Ⅴ
黄泉戸喫。あの世のものを口にすると、帰って来られなくなるという神話世界の常套である。ギリシア神話にも日本神話にも見られるこの世とあの世のルールだ。
霊域には動物もいるし、数多くの植物もある。しかしそれらを狩り、あるいは摘み取って腹の足しにしようなどとは思ってはいけない。この世のものはこの世のままで、あの世のものはあの世のままで。境界を守らねば霊の怒りを招く。
確かそれらは異界の食物について指していたはずだったので、水がそれに該当するか分からないが、とにかくまずい。
俺は慌てて己の指を喉奥に突っ込み、飲んだばかりの水を吐き出す。おえ、と苦しく醜悪な声が出た。あまり絵面の良いものではないが、この状況ではそうも言っていられない。
ぼたぼたと口の端から流れ出る水気を含んだ唾液。口を下に向け、更に喉を刺激する。
吐き出さなければ、一滴残らず。人差し指を更に奥へ入れ、胃中のものを出来る限り嘔吐した。
──帰れなくなる。
俺は弾かれたように走り出した。ぱたりと途絶えていたあの冷気が、再び陽炎の如く周囲に湧きあがった。背後だけではない。右にも左にも、燃え盛るような二つの眼があった。
はっきりと視覚で捉えたわけではない。しかし、確かに俺は〈羊守〉たちに目という部位があることを確信した。そうでなければこんなにも視線を一点に注がれることもないだろう。
俺はできる限り顔を伏せ、身を低くして走った。内心で水を飲んだことを死ぬほど後悔しながらも、まだここで死ぬわけにはいかなかった。
身の毛もよだつ悪寒が背を駆け上がる。この渓谷の全方位が俺の命を狙っているのを感じた。彼らの音のない怒りが皮膚に突き刺さる。〈羊守〉たちの視線の射抜いた箇所が、次々と冷たい炎で焼き焦がされていると錯覚するほどだった。
何故己はこうも霊的存在の神経をことごとく逆撫でしてしまうのか。その答えは、万が一生きてここを脱出したとき考えてみようと思う。
心のどこかで無駄だろうという諦めがあった。そして死にたくないという切実な感情も。一か八かに賭けようという悪足掻きの念が俺には残っていた。〈羊守〉の威圧を背で振り払い、俺は必死に谷道を走った。
まるで斜面を転がっているようだ。〈羊守〉が追いかけてくる気配はない。代わりにどこへ向かっても彼らの視線がつき纏い、俺は彼らの掌の上で無様に駆け回っている気分だった。
一体どれくらい走れば外へ出られるのだろう? 自分がどの辺りにいるかも分からない。そもそも霊域には固定された“地点”がないため、その言い方は正しくないのだが、似たような景色が続くため同じところをぐるぐると回っているように錯覚する。
俺は冷や汗をかく。じわじわと己の死が迫っているのが分かった。心拍が上がっているのはいつまで経っても出口が見えない焦燥か、今にも首を失う恐怖か。考える余裕もない。
足場の悪い水際を飛び越え、傾斜した岸辺をよじ登り、息が切れて目の前が暗くなる。神を前にしたときの圧倒的な無力感が俺の脚を鈍らせ、疲労が判断を誤らせる。
ほんの一瞬、俺は諦めかけた。繋ぎ止めていた気力がぷつりと切れる。そして、屍になって谷道に転がる己の姿を視た。
「──……」
声もなく、真っ白な意識の中に抛り出される。死んだ、と思った。そんな無重力空間で目を閉じた俺を鼓舞したのは──ああ、誰が予想しただろう。
まず感じたのは、着物の襟に噛み付いている固い歯列。それが強く引っ張られ、俺の身体もずるずると地面を引き摺られる。湿った土を踏みしめるのは、四つの蹄。頬を掠めるのは、浅くて生暖かい鼻息……。
俺の口から漏れたのは「う、馬……」という苦しげな呻き声だ。命の恩人を呼ぶには何の捻りもない呼び名だが、思えば動物に名をつける習慣がないため、そのまま一般名詞で呼ぶほかない。
瞼を押し上げれば、息がかかるほどの至近距離に湿った鼻面があった。一体いつの間にそこに立っていたのか。
間違いなく、いなくなったと思っていた灰毛の老馬だった。
白いものの混じった毛並みを霧に濡らし、思わずたじろいでしまうほど澄んだ黒曜色の瞳に俺を映す。着物の端を咥え、ぐいぐいと引っ張りあげようとする様子は、まるで寝起きの悪い息子の布団をひっぺ剥がす母親のようだ。
俺はどうにか身体を起こそうと四苦八苦し、ようやく離してもらう。
馬が、人を助け起こそうするかのような行動を取ったことが信じられなかった。肩からずり落ちて涎だらけになった着物を直し、俺は老馬の横っ面を眺める。
「……」
それはほんの一瞬にも満たない交信だったと思う。俺は何の違和感もなく馬の意志を汲み取った。人間が動物を見て、勝手にあれこれ思い描くのとは違う。馬の神経と俺の神経が刹那だけ繋がり、非言語の思考が直接脳に流れ込んだのだ。
迷いはなかった。俺は弾みをつけてその背に飛び乗る。それを待っていたかのよう老馬は勢いよく地面を蹴った。
がくんと仰け反った体勢を戻し、慌てて手綱を握る。しかし、最早俺が操作する必要もなかった。老馬はその野生の鋭い本能で、真っ直ぐに雲上渓谷の出口を目指して駆けた。まるで、俺を背に乗せて脱出するのが初めからその使命であったかのように。
〈羊守〉の視線が心なしか遠退いていく。リズミカルな蹄の音が、その気配すらも掻き消していく。俺は振り返らなかった。上下に揺さぶられる律動に身を任せ、ただただ正面を見据えた。
神域を統べるその空間の主は、獲物が神域の外に出ればそれ以上追いかけてくることはない。以前、南の平原で出会った土地神・泰逢もそうだった。であれば、逃げ出してしまえばこっちのものだ。
もしかすると、〈羊守〉にとって走る老馬を捕まえることなど容易かったかもしれない。馬の速さと言ってもたかが知れている。その気になれば、俺たちの首と胴体を切り離すことも出来ただろう。
しかし不思議なことに、彼らは敢えて俺たちを深追いすることはなかった。それは何故だろう。考えるのは無粋である。神の思考を邪推するのは、霊にとっても人にとっても愚かなことだ。
いつしか霧は晴れていた。水底から浮上したときのよう全方面の圧から解放され、空気が軽い。明るい陽光が岸壁に反射し、生きとし生けるものどもの“こちら側”に戻ったことを教えてくれた。
雲上渓谷から逃げ切った。
老馬がその走る速度を緩めた。俺は軽く手綱を引き、向きを変える。馬は交互に蹄で地面を踏み、丁度後ろを振り返る格好となった。
低い下生えの地面が緩やかな斜面をつくり、ある一定のところまで下がると濃厚な霧が這い、何も見えなくなる。まるで地面の窪みに雨水が溜まるよう、渓谷の裂け目に霞が溜まり、停滞している。
雲上渓谷とはよく言ったものだ。深い白霧の海から抜け出た俺たちは、今や雲海の上にいるかのように錯覚された。そう、高度を上げた飛行機の窓から外を眺めたときのことを想像してほしい。それほどまでに、雲上渓谷の谷底は深いところにあったのだ。
「ありがとう」
俺は鞍上から、馬の背を軽く叩く。彼女がいなければ、俺は死んでいた。
老馬は鼻から浅い息を吐く。鬣を撫でても嫌がる素振りはない。俺は、生まれて初めて馬が怖くなくなった。というのも、よく俺に対して向けられる動物の敵意が、少なくともこの老馬からは感じられなくなったのだ。
あのときの電撃的な幻覚体験が、馬の猜疑心を消し去ったかのように。
黄泉戸喫の禁忌を犯したのは迂闊だった──しかし、同時に安堵している。禁を犯しても殺されなかったということは、あのとき咄嗟に水を吐き出したのが功を奏したのだろう、と。
俺は自身の迂闊さが後に思わぬ事態を引き起こすことも知らず、既に終わったことだと高を括っていた。胃中に残った違和感は、無視をした。
「……」
この渓谷の霧の下にあるのは、陰惨な死者の国。もう二度と、生きて訪れることはあるまい。
無言のまま、手綱を握って踵に軽く力を込める。老馬は俺の気持ちを汲み、その鼻面を正面に向ける。そして、背に俺を乗せたまま北を目指して走り出した。蹄の鳴る音が地面を振動させ、やがて尾を引いて消えていく。
薄霧の向こうで、地底の守り人が俺たちを見送った。




