表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
明後日の空模様 朝廷編  作者: こく
第六話 異端の村
27/94



 

 一体何人の村人が追ってきているのだろう。彼らは一体何が目的なのだろう。揺れる松明の炎が、息を切らして走る俺たちの影を長く伸ばしている。

 地鳴りじみた足音、大勢の息遣い。何か憑りつかれた狂信が、背後から迫っている。俺は、追手との距離に急かされながら闇雲に地面を蹴っていた。


「っ……」


 刹那、自分の背に何かが勢いよくぶつかる。どん、と勢いよくぶつけられた、それ。まるで拳で殴られたような衝撃が走り、か、と開いた喉から掠れた息が通り抜けた。

 数歩よろめき、膝から崩れ落ちそうになるのを必死で堪える。駄目だ、立ち止まるな。死ぬぞ。己のものとも思えぬ無音の声に励まされ、踏ん張った足で再び駆け出す。

 後ろから心臓を狙ったそれはやや反れ、肩の関節の辺りに鋭く深々と突き刺さっているらしい。収縮する肩の筋肉がその形状を明確に伝える。

 矢だ。矢を射られた。

 冬の間、長遐で狩りをするのに使った弓矢の殺傷性は重々理解しているつもりだった。急所を射抜けば一撃で獲物の動きを止める。鈍った獲物を仕留めるのは容易い。

 嗚呼、こんな形で野鹿の気持ちを知ることになろうとは──緊張がもたらす無痛覚状態はほんの数秒あまり、あとは焼いた鉄棒で肉を抉られるような激痛が俺の何もかもを苛んだ。


 片足から力が抜け、躓く。悲鳴と呻きがぐちゃぐちゃになった喘鳴を繰り返し、一呼吸ごとに増していく苦痛に眼球が飛び出そうになる。どくどくと脈打つ心臓が異常に熱く、肉に突き刺さったままの矢の存在感が増していく。

 老馬が甲高い悲鳴を上げた。空を切る無数の矢の音。一瞬振り向いてみれば、ぼんやりとした視界の最中、雨のようにも流れ星のようにも映った。

 幾つかの矢が馬の尻や背を掠める。地面に突き刺さる。

 方向を上手く掴めなかった。俺も老馬も門を突破するのでぼろぼろになり、更に弓矢での追撃を受け、訳の分からない興奮状態に包まれたまま走っている。否、逃げ惑っていると言った方が正しい。

 逃げ込む先に心当たりもなく、頼りもなく、せいぜい思いつくのは森に身を潜ませる程度の安直な策。この鈍った身体では撒くこともままならず、距離は縮まるばかり。

 万事休すか。死んで焼肉になるのか。それは困る。

 まともな思考ができなかったのが功を奏したかもしれない。少なくとも俺の本能は、どんな絶望的だろうが生を諦めなかった。最早条件反射に近い無意識下で、俺はよろよろと走り続ける。


「はあ、はあ、はあ……っ」


 不意に、俺の身体は前のめりに傾いた。三半規管が狂う。──あるところを境に、いきなり地面が柔らかくなった。比喩ではなく、実際に足が土に沈んだ。

 足元でばしゃんと水が跳ね、遅れて冷たいという感覚が脳に伝わる。老馬が嫌がって激しく首を振った。

 路を外れて川にでも迷い込んだか。いや、川というより沼地のようだ。踝まで浸った泥水は、執拗に脚に纏わりつく。まるで、亡者の手のように。


「あいつ、湿地に逃げるつもりだぞ……!」


「追え……」


 黒々とした木々と霧に囲まれ、追手の喚き声が途切れ途切れに聞こえる。浅瀬を踏み荒らす水音が聞こえる。

 脚が上手く動かない。闇雲に進めば進むほど水嵩が増し、思うように進めなくなる。泥の重さと焦りが俺の動きを鈍くした。

 深くなるにつれ、馬が進行を拒否する。ぐい、と強く首を踏ん張り、俺の身体を引き戻そうとする。これ以上行ってはいけない。その意志は伝わるものの、立ち止まればあの狂気の集団の餌食になるだけである。

 最早走るという体裁すら取れていない俺は、気付かなかった。俺が逃げようとしている泥池の先、ただの波ではない不自然な水面の揺らぎがあったことを。


 ──直後、地響きのようなものが轟いた。水底が何かの生き物のように振動し、黒々とした水面が荒ぶる。地震か、と怪訝に思って足を止めたのは追手も同じらしい。そして、信じられない光景を目の当たりにした。

 視界が真っ黒になった。視力の問題ではなく、何か分厚い壁のようなものに目の前を阻まれている。それが泥水の壁であると分かったのは上空から大量の水が降り注いできたからで、悲鳴混じりに逃げ出した馬が離れていくのを感じながら、俺は呆然と立ち尽くすほかない。

 少し距離を置いたところにいた村人たちは、あたかも竜巻が起こったように錯覚したことだろう。黒々と渦巻く水柱が天に向かって噴き上がり、大量の泥水が撒き散らされる。天変地異でも起こったのかと思うほど。

 困惑のどよめき、引き攣った悲鳴があちこちに木霊した。もうこうなってしまえば集団に統率などない。パニックになった村人は、俺の存在など忘れたかのようだった。


「──……ああ」


 思わず漏れた俺の息は、世界の終わりを目の当たりにした者のそれ。水中から頭を擡げたのは──言葉にできないほどの圧巻の巨躯だった。

 水柱だと思ったものは一匹の生き物で、半身が露わになるやその巨大さに度肝を抜かれる。

 不謹慎にも、俺の脳裏を過ったのは昔観た怪獣映画のことだった。二足直立の怪獣が電車の車両を咥えている光景には作り物の迫力しか伝わらなかったが、現実で対面すれば逃げ惑う民衆の気持ちが分かるものである。

 生々しいほどの白い皮膚は鱗に覆われ、手足はなく、ぬるりと蛇のように長い体型をしながらもその大きさは規格外。

 退化した目玉はないに等しく、その顔つきにどこかウーパールーパーにも似た間抜けさを覚えたのも束の間、吼えた口にはずらりと二重の牙が並び、可愛らしさなど彼方へ消し飛んだ。


「──!」


 声のない咆哮は波動となり、周囲の何もかもが薙ぎ倒される。逃げるという選択肢すら失った俺も例外でなく、派手に水にすっ転んで立ち上がることもままならない。

 巨大生物に戦意喪失したのは追手も同じ。哀れ、蜘蛛の子を散らすよう必死に逃げ惑う彼らが、陸地に辿り着くことは二度となかった。


「ぎゃあああああっ!」


 耳を覆いたくなるような断末魔。暴れる波音。あまりに至近距離であったため俺が捉えた情報は少なかったが、それでも何が起こったのか推測することは出来た。

 巨躯をうねらせて狙いを定めた化け物が、村人の群れに食い掛かったのだ。

 あたかも魚を狙う水鳥のような俊敏さで、首が収縮する一瞬、開いた口とそこに呑み込まれる数人が残像となって消える。

 俺は信じられなかった。昔、ズーラシアで見たインドライオンの食事風景の方がまだ可愛げがあった。

 人間が、生きたまま次々と丸呑みにされていく。貪欲で巨大な口は血飛沫のひとつも漏らさず、それが余計に現実味を感じさせない。見事な放物線を描いて宙を飛んだ誰かが、下に待ち受ける口にぱっくり吸い込まれる光景は、趣味の悪い冗談としか思えなかった。


 野生の殺戮はどれくらい続いただろう。腰を抜かした俺はその場からぴくりとも動けず、やがて己が餌食となる順番を待つ形となった。誰がどう見ても、俺が喰われるのは時間の問題だった。

 気付けば周囲には俺の他に誰もいない。己の短く浅い呼吸が、ただただ煩かった。奈落の底に突き落とされたよう、目の前が暗い。

 やけに静かになった沼地の端──怪物は巨大な首を重たげに擡げ、水中に半身をつけている俺の方へと顔を向ける。正面から見ればやはり両生類、或いは爬虫類のようなぬるりとした顔つきである。

 それが大きく口を開け、無力な俺を飲み込むまであと数秒、というそのとき。湿地全体に響き渡るような、甲高く不思議な音が静寂を打った。


「──水霊よ、鎮まれ」


 凛とした命令が届く。まるで流麗な笛の音のような声は聴いていて心地良く、強制力は欠片もない。俺ははっと目を開く。犬のように大人しくなった水霊の背後、一人の人影が歩み出たのだ。


「……」


「お前、は……」


 顎が外れそうになって、言葉が続かない。その男の姿に見覚えがないわけではなかった。

 細い面立ちで、地味な印象を受ける男。夜の暗さのせいだろうか、髪の長さのためだろうか。彼はまるでブラウン管のテレビから這い出てきそうな陰鬱さをたたえている。


「……」


 相手は俺の質問に答えず、手にした松明に炎を灯した。ぼう、という音とともに橙色の火が燃え上がり、水面一帯を照らす。

 炎の揺らぎに浮かび上がった顔は──やはり、あのときの七星(チーシィン)だった。


「あ……確か、三ノ星……?」


 喘鳴に掠れ、声が途切れる。自分が怪我をしていることを今になって思い出し、じわじわ込み上げる肩の痛みに咳き込む。痛い。苦しい。涙が滲み、目の焦点が合わない。

 それでも確かに、目の前で水霊を従えているのは、あの夜、世捨て人の家を襲撃した七星(チーシィン)の一人。そして俺の記憶が違っていなければ、苔森に逃げ込んだ俺を追いかけてきた、水使いの三ノ星なのである。

 何故こんなところに。何故、俺を助けるような真似を。刺々しいものが喉に引っ掛かり、俺はそれ以上言葉を話せなくなった。

 もし相手が俺を殺めるつもりであるなら、このとき俺は死んでいただろう。

 しかし、そのようなことは起こらなかった。三ノ星はこの俺を生け捕りにするような素振りすら見せず、あろうことに安堵の息を吐いたのだ。


「生きていてくれて良かった」と。


 ──苦痛に歯を食いしばりながら、俺は耳を疑った。腹を抱える体勢で眉を顰め、相手の顔を窺わんとする。彼は思ったよりも無に近い表情でこちらを見下ろしていた。

 そうして彼の唇から紡がれた言葉は、なかなか衝撃的だった。


「──何、そんな顔しなくても大丈夫。僕は、千伽様から言い付けられてね。君が死にそうになっていたら助けてやれって」


「せ、千伽様、が……?」想定外の名が飛び出し、俺は目を白黒させる。


 あの千伽という男は、この七星(チーシィン)を懐柔したというのか──目の前に佇む七星(チーシィン)が嘘を言っている可能性も考えたが、今は嘘をつくメリットが見当たらない。

 穴が開くほど三ノ星の顔を凝視しても、そこから読み取れるものなどなかった。徐々に意識が白んでいくのも気のせいではないだろう。血を失い、俺の身体は動けないほど衰弱していた。

 こちらの首ががくりと傾きかけたとき、見かねた七星(チーシィン)は、さしたる親しみもなく、どちらかといえば義務的な口調で手を差し伸ばす。


「まあとにかく、怪我の手当てをしてあげるからこっちにおいでよ」




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ