Ⅰ
七星は複雑な組織だと思う。
朝廷の裏を暗躍するという仕事ぶりから畏れられ、或いは忌まれることが多い。誰がそこに所属しているのか知るのはほんの一握りという秘匿性も、怪しさに拍車をかけている。さぞ謎めいた連中が属しているのかと思えば意外と顔ぶれは平凡なもので、七星に任じられた経緯もそれぞれだった。
今の七星の首が就いてからは特に、実力主義を逆手にとって実力さえあれば如何なる経歴があろうと受け入れる、行き場を失くした者にとっての救いの手としての側面が目立つ。枠に限りがあるとはいえ、それで働く場所を与えられ、奴に恩義を感じている者もいるだろう。
その一方で、三ノ星のように高い家柄に生まれながらやむを得ず皇帝に尾を振ることを強いられた者もいて、首の世話焼きが疎んじられることもある。七星内部の結束は決して皇帝への忠誠でも、首への信頼でもなく、たまたま同じ組織に所属したという希薄な偶然性に過ぎない。
先日、周辺の警戒を言い訳に三ノ星が離脱してから一層口数が減り、寡黙な集団となっている。三ノ星はずっと七星を追っている世捨て人の生き残りを追い払ってからまた合流すると言ったが、多分奴が戻って来ることはない。その証拠に、昨日までは見えなかった野宿の煙が、今朝は遠くの山の麓からたなびいていた。三ノ星はあの世捨て人にやられたのだろうか? 有り得なくもないが、きっと七星は裏切られたのだろう。
首は多分気にしない。少なくとも表面上は。七星を率いる首として動揺は何の糧にもならないし、余計な苛立ちは皆を緊張させるだけだと。そういう堂々としたところが首たる所以で、しかし度量の大きさは、実はあまり役に立たない。三ノ星は信頼が欲しかった訳ではないし、こちらもまた同様だ。
そろそろ頃合いかもしれない。司旦は一人で、食事の支度を始める。
***
冴省の険しい山脈を避け、白狐を連れた七星一行は都を目指していた。少なくとも二日前までは。
ここ数日はやけに晴天が続いた。澄んだ空は雲ひとつなく、遥か遠くには雪の解けない山稜が波のように連なり、白と青の陰影を空に塗り込んでいる。ところが、この連日の好天。七星たちにとっては傍迷惑でしかない。
彼らが護送している“影家の狐”こと白狐は体が虚弱で、太陽の光に弱い。そのため天気のいい日は日陰での休息を余儀なくされ、一歩も前に進めず、結果として予定よりもずっと遅れたまま冴省の半ばで足止めを食っていた。
やんごとなき立場の貴人の護送。常ならば造作もない任務も、天気が相手では敵わない。
いつになったら都に辿り着くのか。そんな苛立ちと焦燥を抱え、今日も七星たちは腹立たしいほどの晴天を仰ぎ、やるせない息を吐く。
雁江の河の流れに沿って野営を張ってから、既に二日。雲のような金縷梅の木立が川べりに沿い、遅い春の訪れに色づく冴領の山野は何もかもを投げ出したくなるほど長閑だった。
「嫌味のような晴れ続きだな。何かの力が働いているんじゃないかと疑いたくなるね」
七星の首は、逞しい肩ごしに視線を後ろにやった。そこには移動式の天蓋がつくる影の中に収まり、眠っているのか起きているのかも定かではない影家の狐その人の姿がある。
生まれながらに白髪だったこの白狐という男は、幼少の頃から霊的な力を宿しているとして、崇められて育ったと聞く。首は迷信を信じる方ではないが、七星にとってままならないことが続き、不気味さを覚えたのも事実であった。
まるで、晴天の神が頭上をついて回っているようだ、と。
首は影家の狐とは面識がなかったが、朝廷に勤めていれば彼に関する噂は嫌でも耳にした。帝冠を巡って悪事に手を染めたというからにはさぞかし野心に溢れた男なのかと思えば、そんなに単純な話でもないらしい。むしろ影家の狐は少し捩じれば容易く折れてしまいそうな軟弱で、誰かを毒殺するどころか虫一匹殺さぬ顔の腑抜けであった。
その癖、七星からの冷遇にも眉一つ動かさず、穏やかな海のように謎めいたところがある。きっとこの狐は、皇帝からのあの文が偽物であったことを見抜いただろう。現皇帝は小狡しい文で影家の狐を貶め、その生首を茶番劇の一幕に飾るつもりらしい。自身の威光を知らしめるため、六十年以上前に失踪した一人の男を大掛かりに葬る彼の目論見を茶番と呼ばずして何と呼ぶのか。
そうでもしなければ支持を保てない男に皇帝としての資格があるのか、首には分からない。
首は皇帝の信奉者ではなく、政を乱す叛逆者への抹消にそれほど熱意がある訳ではない。彼が影家の狐に向けている嫌悪はそれとは別の場所から発せられたもので、今回の任務について首が抱いた私情はといえば、皇帝の意への賛同ではなく自分の目で影家の狐その人を見てみたいという好奇心だった。
果たして、この狐は自身が皇帝に貶められていることに気づきながら、何もしないつもりなのか。あんなにも余裕綽々としていられるのは何故なのか。
よもや、自らの立場を理解していない訳ではあるまい。皇帝の人気取りの茶番のため自身の首を晒すつもりなのか。潔く死を受け止めているのか。或いは──。
或いは、何か策があるのか。首にとって、それが最も懸念すべき事態だった。
ちらりと遠目の司旦を一瞥して、首はため息をつく。司旦の横顔は無関心を装っているが、その皮の下に張り詰めた緊張や高揚に気づけないほど鈍くない。司旦もまた、何かを隠している。
彼の経歴を思えば、彼が今回の任務にどんな心境で参加しているのか想像に難くない。そして、何を企てているのか、についても。
出来れば司旦と刃を交える事態だけは避けておきたかった。それよりももっと温和な方向で解決する方が互いのためになるのではないか。
「おい、飯、できたよ」
気が付けばその司旦が目の前にいた。怪訝そうな顔に、「ああ、今日はお前の当番だったか」と答える。影家の狐はその白髪ゆえ不必要に目立ち、今回の護送任務はなるべく人里を避けた路を通っていた。数日の野宿で既に食糧は底を尽きかけ、その場凌ぎの自炊では大したものは望めないが、器用な司旦が当番の日はいつも皆食事が楽しみだった。
「今日は何だ?」
「鴨汁だよ」
河辺の石で作った簡易な竈の上で、骨ごと煮込んだ野鴨の鍋が煮えている。その下では石を使って焼いた主食代わりの芋が煙を立てていて、こちらは幾分食傷気味だが腹持ちがいいので文句は言えない。椀に盛られた鴨汁を受け取り、木の枝で手頃な大きさの芋を掘り起こして、首は食事を始める。
司旦がちらりとこちらを見つめたように思えたが、すぐに自分の分をとってその場で食べ始めた。
正午の太陽が、空の半ばに差し掛かっている。この一帯は比較的地形がなだらかで、渓流の幅も広くて緩やかだ。礫や岩が転がる地面は余計な樹木もなく開け、野営の拠点をするには打ってつけの土地だった。
影家の狐は相変わらず天蓋の内で身動きせず、こちらに関心の片鱗も見せない。七星が食事を持っていかない限り、腹が減ったとも言わなかった。河辺からやや離れたところで大人しく座っている彼は、精妙巧緻な彫像のように見える。
四角形の天蓋には大きな布が日除けとして垂れ下がっている。端々に飾られた金の花飾りが、日差しを弾いてきらり、きらりと揺れていた。
ほかほかと湯気を立てる鴨汁は、骨から味が出て、半透明の汁に脂が浮いていた。鴨肉に混じった僅かな根菜と、河辺で採った山菜を箸で掬い、焼いた芋は黒くなった皮を剥いて塩を振ってそのまま食べる。
「で」
首は口の中のものを飲み込んで言った。「これからのことなんだが」
いつの間にか後ろに二ノ星がやって来ている。既に食事を始めている二人を物欲しげに見下ろしているが、首の話の途中には割り込もうとしない。
「手持ちの食糧は、余裕を持って見ても三日か四日程度。狩りが上手く行けばもっと持つとしても、いずれにせよそろそろ調達に出掛ける頃合いだろう。天気も良いことだし、まあこれは俺たちにとって喜ばしくないことではあるが」
言いながら見回すと、司旦はふふんと形ばかりの笑いを口に貼りつけている。進行が遅れるだけ有利になるのは司旦の方だろうに、首は一瞥を寄越してから続けた。
「それで、確認だ。あの世捨て人の餓鬼はどの辺りにいる?」
二ノ星が答える。
「直線で五里ほど。今朝焚火の煙が見えたのは谷陰だったから、街道沿いの山を登って向こうから来ていると考えていいと思う。相手がこちらの位置を把握しているのなら、という話だが」
「なるほど」
同僚が指さした方角を睨み、首は頷いた。
「俺が行く」
初めからそうするつもりだった首の意図を汲み取ってか、沈黙が流れる。ちらりと司旦の顔を見やれば、一瞬戸惑った表情が過った。わざわざ七星の首が? といった驚きか。或いは突然訪れたまたとない好機に心躍ったか。首は「何か不都合でも?」と挑発的に訊ねる。
「いや」司旦は慎重に言葉を選んでいるようだ。「今すぐ、この場を離れるの?」
「俺の指示がなくなって動けなくなるお前らじゃないだろう」
良くも悪くもそれぞれが自主自立している七星のことである。社会性も協調性もことごとく欠けているこの面子で、今まで平穏にやってきたことが不思議なくらいだ。
首は、この哀れな同僚が七星に与しないことは既に分かっていたが、七星の首として司旦の裏切りを黙認することはできなかった。
とはいえ司旦の生い立ちは同情に値し、彼が今ここで影家の狐のために人生を破滅させるところも見たくなかった。
「……今すぐ、行くんだね?」
司旦は念を押すような口調で、じっくりとこちらを見上げる。いつまでも若い姿を保つ司旦の上目遣いはどこかあどけなさがあり、首にはそれが改心する余地に映る。
「それがどうした?」
「気を付けて。鼠に噛まれないようにね」
そのとき、初めて司旦が口角を上げた。
数日ぶりに見た同僚の微笑みは底知れない深みがあり、首はそこで司旦が長らく背負ってきた年月の重みを思い出す。
無駄だよ、司旦。首は心の中で呟く。お前は負ける。
首は立ち上がり、遠くの山々の稜線を見上げた。正午の太陽を乱反射させる空が、どこまでも続いているようだ。
西から迫る世捨て人の生き残りというのは、彼にとってほとんど別件である。ただ自分がこうして席を外している間に司旦が如何なる行動を取るかということが彼の関心事だった。
無駄だ。例え七星を裏切ったところで、一体どこへ逃げると言うのか。命を賭してでも、と司旦は考えるだろうか。そんなものに命を懸けるな。お前が逃げるなら俺がどこまでも追い詰めて、理解させてやる。
無駄なんだよ、と。
背後の司旦を振り返り、次いで二ノ星を見やり、七星の首はこう告げる。
「あの世捨て人の餓鬼を始末して、それから食料を調達してくる。俺が戻るまでここで待機していろ」
「……」
「良心に反することだけはするな」
忠告、或いは懺悔を促す言葉を、司旦は少なくともその意図だけは受け取ったようだった。河川の流れに沿って吹く風が、ふわりと髪を撫で上げる。
「……うん、分かったよ」
そう言った司旦の俯いた顔を、首は覚えていない。
***
馬を一頭と、世話役として付き添っていた従者二人を連れた首が昼下がりの森の陰に消えるのを見送る。
「首がわざわざ出向くほどの相手か?」
「さあね。それより食糧調達を口実に従者を気分転換させたかったんじゃないの」
ふうん、よくできた兄貴だな。二ノ星が低い声で呟くのを、司旦は肩を竦めて深くは応えない。
代わりに考えたことは、あの首は“いい奴”なのだろうということである。思えば自分も二ノ星もこの国の被差別民で、行き場もなく金もないところを七星に加入させて職を与えてくれたのが彼だった。御託を並べるより行動することで信念を示す彼の真っ直ぐさは司旦には眩しかった。
多少受け入れがたいものと対峙しても、いつかは理解し合えると長い目で接することができる。そういった類の人間。
ゆえに裏切りの気配を察しながらも最終的に良心に従った行動をするだろうと、馬鹿正直なほどの信頼を託してこの場を後にしたのだろう。或いは、司旦を打ち砕くことなど容易いと踏んだのか。
それが正しかったのか、答えは既に出ている。
目線を下に落とせば、中途半端に食べかけとなった鳥汁が鍋の中で湯気を立て、首が置いていった碗はきれいに空になっている。
丸一日。司旦は頭に地図を思い浮かべ、両足に力を入れて立ち上がった。そして、片方の膝でそれとなく蹴って、鍋を倒す。「あ」という声が漏れたのがどちらの口だったのか、判然としない。
思いのほか派手に引っ繰り返ってしまった鍋は底を向き、汁のかかった焚火がしゅう、と怒ったように蒸気を吐いた。無造作に飛び散った汁が礫の間に染み込んでいく。
「あーあ、勿体ない」二ノ星が何かを言う前に、司旦はため息を漏らした。食べ物を無駄にしたという後悔は嘘ではない。
「洗わなきゃ」
「俺の分の飯は……」
「分かっている。作り直すってば」
黒ずんだ鍋を拾い上げた司旦は、そこではたと気が付く。
首が連れて行ったあの従者たちも食事をしていなかったのでは。
七星は、というより朝廷に属する者は序列に厳しい。食事をする順番が階級や年齢に倣って決定されるのは当然のことで、この場で最も立場の低いあの馬の世話役たちの番が最後になるのも自然なことだ。とはいえあの二人はまだ子どもで、どんなに遅くなろうとも食事を要らないと言ったことはなかった。
勘付かれたか? いや、まさか。
辺りは閑散としていた。渓流の流れる音は絶え間なく南へと続いているが、開けた景色に動くものはほかにない。天蓋の中には、相変わらず影家の狐が大人しく目を瞑っている。
「司旦、どうかしたか? 顔色が良くないぞ」
顔を覗き込まれ、我に帰った。冷汗が伝った気がして、さり気なく背筋を正す。
「いや、何でもない」
司旦は形だけそう言う。勘付かれたとして、子どもに何ができる。
それでも嫌な影のようなものが胸にちらついて消えなかったのは、司旦にはあの二人の気持ちが分かったからだ。従者とは要は雑用で、馬の世話なんかは面白くもない仕事として軍人の中では軽んじられることも少なくないが、従者には従者の義がある。
誰かのために尽くすということ、命を賭すということ。司旦にはそれがよく分かる。
この七星という特殊な組織の中で、恐らく最も固い結束を持った首とあの従者たちを己のそれに重ねてみて、司旦は仄暗い気持ちで微笑んだ。
天蓋にかけられた金の花飾りが陽射しを受けて煌めいていた。




