Ⅰ
長遐の山岳の冬は長かった。
春の足音は麓からやってくる。標高のある世捨て人の家では三月の終わりに差し掛かってもまだ尚、根雪が泥の中にしがみつき、地面を沼のようにぬかるませた。
土汚れた根雪の山が樹陰などに残るのは、風情あるとは言い難い。足が濡れるのも憂鬱な気持ちになる。
雪と氷に閉ざされた数か月を山奥で強いられ、俺はほとほとうんざりしていた。柔らかな陽だまりのぬくもりと、山々に咲きこぼれる緑が恋しかった。
「俺も、春が一番好きだよ。なあ、皓輝」
親しく俺の名を呼ぶのは、相棒の翔である。十五、六歳ほどの若い容姿で、正午近い陽光を受けて眩しそうにすれば、その目尻に皺が寄る。髪の毛先が風に遊ばれ、快活そうにきらきら光っていた。
そうだな、なんて相槌を打ち、俺は周囲に広がる寂しい稲田を見渡す。すっかり稲が刈られ、丸裸になってしまった農閑期の田だ。味気ない冬が地面にこびり付いているように見える。
今日、俺と翔は孑宸皇国最西の省、その田舎にある小さな邑──すなわち名もなき村落を訪れていた。
長遐の山岳に住む世捨て人は人里に出ることをあまりしない。人目を憚り、浮世から身を隠すようひっそりと暮らす。
そんな彼らも月に一度はこうして邑に下りては山暮らしに必要なものを買い揃えたりするのだが、雪が降ってからは出歩くこともままならず、人里に出るのは本当に久しぶりだった。
ある事情から彼らと生活を共にすることになった俺も、同様に隠遁な暮らしを始めてかれこれ一年が経とうとしている。今ではすっかり山の生活も板につき、大抵のことは自分でこなせるようになったのも成長の証と言えよう。
蛇行する舗路を曲がり、木造の民家が立ち並ぶ通りに差し掛かる。田園にまで流れる水路を渡れば、人々の喧騒がにわかに風に乗ってきた。
長閑な田舎町の風景は穏やかな日差しに溢れて暖かい。埃っぽい雪に埋もれていた間は忘れていた、懐かしい匂いだ。久し振りに人間が生きている空間にやって来たようだった。
「何だか、初めてここに来た日のことを思い出すな」
「ああ」翔が口を開けて笑う。「今日は、七星に鉢合わせしなければいいな」
以前巻き込まれた冤罪事件のことを言っているのだとすぐに分かり、心から同意した。
神隠しされた俺が“この文明世界”に来てから初めて世捨て人の買い出しに付き合った折、七星という皇国の隠密隊に人違いで追いかけられたことがあった。今となっては懐かしいが、結局誤解は解けないままだったので警戒するに越したことはない。
***
にわか雨が降ってきたのは、それから間もなくしてからだった。
ぱらぱらと音を立てて雨粒が落ちてきたかと思えば、たちまち獣の咆哮じみた雷鳴が轟く。怪しくなる空模様を煩わしげに一瞥し、雨宿りに走る人、気にせず闊歩する馬、慌てて売り物を仕舞う露天商と、賑わっていた目抜き通りは慌ただしくなった。
「雷乃発声か」在郷の民家の軒先を借り、翔はやけに嬉しそうだった。
「何だ、それは」ほとんど聞き取れず、耳を傾ける。
「この季節の雷のことさ。豊隆が鳴いて、恵みの雨が降らせる。よき春の訪れだ」
「へえ」
豊隆とは、この皇国で信奉される古の巨鳥である。宇宙の中心、雰王山の頂に棲まうとされ、その声は嵐を呼ぶのだとか。少なくとも、この国の人々はそう信じていた。
季節の変わり目は大気が不安定になる。雷や雹が降るのも珍しくはない。それが霊鳥の仕業なのかはさておき、さしあたって俺は頷いておくことにする。
俺は皇国民の信仰する天学を頭から鵜呑みにしている訳ではなかった。かと言って科学──と俺が信じているもの──と戦わせるのは、あまり賢明ではない。
彼らには彼らの秩序があり、俺には俺の秩序がある。それだけの話だ。
俺と翔は通りに面した民家の漆喰の壁を背に、空を仰いでいた。軒先から忙しなく垂れる滴が着物の肩口を濡らす。湿った埃っぽい匂いも、水の跳ねる音もしっとりと肌に馴染んで心地よい。
久し振りの人里に、俺たちは心なしか浮かれていたのだろう。人混みに紛れてちらりと垣間見えた、見覚えのあるビタミンカラーに気付くのが遅れた。
「や、久しぶり」
するり、蛇のように身体を滑らせ、その男は瓦の軒先を潜ってきた。あまりに自然な所作で隣に並んだため、俺はしばらくその場から動けない。
まるで待ち合わせをしていた相手をようやく見つけたような、そんな口調だった。「こんなところで会うなんて、奇遇だね」語尾の軽さに予定調和が滲む。俺と翔は束の間、呼吸も忘れた。
顔を見合わせ、頬を引き攣らせる。
「噂すれば何とやら、だぜ。皓輝」
「参ったな」俺は心の底からため息を吐き出した。参った。本当に、参った。七星だ。
それは確かに“あのとき”の七星の男だった。
不穏ともとれる微笑みが、彼の異国情緒的な雰囲気を引き立てている。人々の間を縫って現れた彼は、草むらの中に一輪だけ咲いた向日葵のような唐突さで、にわか雨の空の下ではより鮮やかに映った。
派手なビタミンカラーが印象深い彼は、名こそ忘れてしまったが、かつての冤罪事件で俺を追いかけてきた男に違いなかった。
「確か、お前は、ええと」
「司旦ちゃん、だよ」男は星を弾き出すように片目を瞑り、名乗る。
「皓輝、逃げるぞ」
耳打ちしてきた翔に、短く首肯する。言われるまでもない。この軽薄な七星にはなるべく関わりたくないものだ。ろくにこちらの言い分を聞きもせず、拷問紛いの脅迫を受けたことを俺たちは忘れていない。
途端に右手首を掴まれる。司旦のにやけ顔がそこにあった。表情とは裏腹に、俺を捕まえたその手には凄まじい力が込められている。
逃げちゃ駄目だよ、と彼は意味ありげに片眉を持ち上げた。
「吉草って、知ってる?」
「……いや」
「眠り草の一種でね。ちくっと刺せば、大の大人でもたちまち気絶しちゃうんだけど」無邪気なほど声が弾んでいる。
「量を間違えると発作を起こして、そのまま目覚めなくなるんだって」
「なるほど……」
呻く。司旦の掌には細身の毒針が仕込まれているらしかった。勝ち誇ったような彼を一瞥し、はったりでもなさそうだと悟る。
翔はもどかしげにこちらを眺めていたが、俺が一歩も動けない状況であることに気づくと、今度は目の前を行き交う人々を真剣な面持ちでじっと凝視していた。恐らく、司旦を殴るかどうにかして逃げる算段をつけているのだろう。
曲がりなりにも皇国に仕える軍人相手に騒動を起こせばどうなるか。俺の口はため息しか出ない。雨足は随分と弱まっていた。
「まあ、安心してよ」司旦は全く安心できない毒を仕込んだ針を俺の手首に押し付けながら、歯を覗かせる。「別に今日は、君らを酷い目に遭わせようなんて考えていないから」
現在進行形で酷い目に遭わされているのだが。という呟きは、この七星の耳には届かなかったらしい。
「俺、君たちにお願いがあって来たんだ」
司旦の発言の突飛さに、しばらく理解が追い付かない。「お願い?」と訝しげに声を上げたのは翔で、「脅迫の間違いじゃないの」と不満げに口を尖らせている。
全く、その通りである。例えその毒針に目を瞑ったとして、俺たちが彼の要望に応える義理がどこにあるというのか。
急ぎ足で行き交う人々は灰色に曇って見えた。動いているのに、現実味が欠けている。彼らには、偶然軒先で出くわした三人組が仲良く雨宿りしているようにしか見えないだろう。助けを求めたところで、たちまちちくっとやられるのが関の山だ。
「で、お願いって何だ」俺は渋々口を開く。聞いてやるつもりはなかったが、訊かねば話が先に進まないようだった。
すると司旦は意外にも自身の懐に手を突っ込み、かと思えば何か大きな箱のようなものを取り出す。俺は瞬いた。よもやプレゼントを渡されるとは思わなかった。
「これをね、届けて欲しいんだ」長細い箱を俺の手に押し付け、司旦は声音をやや低める。周囲の目を憚っているのが見て取れた。
俺と翔の視線は、その箱に釘付けになる。大きさは片手で抱えられる程度。顔が映るような漆塗りに艶のある金箔が散らされ、蝶が彫られ、一目で高じきなものだと分かる。司旦が持つにしても俺が持つにしても、大袈裟なほど豪華で、どこか芝居がかっている。
中には何があるのか。振って確かめようとした俺の耳元で、翔が息を飲んだ。
「あっ……その紋は」
何か言いかけた口は、司旦の一睨みに素早く封じられる。俺は二人の挙動を不審に思い、手の中の箱をよくよく観察する。そして、右下に彫り込まれた紋様があることに気が付いた。
恐らく、判子の役割を果たしているのだろう。翔の反応からして何かしらの由緒あるものらしい。立派な装丁からも察するよう、少なくとも俺たち下賤の世捨て人が手にしていいものでないことは分かる。
「これは何だ?」
俺は、これを司旦に押し返したい心積もりで眉を顰めた。厄介事は避けたかった。
「大事なものだよ」司旦の答えは、力強い口調の割に漠然としていた。「すごく、大事なものなんだ」
翔は戸惑ったように、正論を吐く。「その大事なものをさ、俺たちに託してどうしたいの」
「お前らにしか頼めないんだ。俺はそちら側には入れないからね」
「そちら側?」
「長遐の山岳の、山間の霊場さ。お前ら、そこに住んでいるんだろ」その口ぶりは、推測というより確信だった。一体どうしてこの七星は俺たちの住居を知っているのだろう。
「あそこは自然霊の力で守られているから、俺みたいなよそ者は入れないじゃないか」
「待て。さっきお前、これを届けて欲しいって言ったよな。誰に届けるんだ?」
混乱しているのか、翔の舌は絡まっている。本当は、訊くまでもなく答えは分かっていたのだ。
俺でも翔でもないなら、長遐の住んでいる人は一人だ。しかし、確かめずにはいられなかった。
そのときの司旦の顔は、ほんの刹那、まるで人が変わったようだ。
「影家の白狐様に」
翔は息を止めていた。隣にいる俺には、翔の動揺が生々しく伝わる。びゃっこ、さま、と小さく呟いた。何か大切なものを手放すような言い方だった。
それは紛れもなく、共に暮らしている世捨て人の主の名であるのだが、恭しく敬称を付けて呼ぶほどの身分とは思えず、いや、それ以前にどうして司旦は白狐さんの存在を知っていたのか。何故、彼が長遐に隠れ住んでいることを知っていたのか──。
口を真一文字に結んだ七星の顔に、俺は背筋が粟立つような嫌な心地を覚えた。 “白狐様”という語には、俺が考えたこともない未知の可能性が秘められているようだった。
司旦はそれぞれ俺たちの顔を交互に見比べ、神妙に言い聞かせる。
「いいかい。その書簡を必ず白狐様に渡して欲しいんだ。必ず、だよ」
「……嫌だと言ったら、どうなるんだ?」
率先して口を開いた翔は、どこか険のある言い方をした。それは無駄と分かっていながら親に反抗せずにはいられない子どものようだった。
司旦も聞き分けのない子どもに苦労するような素振りで、大きくため息をつく。腰に両手を当て、さながら母親のようだ。
「吉草って知ってる?」
「その話は、もういいよ」
「分かっているなら結構」
満足げな笑みをひとつ。それは勝利宣言にほかならず、俺と翔は返すべき言葉が見つからない。口を半ば開けてみても虚しい息ばかりが漏れ、ただただ立ち尽くした。
「雨、止んだみたいだから、俺行くね」
司旦がそう告げたのは、それからどれくらい経ってからだろう。
「白狐様によろしく」と身を翻す。さすが軍人の端くれと言うべきか、素早い身のこなしで雑踏に紛れ、そのビタミンカラーの背はあっという間に見えなくなる。
残された俺たちはしばし呆然とした。手の中の書簡箱に視線を落とし、顔を見合わせる。翔は頬を青ざめさせ、何とも情けない表情を浮かべていた。巣に取り残された雛鳥のようだった。
いつの間にやら雨は止んでいた。目抜き通りには活気が戻り、あちこちに出来た水溜りが馬に踏まれて弾ける。ぱしゃんと撥ねては、ゆらゆらと景色を逆さに映している。
大気に残った水粒が場違いな煌めいていて、俺たちの現実感はなかなか戻ってこなかった。
「──ああ、虹だ」
笑ってしまうほど抑揚の失せた声で翔が言った。胸に溜め込んでいた淀みを空に向かって吐いたようだった。
その視線の先に目をやれば、確かに屋根に切り取られた頭上を横切り、見事な円弧の架け橋の一部が見える。雲間から差し込む光の加減で空を七色に彩り、薄く溶けかかっている。
俺と翔は揃って首を擡げ、互いに何も言わなかった。
「本当は縁起のいいものなんだけどなぁ」
翔が指しているのが虹のことだと気付くのにしばらくかかる。俺は乾いた笑いを零した。
「吉祥の印か。皮肉が利いている」
「全く」
翔の横顔の唇にきつく噛んだ跡があることを指摘しようとして、やめる。表情が痛々しい。
ただ俺の手の中には現実的な重みがあった。軽く持ち上げ、首を捻る。
「これ、どうする──」
「隠せ」
言い終わらぬうちに俺の視界はばさりと覆われた。むっと生暖かいぬか臭さに顔を顰め、それが相棒の外套であることを理解する。頭から被せられた布の中でもぞもぞともがき、ようやく顔を外に出した。
「何だよ、急に」
「それ、隠しておいた方がいい」翔の顔は相変わらず固い。「盗人扱いされたくなければ」
「あの七星に会うとろくなことが起こらないな」
俺は仕方なく、例の書簡箱を懐に仕舞い込んだ。厄介なものを頼まれてしまった、と肩を落としながら。
訊きたいことはたくさんあった。この書簡が何なのか、翔は大方予想がついているに違いない。恐らく、司旦の口にした“白狐様”という恭しい呼び名の意味も。俺の相棒は凄まじく勘のいい男だから。
虹はすっかり溶けて消えていた。随分長いことこの軒先を借りていたらしい。俺と翔は肩を並べ、足を引き摺り、当て所もなく歩き出す。
俺は、頭から司旦のことが離れなかった。通り雨のついでのように現れ、ぽん、と気軽に爆弾を置いて行ったあの男のことを。
やがて湿った空気を吸い込み、翔がため息をついた。「その書簡の中身は、開けてみなけりゃ分からないんだけどね」
「何だ、分からないのか」
「多分良くないことが起こるよ」
翔は小さく口を尖らせ、感情をどこかへ押しやったような声を出した。