Ⅶ
「──さて、動物は人間に見返りを求めないけれど、僕はネクロ・エグロだからね。君を、ただでは行かせない」
急に彼がそんなことを言い出すので、目をぱちくりとさせてしまう。「色々助けてあげた見返りを要求してもいいかな」と改めて言われ、彼は俺と取引がしたいのだと察した。
「君は僕に恩があるね。だから、あまり好きではないけれど、恩を着せることにしようと思う。つまり、僕がここにいて君の治癒をしたことや、色々と喋った内容は誰にも言わないで欲しい」
「はあ」
「特に、他の七星には」
なるほど彼は、自分で裏切った彼らのことを気にしているらしい。
七星と千伽──三ノ星にとっては、後者のほうがより怖いから従った。それだけに過ぎないのだ。
声が大きいものにばかり従って、他人の顔色を窺い、当たり障りなく生きている──そんな小心者の彼に、俺が何か文句を言えた口でもない。俺は同情も込めて肩を竦めた。
「臆病なんだな」
「分からないかい? どっちつかずの日和見主義は、結局どちらからも攻め込まれやすいってことなのさ」
「自覚があるなら」しっかりしてくれ、と文句すらも続かない。「皇帝直属の隠密隊が聞いて呆れる」
彼は薄い肩を竦める。その青白い頬を微かに緩ませ、開き直りと諦めが同居した表情でこう言った。
「昨日の味方は明日の敵。これ、朝廷社会の伝統だから」
「……」
「次に会うときは敵かも。ううん、どちらかが晒首になっているかな。そうならないことを願っているよ」
その言葉がただの冗談とも思えず、何だか気圧された俺は、そうだな、と短い返事をするので精一杯だった。
彼の言い分は義しくはなかったが、きっと嘘ではないのだろう。静まり返った湿地の水面が、それを寒々しいほど証明していた。
無言のまま馬の手綱を握って立ち上げらせた俺は、夜が明けないうちに動き出すことにする。七星を追うなら早めに発たなければならない。それに、あの異端の村から極力離れなければ、真に脅威が去ったような気がしないのだ。
「お前はどこに行くんだ?」
「臆病者は、尻尾を巻いて逃げるに限るよ。あとはご自由に。僕はもう、僕の役目を果たしたと思うから」
出来ればこれ以上この件に関わっていたくない。三ノ星の言動の端々に、そんなものが滲む。
つれなくされては、俺もそれ以上彼に会話を強いる気になれなかった。彼自身もまた誰かに翻弄されるひとつの駒に過ぎないのだから、立場を悪いほうに追い込むのは本意ではない。
それじゃあ、と俺はぎこちなく踵を返しながら、岸辺に佇む三ノ星の男に声を掛ける。
「何だ、その。色々と助けてくれて、ありが……」
「礼なんて要らない。僕は人を裏切っただけ。感謝されても全然嬉しくないよ」
別れの挨拶も、彼は素っ気なく払いのけた。それもそうだな、と前を向いた俺はもう振り返らず、夜更けの冴省の地を踏んだ。ふらふらと覚束ない足取りの老馬が後に続く。
月のない夜、濃霧はやがて静かな小雨に変わっていた。
歩き出した俺の胸中には、考えなくてはならない不安要素が風船のよう一杯に満たされている。三ノ星とのやり取りで明らかになった、この一連の出来事のもうひとつの側面である。
千伽のこと、三光鳥のこと、司旦のこと。そして己の進む道が本当に白狐さんを救うことに繋がるのか──漠然とした嫌な予感が影の如く付き纏っている。
この俺に司旦暗殺を命じた千伽の思惑は、まだ見えない。
***
三ノ星は、世捨て人が馬を引き連れて湿地を立ち去るのを、その姿が闇に隠されるまで見送っていた。
──寂寥と一抹の不安。その痩せ細った体躯にあまりにも重たい荷物を負った彼の背は、やがて遠く霞んで見えなくなった。
最後に何も言えなかったのは、彼の向かう先の道筋が少しばかり見通せたためだろうか。彼には未だ見えていない運命の落下地点が、三ノ星には薄っすらと予想できた。
先程彼と話していた最中、気づいたである。此度の騒動、そしてあの世捨て人の子にそっくりな男の顔──もしかすると、千伽の密約の目的は、司旦を殺すことではないのかもしれない、と。
「千伽様は、本当に人が悪い……」
思わず漏れた言葉は、あの傍若無人な貴族の当主を知った日から繰り返し胸中に浮かんだ畏怖でもあった。何度浮かんでも色褪せない、恐怖。脳裏を過るのは、問答無用で人を惹きつける千伽の紫の眼差し。
あの魔性の瞳を付けられたものは、その歯牙から絶対に逃れられない。絶対に。
その上、此度の騒動は戯れなどではない。誰の目から見ても、千伽は本気だった。
六十二年前に彼を失脚させた、あの綺羅という得体の知れぬ官人への報復。千伽にとって無二の友である白狐を公然と辱められた復讐。
千伽と綺羅──水面下の政争の火蓋は切って落とされた。当今皇上をも中心に巻き込んだ争いは最早嵐の如く、周囲をことごとく破壊するだろう。
しかし、千伽が何を企んでいるにせよ、「影家の狐」が朝廷で立場を取り戻すのはきっと難しい。三ノ星は漠然と耽った。
あの方は既に朝廷から排除された身、例え周囲の感情がどうであれ、当今皇上のご決断を覆すのは至難である。皇帝の権力は絶対絶大。暗愚な当今皇上は、影家の狐を殺す以外に脳がないと見える。
真に警戒すべきはあの綺羅という男の方かもしれない──。
冷たい夜風が吹き抜け、鳥肌が立って身震いする。詮索しすぎだ、と夜が咎めたようだった。
部外者にとっては、どこに傾いても同じことのように思われる。ただ己の凡庸さを自覚した者は、巻き込まれない内に逃げるが勝ちだ。
世捨て人が向かった方角とは真逆に足を向け、三ノ星は足早にその場を立ち去った。湿った地面を踏む足音が、夜闇に吸い込まれていく。
この状況下、司旦はどう動くのだろうか──そんな心配ともつかぬ人並みの好奇心を、胸の内で殺しながら。




