Ⅱ
時間は少し遡る。
冴省に入り、灰毛の老馬の足取りはやけに重かった。
黒ずんだ面長の鼻で何度も浅く息切れして、疲れたよう首を垂れて動かなくなることもしばしばあった。よろよろと頼りなく左右に揺れる背に荷を負わせていると、何やら虐待をしている気持ちにすらなった。
汚れた蹄で一歩ずつ地面を踏みしめている彼女が、何のために俺に付いてきてくれているのか分からない。
彼女には、行き先も目的も見えていないだろう。ずんぐりとした重たい身体を前に引き摺り、俺の手綱に従って付き添っている。ただそれだけの作業なのだ。
馬の食欲が落ち、体調不良が目に見えて症状となったとき、俺は彼女を無理に進めることをやめた。いや、本当はずっと前にそうすべきだったのだが、険しい山道ばかり歩いてきたので、休む場所すらなかったというのが正しい。
ようやく人通りのある街道に辿り着き、たまたま通りすがりにあった城市で馬を診ることが出来る医者を探した。そして、金がないことを理由に蹴り出されたのが二日前である。
文字通り俺を足蹴にした自称獣医は、困っている人間への温情を挟み込む余地すら見せず、こちらの弁明も訴えも蠅の羽音と変わりないようだった。
手立てを失い、腹立たしさと惨めさを抱えてすごすごとその場から逃げるほかなかった俺は、せめて馬の食べ物だけは確保しようと街を出た。
街中は、何をするのでも金がかかる。あの怪しげな豊隆信仰の村に入る前は幾分手持ちがあった気もするのだが、どこかで落としてきたのか、使ったのか、そもそも幾ら残っていたのか記憶にない。
その分、人気のない場所は気楽だった。清流と草があれば、とりあえず馬も俺も飢えは凌げる。いや、俺は人の身であるから、雑草を食べたところで栄養や味など根本的解決にはならないのだが、空腹を多少誤魔化せるのは事実である。
荷を解いて、楽に動けるようにしてやる。老馬は首を折り曲げて地面の匂いを嗅いだが、口はほとんど開けず、食べようとしない。ぶちぶちとオオバコの葉を千切って口元に近づけるが、鼻を逸らされてしまった。
彼女の代わりにそれを口に入れると、何とも言えず吐き出したい拒絶感が口腔全体に広がり、どうにか無理矢理飲み下す。
もう金も食べ物も時間もないのだから、何も食べないよりはましであろう。胃痛は相変わらず、腹部につき纏って離れない。
「なあ、座れよ」地べたに腰を下ろした俺は、老馬に話かける。人間の言語が通じている手応えは薄かったが、せめて気持ちを伝える努力くらいはしたかった。「休んでいいんだよ」
馬は応えない。むしろ彼女は、俺よりも先へ進みたがっているようにも見えた。こんなところで休んでいる場合じゃないでしょうと、俺を叱咤している。
震える足を踏ん張って立っている彼女の姿は雨ざらしになった銅像のように、やつれて痛々しい。
「俺は、別に、お前と白狐さんの命を天秤にかけたい訳じゃないんだ。ただ……」
言葉が続かない。ただ、どうしたらいいか分からない。どうしよう、どうしようという途方に暮れた念が、俺の精神をすり減らしていた。
世捨て人の家が焼けた晩から、どれだけ経っただろう。あのときからずっと俺の肩に寄り添っていた無力感が、未だかつてないほど重たくなって、心を押し潰しそうになっている。
弱っていくものを助けられないことが、これほど辛いとは思わなかった。老馬の横顔は色の抜けた毛で覆われ、そこに色濃く浮かぶ死の気配に気づかないほど、俺は彼女の身体に気を配っていないわけではない。
元々何かしらの病を患わっていたのか、俺との旅で心身が擦り減って発症したのか定かではない。もしかすると湿地帯の水霊の霊気に中ったのかもしれないし、俺が目を離した隙に変なものでも食べたのかもしれない。或いは、老衰なのかもしれない。
いずれにせよ、俺に出来ることはほとんどなかった。嘔吐はしていないから消化不良でもないし、脱水でもなさそうだ。労わるように腹や背を撫でてやっても、症状が良くなる兆しはない。
ただ衰弱していく彼女を眺めることしかできないのは、無力で情けなかった。
無意識に猫背になっていたのだろう。しゃんとしろ、とでも言うかのよう、老馬の鼻づらが俺の背を押した。前に押されたときよりもずっと弱い。そよ風のように。
俺は振り返り、こちらに伸ばされた彼女の顔に手を伸ばす。
「……」
そっと口許や顎を触っても、彼女は嫌がる素振りも見せなかった。両手で彼女の涎で汚れた口を包むようにして、顔を覗き込む。額にかけてささくれ立った毛並みが覆い、白髪交じりのまつ毛の下には見惚れるような黒い瞳が濡れている。
どうして馬の目というのはこんなにも綺麗なのだろう。感傷に耽るでもなく、俺は素直にそう思った。丸い黒硝子のような眼球に、情けない顔をした己の姿が、上下を引き延ばしたよう映っている。
「なあ、どうしたらいい」
鬣を撫ぜながら、俺は消え入りそうな声で彼女に問う。半分は、自分自身への問いかけだった。このままでは手遅れになる。白狐さんのことも、きっと、馬も。
目を瞑り、都を目指して冴省を東へ進んでいるであろう七星一行のことを想像する。
白狐さんがどのような待遇なのか、俺には分からない。ただ、あの不遜な七星たちが彼の存在を歓迎するとは思えなかった。
白狐さんはまだ無事だろうか。そうであって欲しい、と。そんな無責任なことを願う度、心臓を繋ぐ幾つもの動脈がきゅっと縮まるような感触を覚える。
お前が助けなくては、どうにもならないのだぞ、と責められているようだ。
一瞬だけ、翔のことを考えた。あいつと別れて、ひと月あまり。俺は、あの相棒の行方を考えないよう努めている。
死んだと諦めれば、本当にそうなってしまうような気がした。翔がもうこの世にいないと思うくらいなら、今頃たくあん王国にいるのだと思う方が余程楽だった。
老馬の鼻が俺の両手を逃れ、かと思えばこちらの手の甲を押してくる。湿った空気が鼻先から漏れ、その生ぬるさに少したじろいだ。そしてふらふらと俺から離れ、斜めに尻を向ける。早く行くぞというかのように、彼女が首だけで振り向いた。
「……分かったよ」
彼女の方が、俺の直面する危機を現実的に捉えている。そんな気すらした。
愛嬌のある老馬の佇まいは、押したら倒れてしまいそうなほどの疲労に老け込んでいる反面、目に見えない使命感の糸に支えられ、四つの蹄で地面に直立している精神的な頼もしさがあった。
俺は荷物を纏めて、ひと思いに背負う。もう、馬の背に負わせる気にはなれない。ずしりという予想以上の重みが肩に圧し掛かるが、自分で運んだほうが幾分気も楽だ。
彼女の手綱を片手に巻き、俺は再び東へと出発した。
よろよろと覚束ない足取りの老馬に歩幅を合わせ、俯いて歩く俺の横顔を、街道をすれ違う人々が怪訝そうに眺めているのが分かった。
***
それから二日経った今日、老馬が死んだ。
呆気なかった。いや、呆気ないという言い方は無責任だろう。
もしかすると彼女は、道中何度も何度も俺に不調のサインを送っていたのかもしれない。それをどうにもできなかったのは俺の無力さのためだ。
馬が脚を折り曲げて動けなくなってしまったのが夕暮れ時だった。
太陽が西の彼方に萎み、空がだんだん薄暗くなり、あんなにも前に進もうとしていた老馬が息を切らし、立ち上がることも出来なくなったのを見た俺は、やがてそのときがくることを悟る。
湿った土の上に腰掛け、せめて彼女の傍に寄り添う。歩き疲れ、水だけで乗り切ってきた空腹の身体が、膝を曲げて座った途端に疲労感の塊となる。
どうして自分がそんなことをしようと思ったのか、分からない。馬を看取るという明確な意志があったというよりは、そうしなければという自然の秩序に身を任せたというのが正しい。
先に進まなければというぼんやりした焦燥は、しゃぼん玉のよう意識の遠くで揺蕩っている。
奇妙なほど、時の流れが緩慢で穏やかだ。夜が訪れても、寒さはそれほど感じない。苦しみもなく、俺は彼女とともに闇から何かがやってくる、そのときを待つ。
辺りは鬱蒼とした針葉樹の林に囲まれ、街道からはやや外れているため人気はなかった。夜露に濡れた草が地面を這って、老馬の身体はその上に横たわっている。
じっとこちらを見上げる眼差しは相変わらず黒々と濡れていて、神秘的ですらあった。そこに生気の全てが宿っているかのように。
緩やかな彼女の呼吸は、息というよりも心臓が揺れる拍子に漏れた上下運動に近い。今まで老馬が過ごしたであろう数十年の生命活動が余韻となって、ゆったりと脈拍を紡いでいる。
俺に出来ることは何もなかった。ただ彼女の傍に腰を下ろし、ともすれば寝そべるような体勢で彼女の首をゆっくり撫ぜる。短い毛並みが、湿った臭いとともに柔らかい感触を返す。
助けられない無力さか、もう苦しめなくて済むという安堵か。重苦しく、温かいものが胸中に灯っていた。
辺りは森閑とした静寂に満ちていて、夜の暗闇が奇妙な浮遊感となって俺たちを包んでいる。自分たちのいるこの場所だけ、目に見えない仄かな明かりに照らされているようだった。
老馬は、時折瞬きをするほかは、ずっと俺のことを見つめている。そこから感情を読み取ることは難しい。怒っているのか、泣いているのか。或いは、そんなこと全く考えていないのか。
ただ、こんな静かな闇の中にありながら、彼女は俺が近くにいることを認識している。掌に触れられ、大人しくしている。それだけは確かだった。
彼女の顔を眺めているうちに、自然と口から言葉が漏れる。
「……最期に付き合うのが、俺なんかで悪かったな」
老馬は応えない。いや、そんなことはないと首を振ることもなければ、お前のせいだと歯を剥いて責めることもなかった。もしそうやって人間的な思考があれば、俺の気は晴れただろうか、と想像してみる。
彼女に触れていると、その内面の機微が少し伝わる気がする。彼女の瞳の中にあるものを言葉で表現するなら、きっと無だ。何もない。それは空虚ではなく、少しでも穏やかなものだと俺は信じたい。
身勝手だな、と自嘲が唇に浮く。
「……ん?」
そのとき、老馬がゆったりと瞬きをした。何か言ったような気もしたし、気のせいであるような気もする。
曖昧な認識は、ふ、と彼女の瞳と視線を交えたとき、形を帯びる。何かが視えた。川の上流に降り積もった雪が、春先に溶ける、その瞬間のように。
「うん」
俺は、不思議と落ち着いた心地で頷く。老馬はその澄んだ眼球に俺を映し、それきり彼女の思考が俺に流れ込むことはなかった。
夜が仄暗く、その闇を脱ぎ捨てていく。空を廻る天体が、薄く掠れていく。老馬は瞼を閉じていた。
樹陰に寄り添うにして横になり、俺はそのまま彼女のぬくもりが消えるまで、目を瞑る。
静謐に、音もなく、一筋の明け方の光が彼女の魂を連れ去ったようだ。その湿った首筋に触れながら、じっと耳を澄ませた。
やがて俺は立ち上がる。振り向けば、もう動かなくなった老馬が脚を折り曲げて横たわっていた。
土に埋める気にはなれない。不謹慎な、と怒られるかもしれないが、このまま彼女を土中深くに葬ってしまうのは、何だか気が進まなかった。
せめて落ち葉を素手でかけ、その身体を軽く覆い隠す。そして、明け方の空がやってくる方角へと歩き出した。一歩、また一歩と、夜露に湿った地面に足が沈む。
朝が近い。月も星も去って、夜空から降ってくる透明な旋律も、もう聴こえない。
ただ、青い気が冴え冴えと満ちている。どんな朝よりも青い。深い水底に沈んでいるような霧が、音もなく漂っている。
影の中に佇む木立を歩き、ふと振り返る。灰毛の馬の死骸がある場所を目で留め、それから前を向いた。
見送られてばかりの自分が、誰かを見送ったのは初めてだった。いや、と考え直す。──俺はまた見送られたのだろうか。
最後に見たあの老馬の目が甦る。声に出さずとも、そこに宿る光のみで全てを語るあの目を。
──前に進まなければ。
世捨て人の焼け跡を発ってから、今まで俺を突き動かしていた感覚が、胸の中で息衝いている。
立ち去る俺の背を見送った、様々な眼差しが脳裏を巡る。
ここで立ち止まってはいけない、と。そんな思いだけが、この身体を動かしている。
鉛のように重い足を、前へ引き摺る。よろめき、覚束ない足取りを繰り返し、俺の影は朝焼けの中に溶けていった。




