Ⅰ
もうすぐ山の頂に差し掛かろうという陽。どんよりとした雲の向こうから光を滲ませ、緩やかな谷合の野原を灰色にしている。
低い灌木が小島のように点在する斜面は、冴えない空模様のもと、くすんだ春一色に染まっていた。芽吹いたばかりのシロツメクサに蓮華草や菫。山林をくぐり、薄暗い渓流の傍に行けば胡桃や山毛欅の樹が葉を茂らせ、地面には苔やシダがびっしり一面を覆っている。
人の手が入らない山野の風景。剥き出しの自然の逞しさに、寄り添うような春の花と草木。天気だけが、降ってやろうか晴れにしようか決めかねて愚図愚図と淀んでいる。
そんなものに目を配る余裕もないほど、俺は内心穏やかでない。
雲上渓谷の神域を抜け、およそ十日あまり。冴省の険しい山脈を水源とする川を遡り、俺は灰毛の老馬を引き連れ、道なき道を頼りなく進んでいる。
地図もなければ道標もない。俺に分かるのは頭上の太陽と天体の位置から割り出される方位のみで、人里に辿り着かないまま食べ物も底を尽き、野草とも雑草ともつかぬもので飢えを凌いでいる有様だ。
春という季節を迎え、食べられる緑のものが手に入るのは不幸中の幸いと言えよう。無論、食べられるというのはせいぜい毒がないという意味であり、決して人間の味覚や身体に合うというわけではない。
お陰でここ数日の俺は野宿の寒さと空腹、絶不調の胃腸の痛みに悩まされている。
そうしてしばらくひもじい思いを強いられてきたのだが、今朝はいいことがあった。昨夜仕掛けた簡易な罠にやっと獲物がかかったのだ。冬山で世捨て人と過ごした日々の学びがようやく生きたようだった。
俺には、翔のように弓矢を手にして狩りをする術がない。その代わりのように、冬の間に地面を歩く小動物や鳥類を捕らえる仕掛け罠の作り方を教わった。記憶を頼りに、四苦八苦しながら初めて自力で罠を作ったのは五日前のことである。
構造自体は単純なもので、年頃の少年たちが仕掛けて遊んでいるものと変わりない──はずなのだが、場所が悪いのか俺が悪いのか一向に掛かる気配がなく、何度もやり直した末にようやく捕らえた獲物だった。
起き抜けに樹の根元に仕掛けた罠を確認して、そこに散らばった羽毛と動くものを見たとき、俺の胸にはかつてない明るさがあった。
気軽に食べ物が手に入る環境にいる者には知りようのない、生きていくための綱を掴んだ手応え──かつての翔の言葉を借りるなら、こんなところだ。生き物を殺すときほど、俺たちは生きているのだ、と。
目の細かい網に足を取られ、衰弱していたのは一羽の野鶉である。斑模様の褐色の翼を散々ばたつかせ、一晩中暴れた末に動けなくなったらしい。素手で捕まえるのも、そのまま絞め殺すのも容易かった。
死んだ野鶉を手早く川に沈め、冷やす。羽と頭部を毟り、短角刀で腹を裂いて内臓を取り出せば、もうそれは生命の気配を感じさせないただの肉塊。ぶつぶつとした皮の下から薄桃色の肉の繊維が見え隠れする。
少し前の俺ならば多少の居心地の悪さを覚えたものだが、慣れてしまえば何てことはない。
焚火で炙った鶉は美味しかった。脂が乗っていて、温かくて、皮がぱりぱりと香ばしい。ここ数日栄養を植物性のものにばかり頼っていた俺は、ようやく体の底から元気が出てきた。
俺は夢中で鶉肉にかぶりつく。味付けも何もしていない肉汁が口一杯に広がり、汚れた口許を袖で拭う。柔らかい腿、胸肉に続き、骨にこびり付いた固い部位も前歯で齧り、小さな手羽まで食べ尽くした。
行儀悪く骨髄までしゃぶりたいほど、俺は空腹だった。
空には執拗な灰色の雲がこびりつき、太陽の光はぼやけて霞んでいる。もう随分と長いこと、晴れた青空を見ていないような気がした。まるで、悪天候の神が俺の頭上を付いて回っているかのようだ。
それでも、雨風がないだけ有難い。この穏やかな気温を享受できるのも今だけなのだと思える程度に、俺は屋外で夜を越すことに慣れつつある。
俺ががつがつと旺盛な食欲を埋めている間、あの灰毛の老馬は、ゆったり原っぱを歩き回っている。杭に繋がなくとも逃げる気配はなく、時折鼻先を地面に向けては、食べられそうな草花を探している。
年老いた彼女は道中ずっとマイペースだ。芽吹き始めたオオバコの葉や蕾を食み、好物の露草を見つけるとぐいぐいと俺を引っ張って道を逸れようとする。かといって食物に横着しているというわけではなく、むしろ体格の割に食が細いようで、俺は少し心配だった。
馬と俺の体力不足が、ここ数日の進行の遅さの一因である。加えて食べ物を求めてあちこち逸れるので、なかなか前進しない。心の中では白狐さんのことを案じながらも、現実では自分一人生き延びるので精一杯である。
「……」
いきなり脂っこい食べ物を放り込まれた胃が驚いたようだ。じわじわと疼痛が内臓を締め付ける。ここ数日の消化器の不調は栄養不足によるものだと俺は思い込んでいた。否、思い込もうとしていた。
実のところ、胃の辺りに違和感を覚え始めたのは雲上渓谷を脱出してから。あの日を境に、今まで感じたことのない、腹の底が重たく強張っているような不快感がある。
つまり──俺の心配の種は、あのときうっかり飲んでしまった冥府の水が俺の身体に何か異常をもたらしているのではないか。嘔吐したはずの水は、実はまだほんの少し俺の体内に残っていたのではないか、と。
そんな形にできない不安が、吐き出す当てもなく胸中で燻っているのだ。
しかし、気にしていても仕方がなかった。今のところ感じているのは胃腸の違和のみで、腹痛といっても死を覚えるほどのものではない。
疼痛が少し鎮まってから、俺は重たい腰を上げる。日が出ている内に進まなければ。
焚火を水で消して踏み、後始末をする。野鶉の残った骨と食べられない内臓は山の神──大自然に還す。俺の言葉に替えれば、野山を生きる鳥獣や土中の微生物などがそれにあたるのだろう。山で生きる人間ほど、捨てるという言葉は使わないものだ。
この辺鄙な土地には、狐や野犬、熊から悪霊と呼ばれる魑魅魍魎までいる。何にせよ、火を焚いたから遠巻きに勘付かれているはず。少し離れた土中に獲物の残りを埋めておけば、やがて血の匂いを辿って来るであろう。
素早くその場から離れるのが礼儀である。気を付けなければ、今度は俺の方が食物連鎖の下位に置かれかねない。
顔のない山神への捧げものを済まし、俺は掌の土を払って馬を呼んだ。灰毛の老馬の背は温かく、白んだ毛並みからは太陽と汗と糞尿の匂いがした。俺が近寄っても嫌がることはなく、気を抜けばこちらの背を鼻先でぐいぐい押して愛情表現するので転びそうになる。
動物に好かれることに不慣れな俺は、くすぐったいような気持ちを噛み締め、その背に荷物を積んだ。年老いた小柄な馬なので、俺が騎乗することは極力避けていた。
「さあ、行こう」
励ますように声を掛けると、馬は鼻から息を吐いている。綱を掴んで歩けば、重たげな体躯を揺らして彼女の蹄が続く。この調子で七星一行に追いつくことは出来るのか。最早、白狐さんを連れて山道を行く彼らの進行が如何に遅いか賭けるほかない。
***
その日も野宿だった。いや、そうなるかのように思われた。
西の彼方に日が沈む頃、歩き疲れた俺たちは手頃で平らな地面を探していた。北方を源流に雲上渓谷へと流れ込む川を遡行し、緩やかに蛇行する岸辺にようやく腰を下ろす。
綱を離せば、老馬は鼻から息を吐いて首を振った。やれやれ、と言っているようだ。やはり年老いた彼女にとって、この山道を進むのは体力的に厳しいのかもしれない。
「はあ……」
つられてため息をつく。仰げば怪しい夕暮れが広がり、赤と金色の混じった黄昏の空、どす黒い雲が蜷局を巻いている。雲間から差し込む一筋の光線は、まるで下界を覗く巨人の眼差しのようだ。
最後の太陽の光を受け、樹々の影が地面に長く引き延ばされている。俺の足元から伸びる影も同じ方向に横たわり、あたかも周囲と同化したように錯覚した。
やがて、火を熾さなければ、と思い立つ。視覚が利くうちに乾いた木枝を探さなければ。スコノスとしての己の力を使いこなせない俺は、ただ点火するだけで時間がかかる。そう頭では分かっていても、歩き疲れた足はなかなか動かない。
傍にいた馬が頭上を仰ぎ、微かに歯を剥いた。くるりと首の向きを変え、鼻の孔を広げてしきりに一点を睨んでいる。興味のあるものでも見つけたのだろう。彼女の耳が立っている方向につられて目線を寄越せば、動物の視力を越えた先に何かがいるように思えた。
何か──人ならざるものだろうか。咄嗟に俺は膝立ちになり、身構える。
この世には「逢魔が時」という言葉があるよう、夕暮れ刻はこの世とあの世が結ばれる時間帯。霊域の主は狼藉さえ働かなければ怒ることも滅多にないが、野山をうろつく悪霊の類であれば話は別だ。
風に乗って微かな匂いを捉えた。鼻先をくすぐる、何者かの匂い。泥臭さ、火で燻されたような着物の匂い。獣のものとは違う汗と体臭──そして、血。俺はほっと肩から力を抜いた。これは、ネクロ・エグロの匂いだ。
連日屋外で過ごした俺の嗅覚は研ぎ澄まされている。目を凝らし、嗅覚を集中させ、匂いの主を探した。反射的に身を伏せたのは、何となく後ろめたいものを覚えたためだ。
もしその誰かが俺の姿を見たとき、身なりの汚さゆえ賊だと勘違いするかもしれない。或いは、その匂いの主が山賊や奴隷商人でないとも限らない。魑魅魍魎の類でないからといって、油断はならない。
地面に膝をついたまま樹の陰に隠れる。気配は近かった。足音からして、一人らしい。夜の無彩色に染まっていく景色の中、樹々を透かして歩く影を探すのは至難だった。
「……」
見知らぬ男のようだった。あまりに暗いので顔の造形も見えないが、少なくとも一瞬だけ垣間見えた影の形に見覚えはない。
早歩きしていた男はすぐに暗闇の中に消えてしまう。しかし、匂いの尾は流れ星のようにその場に残り、進行方向だけは明確に分かった。少し迷った後に木陰から出て、俺は静かにその後を追う。
何故顔も知らぬ男の後を尾行しようと思ったのか。久しぶりに見つけた人間の姿に心が逸り、何かが起こる明るい期待が俺の胸に膨らんだ。
そう、もし彼が周辺に住む皇国民であるなら、その進行方向の先にはきっと人里があるはずなのだ。運が良ければ、村か、都市か──とにかく、野宿して寒い思いをするより、金を払ってでも屋根と壁のあるところに寝たいというのが人情である。
足音を消して首を伸ばし、男の背が遠くにあるのを視認した俺は、来た道を戻って灰毛の老馬を呼ぶ。疲れ切った彼女も、外などではなく厩でゆっくり休ませた方がいいだろう。荷を背負った俺は、男の残した痕跡を追っていくことにした。
「──……」
目的地も不明なまま、夜道を進むことに躊躇いがなかったわけではない。もし相手が野宿をするつもりならとうの昔に足を止めているはずである。ずんずんとどこかを目指して前進する男の足取りに立ち止まる気配はなく、むしろ帰路を急いでいる節すらあった。
疲弊した心身に鞭打って、その痕跡を辿る。己の判断が吉と出るか凶と出るか見当もつかない。
不用意に距離を縮めれば俺の居場所を悟られるかも、という懸念はあった。しかし、森を一つ越えた先に明かりらしきものと土壁が見えたとき、用心深さは俺の頭から抜け落ちた。




