Ⅴ
近くで見るほど、三ノ星は当たり障りのない大人しそうな男だった。人に言われるまま生真面目に生きてきた、そんな印象を受ける。
二十代そこそこの軟な若者のようでもあり、三十路を過ぎた思慮深い大人のようでもある。背筋は少し曲がり、神経質そうな声をしていた。もっとはっきり喋ればいいのに、と他人事ながら思う。
先程、彼はあの不思議な鹿の鳴き声のような音で、湿地の主たる水霊を去らせた。追手の群れを一掃したあの巨大生物を、ひとつふたつの合図で退却させたのである。
怪物が、飼い慣らされた犬のように殊勝な顔で水底に沈んでいった光景は珍妙だった。なるほどこの七星は霊使いらしい、ということは分かった。
そんな霊使いの彼がどれほど信用に足るものなのか、果たして予測がつかない。ただ、他にどうしようもないのも事実。
そうして、乾いた岸辺に上がった俺は淡々とした彼に命じられるまま、服を脱ぎ、背中を診られるに至った。
もうどうにでもなれ、と自暴自棄気味になった俺とは裏腹に、七星は存外丁寧に清水で傷を洗ってくれる。その手つきに同情や優しさはほとんどなく、かといって敵意や殺気もない。冷たい水が沁みるのはどうにか我慢する。
右の手の甲は自力で止血した。彼から貰った清潔な布を巻き、強く結ぶ。
「ああ、これは酷いね」
矢が突き刺さったままになっている生傷が露わになったとき、三ノ星は痛々しそうに顔を顰めた。それだけで、怪我の状態が思わしくないことが分かる。
「……相当痛いと思うから、布を噛んでいるといいよ」
彼が神妙な面持ちで矢の箆に手をかけたとき、俺は覚悟を決めなければならないことを悟る。そう、遅かれ早かれ抜かなければならない。
言われた通りに自身の袖を上下の歯列で強く噛んだのだが、結論としてほとんど役に立たなかったと思う。
三ノ星が勢いよく矢を引き抜いた瞬間、矢先の鋭い返しの部分が肉を抉り、俺は断末魔のような絶叫と嗚咽を漏らして悶絶する羽目になった。激痛のあまり、気絶したほうがましだと白目を剥くほどだった。
引き抜かれた瞬間、肩付近の皮と肉片が多少飛び散ったように錯覚したが、最小限の被害であると信じたい。どくどくと全身の血管が脈打ち、今まで矢尻によって押し止められていた傷口から血流が溢れてくる。
倒れて身体を丸めている俺を押さえ、素早く止血する彼の手つきは、少なくとも俺を虐げようという悪意などはないようだ。
「毒矢でなくてよかったね」三ノ星はか細く、感慨のない声で呟いた。そして自己完結する。「ああそうか、あの村の住民が獲物に毒を盛るはずないか」
「それは、どうして……」
話の内容に関心があったというより、条件反射で話題に返事をしたという方が正しい。今の俺に、まともな思考は不可能だ。
紐のようなもので脇から肩まで固定され、強く引っ張られた途端、絞め殺された猫のように苦しい呻きが漏れる。お陰で、それに続いた彼の恐ろしい言葉を聞き逃すところだった。
「だって、身体に毒が入ったら食べられなくなるじゃないか」
「……え……」
何だって、と訊き返した声も息絶え絶え。うつ伏せになった俺は顔だけ横に向けぐったりする。食べられるということは、やはり、あの村は……。
考えたくもないことを考えた。三ノ星は無言のまま俺の傷口に包帯を巻いていたが、半ばまで差し掛かってようやく薄い唇を開く。
「何も知らずに足を踏み入れたんなら、運が悪いとしか言いようがない……あそこは、異端の豊隆信仰をしている村なんだよ」
「異端の、豊隆信仰……?」
「そう。聞いたことない? 〈第三の天子思想〉って」
俺は少し間を置いて、首を振る。相手の話している情報を上手く消化できなかった。白い包帯が傷を覆い隠すにつれ痛みが少し引き、俺は緩慢とした言葉を紡ぐ。
「豊隆っていうのは……雰王山に棲んでいる霊鳥の……?」
この世界に来てから、その名は幾度となく聞いたことがあった。宇宙の央と定められた霊峰、雰王山。その頂には、あたかもこの世界を守るかのよう、豊隆と呼ばれる巨大な鳥が巣をつくっている。豊隆の声は雷を呼び、羽搏きは嵐を生む。
神鳥の伝説を、東大陸の住民なら知らない者はいない。斯く言う俺も、此度の千伽との密約を誤魔化すため、雰王山に廻国巡礼に行く旅人の振りをしていたではないか。──しかし。
「豊隆信仰は異端なのか? ……知らなかった」
俺は寝そべった体勢で、相手の顔を見やる。三ノ星はさして表情を動かさない。
「少し複雑な事情があってね、昔豊隆信仰が流行ったとき、その思想を支持した過激な民の一部が、お上によって弾圧されたことがあった。まあ、君みたいな田舎者には関係のないことかな」
そこでひとつ息を吸って、彼は眼を伏せる。
「そのとき迫害されて、生き残った民がああやって目立たない日陰に村落をつくり、細々と異端思想を伝えているってこと」
「……人間を食べるのも、その思想の一端なのか?」
俺は自分の言った言葉にすら吐き気を催すようだった。実際に俺は、殺された人間と思しき肉が、あの村人たちの口に運ばれているのを目の当たりにしたのである。
「そう、聞いた話によると」三ノ星も、この話題を口にするのは気が進まないらしい。ぼそぼそ聞きとりにくい声で続ける。
「豊隆に捧げる贄と称して、迷い込んだ旅人を喰っているらしいね」
何か言いかけた俺は、力なく口を閉ざす。どんな理由があれ、同族を殺して喰らうような犬畜生に、わざわざかけてやる言葉などないように思われた。そして、なるほど、彼らがお上から迫害されたのも頷ける、と勝手に納得したりした。
俺が雰王山に廻国巡礼しに行くと話したとき、酒楼にいた男が「本望だろうね」と呟いたのを思い出す。それはつまり、豊隆を崇めるものとしてその生贄になるなら幸せだろうね、という意味に違いない。
平然とそんなことを宣った村人のことを思えば、先程彼らが水霊に食われた光景に何の感慨も湧かない。爽快感こそないが、大勢の人が死ぬのを目の当たりにした割に、俺の心は冷静沈着だった。荒んでいると言ってもいい。
「まあ、君が叉焼にならなくて良かった。もしそんなことになれば、僕の首が危なかった」
包帯を巻き終えた彼は、とんとんと自身の首を指で指し示して見せる。
治療が終わったことは理解しても、体力の尽きた俺は起き上がることもままならない。結局背中の傷が地面に当たらないよう、身体を横にして眉を顰める。
「お前は、千伽様に懐柔されて、俺の命を守るようにでも言われたのか?」
「うん」三ノ星の答えは簡素だ。彼はこの辺りで俺を待ち伏せして、無事に冴省への境を通過するか見張っていたらしい。
「実のところ、最初からずっとだ。君たちの家を燃やした晩、君は森に逃げ込んだだろう。僕は後を追ったけれど、藪の中に隠れていた君を見て見ぬ振りしてあげた」
「……」
呆気にとられ、声が出ない。あの悪夢のような一夜が思い出される。一体俺は、どこまで彼らの掌の上で踊らされれば気が済むのだろう。己で成し遂げたことなど何ひとつないのではと目の前が暗くなるほどに。
「……つまり」ようやく喉から押し出された声は、掠れていた。「お前は、他の七星を裏切った、ということか?」
「まあ、聞こえは悪いけれど」
そういうことになる。口数少なく頷く三ノ星にとって、俺の反応は概ね想定内だったようだ。彼の眼差しは同情的でもなく、冷ややかでもなく、未だ敵味方の区別が判然としない。
むしろ三ノ星の言動は情動に乏しく、彼自身もまた誰かの掌の上で踊る駒のひとつなのかもしれない、と思う。
「実のところ、僕も全ての事情は把握していない。何故千伽様が君のような子供に目を掛けたのか、よく分からない」
それは俺も知りたい、と心の中で相槌を打つ。
「ただ、君だけは絶対に殺すなと密命を受けた。僕も命が惜しい。家族を危険に晒したくない。だから、二つ返事で千伽様に従った」
なるほど、脅迫されたのは俺だけではないらしい。俺の胸に湧いたのは目の前の三ノ星への同情よりも、むしろ彼の言葉の端々から浮き彫りになる千伽の酷薄さの方だった。
俺の傍に両膝をついて座る三ノ星は、そこで初めて目に光を宿す。「でも」と。
「もし、一介の軍人に好奇心というようなものが許されるなら──僕は君にこう訊ねたかった。君は、一体誰の味方なのかと」
「……え」
間の抜けた声で聞き返してしまったのは、そんな分かりきったことを訊ねられた意図が読めなかったからだ。三ノ星の脳裏には、白狐さんの他に一体どんな選択肢が並んでいるのか、見当もつかない。
そんなもの、決まっている。そう言いかけた俺は、次にぶつけられた彼の言葉に絶句し、何もかもが吹き飛んでしまった。
「つくづく、君は得体が知れない。白狐様と山で一緒に暮らしていたかと思えば、綺羅様の傍に侍ったり、誰の味方なのか分からない。一介の世捨て人が、どうして朝廷に出入りできたの?」
「は?」
「だって君、よく朝廷に出入りしているじゃないか。だから君は、昨年の暮れから千伽様に目をつけられて……」
空気が凍り、寒気を覚えるほどの沈黙が流れた。夜の暗闇がより一層濃くなったように思えた。まるで異国の言語をぶつけられたかのよう、聞こえているのに理解ができない。
蒼白になった俺の反応を見ていた七星は、何やら違和感に気付いて瞠目する。近距離で見えて初めて気づいたであろう、その小さな違和。
あれ、と。抑揚のない独り言は、無意識に口から零れたものらしい。まじまじとこちらの顔面を覗き込み、彼はこう呟いた。
「……違うのか? 他人の空似? そういえば、よく見ると顔つきが微妙に違うような……」
直後、後ろ手をついて勢いよく跳ね起きる。矢を受けた傷に激痛が走るが、気にしていられない。突然の俺の行動に驚いた三ノ星が迎撃の構えを取るのを無視し、彼に迫った。
「今何と言った? “俺”が朝廷に出入りしている……?」
「え、いや、あの……」
「頼む。答えてくれ。この俺にそっくりな顔をした男を都で見たのか?」
いきなり語調に熱を込めた俺に問い詰められ、三ノ星は目を白黒させる。彼自身も混乱しているのだろう。あ、とか、う、とか文字にならない音を洩らした後、どうにか顔を仰け反らせたまま口をぱくぱくさせた。
「し、知らないよ……やっぱり、何も知らない! 今のは聞かなかったことにして……」
彼の言葉が終わるよりも早く、俺は懐に仕舞っていた短角刀を抜き払い、三ノ星に突き付けた。軍人相手なれど、不意を突くのは容易かった。
心の中ではやや申し訳ないと思いつつ、彼がうっかり露呈させた情報の片鱗を、ここで逃す訳にはいかない。何故ならそれは、俺の人生を左右させるかもしれない重大な目撃情報なのだ。
「撤回はなしだ。お前も霊使いなら分かっているだろう。霊域では嘘をついてはいけない。──神の御前、水霊の怒りを招きたくなければ、正直に答えてくれ」
黒光りする刃を首筋に突き付けられ、彼は苦々しげに眉を寄せた。さすが腐っても軍人と言うべきか。俺に半ば脅されながらも三ノ星はそれ以上狼狽えたり、無茶な抵抗するような醜態は晒さなかった。
むしろ彼は諦めたような脱力を顔に浮かべ、長い長い溜息をついたかと思えば、短角刀を握るこちらの手をゆっくりと避ける。その仕草に敵意も殺気もなかったため、俺も大人しく武器を下げた。
「……神の御前、か。確かに、この地で嘘をつけないのはお互い様か……」
仕方ない。力なく首を振り、三ノ星は肩を落とした。それは自己保身や朝廷の事情よりも、信仰というひとつの立場を尊重した姿勢に他ならない。少なくともこの空間において、俺と彼は平等だった。
ひゅう、と夜風が俺たちの間を通り抜ける。三ノ星はゆっくり、言葉を噛み締めるような口調で話し始めた。
「──丁度、一年くらい前だったかな。朧家の御君と些細な諍いを起こした“影家の近習”がいた。少し前から朝廷に出入りしていた男で、てっきり僕はそれが君だと勘違いしていたんだよ。何せ、全く同じ顔をしているんだ」
朧家の御君? と訊き返した俺に、彼は呆れる。「千伽様のことだよ」
「ははあ」やはりあの千伽という男、上流貴族八家に属するらしい。朧家とは、朧省を治める土地貴族を指す名称ではなかったか。
思考を逸れかけた俺を気に留めず、話は続いた。
「諍いの原因は分からない。大したことじゃなかったと思うよ。ただ千伽様は少し破天荒が目に余る方だから、朝廷でちょっとした騒ぎになってね。君にそっくりな近習はそれ以降、色んな目を向けられるようになったのさ」
「それでお前は誤解した訳か……。近習というのは召使のことだろう。そいつは、影家に仕えているのか? 影家は六十二年前に粛清されて没落したのでは?」
「確かに、六十二年前の事件で影家は一族丸ごと処された。でも、中には皇帝陛下のお怒りを免れた者もいてね。それが綺羅様っていうの」
耳慣れない名に、俺は首を捻った。「綺羅様?」
「白狐様の義弟だよ」
「え、あの人に弟がいたのか……?」
「君って、本当に何も知らないんだね」三ノ星はいよいよ俺の無知に呆れ果てた。「白狐様には年の離れた妹君がいらっしゃって、綺羅様はそこに婿入りした方なんだよ」
「ああ、なるほど。そういう」
朧げに家系図のようなものを脳に描き、俺は相槌を打つ。少しずつ、人物の相関図が見えてくるような気がした。
「……例の事件で影家が丸ごと粛清されてから、影家の勢力は確かに衰えた。今では綺羅様が当主の座を継いで、どうにか持ちこたえている状態なんだよ。まあ、綺羅様は影家の血を継いでいない外縁の方らしいんだけど」
三ノ星の言葉が脳裏を流れていく。今まで積み立てていたものが音を立てて崩れ、代わりに全く違う様相が浮き上がってくる。
「──で、その綺羅様の周囲に俺のそっくりさんがつき纏っているのか?」
俺は頭が痛い思いで念を押した。事態が、予想外の方向へ転じているようだった。
これは、もしかすると、孑宸皇国だけの問題ではないのかもしれない。ようやく俺はそう気付いた。
この世で俺と瓜二つの顔をした男は、ただ一人しか存在しない。この俺の“分身”、名はコウキ、あだ名は救世主──そう、ただでさえ厄介な六十二年前の儲君同士の諍いに、あのイダニ連合国の“救世主”が絡んでいるとなれば、いよいよお手上げである。
思えば、かつてコウキと対峙した折、怒り心頭の白狐さんは奴を「父と妹を殺した」敵と罵った。要するに、六十二年前の粛清事件の段階で、既にコウキが関わっていたのではないか。
だとすれば、綺羅という男の正体もきな臭くなってくる。少なくともコウキと繋がりがある時点で、西大陸と何らかの関係があることは明白だ。
とりあえず、俺は質問をぶつけることにした。そうすれば相手は正直に答えなければならない。この空間にいる限り、主導権を握っているのは自然霊なのである。
「綺羅様っていうのはどんな男だ? 影家に婿入りしたというのなら、やはりそれなりの名門なんだろう?」
「さあ、それがよく分からなくて」肩を竦める三ノ星は、誤魔化しているというより本当に何も知らないようだった。「ただ、奇術を使うって専らの噂」
「奇術?」
「そう、変化の術。宮廷に仕える女官がね、綺羅様が鳥に変じて飛び去るのを見たって」




