は少し和らいだようだったが、動いた瞬間再び内臓が暴れ出し、吐き気がやってくる。

 身体を丸めつつ、懸命に前を向いた。今、誰かがいた。間違いない。霊でも神でもなく、血の通ったネクロ・エグロが。

 俺は、あの気配を探した。頭上で会話をしていたネクロ・エグロの気配を。樹木が生い茂る深緑の林。湧水が滑る先に誰かが隠れている。

 這い蹲るようにして、手を伸ばした。「誰だ」と。空っぽになった身体から絞り出した声は覇気がない。空き缶を蹴ったときの虚しさが、そのまま息になったようだった。

 ──そのとき、予想外のことが二つ起こる。一つ目は、あっさりと樹木の背後から人影が現れたこと、二つ目は、それが見知らぬ痩せた少年だったことだ。


「……」


 思わず、黙り込んでしまった。相手はまるで悪戯を仕掛けた子どものように樹木の陰から半分ばかり身体を覗かせ、こちらの様子を窺っている。

 ぼやけた視界でははっきり捉えにくいが、成長期を迎える直前の若木が真っ直ぐ伸びるようなしなやかな背恰好をしている。目鼻はまだあどけなく、毛先が絡まるような巻き毛がその幼さを際立たせていた。

 思わぬ少年の登場に腹痛も忘れてしばらく固まる。

 こんな場所で何をしているのか。迷子か。どうにか立ち上がろうと片膝をついた俺は、その途中で止まる。

 予想外の出来事、三つ目。少年が分裂した。

 何が起こったのか、目を疑う。身体を半分だけ晒していた少年が、反対側からもうひとつの顔を出したのだ。

 隠れている樹木を挟んで、二つの全く同じ顔がこちらをじっと凝視している。その不気味さに俺はたじろぐ。


「……」


 後から現れた方の少年の顔が、僅かに首を傾げて身を乗り出した。その動作を見て、俺は遅れて冷静さを取り戻す。

 ──彼らは、元々二人で隠れていたのだ。あまりにも面立ちがそっくりなので、分裂したよう錯覚したに過ぎない。


「双子か……?」


 場違いな感心が生まれる。彼らは答えないが、憮然とした様子で顔を見合わせる仕草まで合わせ鏡のようだ。

 時に一卵性双子というのは神秘的なまでに似ている。どちらがどちらなのか判別するのが難しいほどに。

 樹陰から動こうとしない彼らをどう扱うべきか迷い、遠目に声を掛ける。


「……俺に、何か用か?」


 問いかけの言葉はその場に浮いた。双子の片割れが、何かを手にしている──咄嗟に己の懐へと手を突っ込んだ俺は、息を飲んだ。

 ない。あの施し物の金飾りがない。双子へと目を向ける。木漏れ日が差し込み、その黄金の輝きが目に刺さる。

 盗まれた──と気づいたときには既に巻き毛の双子はこちらに背を向けて走り出したところだった。




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