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明後日の空模様 朝廷編  作者: こく
第五話 首なし渓谷
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 身体が動かない。人間が感じうる恐怖で、これに勝るものはなかった。

 自分の後ろに何かがいる。冷たい吐息をつき、俺の周囲の空気を白く凍らせていく。皮膚に触れる水蒸気もまるで雪のように、無機質な氷となっていく。

 “それ”の静謐な息遣いが何かを吐き出す度、うなじから背骨に沿って己が空間とともに氷結していくのを感じた。しかし、指一本動かせない。肺の収縮すら許されず、喉が詰まったよう呼気が止まる。

 全身の細胞が“彼ら”の気迫に圧倒されていた。それは漠然としたものではなく、あたかも心臓を素手で鷲掴みにされたような決定的な恐怖だ。

 そう、彼らは「絶対」なのだ。そしてこの世で「絶対」と信じられるものはただひとつしかない──。

 突如、不思議なことが起こった。いきなり、俺の脳裏に映像が過る。その映像に、自分が吸い込まれる。それは、学校の屋上に立ったあの日の記憶だった。

 澄みわたった三月の薄水色の空のもと。俺は、今まさに飛び降りんと己の靴先とその遥か下の地面を見ていた。気が遠くなるほど高い屋上。あと数センチ足を踏み出せば、その先はただ重力と死があるだけ。

 ひゅう、と足元を吹き抜ける風が体躯を煽った。足元の感覚が消える。途端にバランスを崩して──。


 はっと目を覚ます。奇妙な浮遊感が両脚に残り、しばらく地面を失う。幻覚は、ほんの秒にも満たない一瞬の出来事だった。しかし俺は、まるで生きた心地がしない。

 まるで、自分が死んだかと思った。

 荒い息をつく。呼吸をしているという感触がなかった。ただ肺の中ではちきれんばかりに詰まった“死”を吐き出したくて、動かない肩を懸命に上下させる。背骨が軋むような痛みが走り、身体のあらゆる関節から冷たい何かが入りこんでくる。

 視界がちかちかと点滅し、次に俺が対面したのは、月蝕の夜、湖の水際まで俺を追い詰めた巨大な豻の影だった。

 ぬるりと動く獣。薄い灰色の眼が、赤銅の月を映して不気味に光った。その底知れない闇に呑まれる前に、俺は必死に瞼を閉じる。懐に仕舞っていた豻の短角刀を握り、現実へ還る。

 精神が狂いそうだった。硬直したまま、次々と脳を蝕む映像。それは俺の記憶の一部であり、この空間によって歪められた偽の記憶でもあった。


 落ち着け、霊域に呑まれるな。俺は首を振ってどうにか正気を保つ。

 ここに満ちているのは形のないまやかしだ。生きとし生けるものは逃れようのない、絶対的な強制力と敗北、そして虚無感。様々な感情が思考を歪め、幻影をつくりだす。しっかりと気を保たなければ、内面から殺されるのだ。


「──」


 氷のような冷気が首筋にかかり、それが皮膚を下から上に撫でる。それは誰かの指だったかもしれないし、或いは舌だったのかもしれない。ただ、生きた人のものではないことだけは確かだった。

  何かが、背後にいる。名を呼ぶのも憚られる“何か”が。

 冷や水を浴びせられたような心地になった。それこそが、巷で噂の〈羊守〉と呼ばれるものに違いない。

 その名をつけた人間は知っていたのだろうか。彼らは人間の既存言語を遥かに超えた未知の存在である。ゆえに、言葉で形容することが出来ないのだ、と。


 ──雲上渓谷では、絶対に立ち止まってはいけない。振り返ってはいけない。


 進め、と声もなく叫んだ。己の脚に、金縛りに遭ったように固まっている脚に、前に進め、と。そうでなければ間違いなく俺の命はここで終わる。

 右足の裏が、僅かに地面から浮いた。まるで枷をつけられているかのような重さだ。勿論、それは錯覚に過ぎない。この渓谷の呪いが、俺のすべての動きを鈍くしている。

 一歩足を踏み出すのがこれほど辛いと思ったときはなかった。ほんの少し上半身が前のめりになり、首筋に迫っていた冷気が解ける。しかし、〈羊守〉の気配はそのまま。

 もし彼らに目に見える物理的な肉体があるとするのなら、俺の背後にぴたりと貼りついているようだ。吐息のような氷の息吹が耳の下を舐める。そして、その息が“何か”を言った。


「──……」


 俺は反射的に、何かを答えた。自身の喉で声帯が震えたのは分かった。しかし、その声は鼓膜に響かない。まるで口から漏れたと同時に、言葉が霧となって溶けていくようだった。

 更に一歩、強張った足を前に踏み出す。それに続くのは、姿の見えない何者かが草を踏む、陽炎のような揺らぎ。付いてきている。俺の首は、まだ繋がっている。

 霧がかった谷間の細い道を、時折地面の感触を失いながらもゆっくり下っていく。そして背後の冷たい気配も、歩調を合わせて俺の跡を辿った。


 それからの時間は、永劫のように感じられた。

 “それ”は後ろからずっと俺に話しかけてきた。ぼそぼそと聞き取りづらい単調な声音で、それでも確かに俺に何かを問いかけた。

 内容は覚えていない。ただずっと、得体の知れない〈羊守〉は俺に歩幅を合わせ、足音もなく、付いて来る。俺は作法に従って、問いかけに応える。

 不思議なことに、話しかけられた内容も、返事をした己の言葉も、何ひとつ記憶に残らなかった。会話をしたことは覚えているのに、一言話すごとに発した音は霞の中に消え、頭にはもやがかかった。

 まるで一種の催眠状態のようだ。歩き続ける内に、徐々に陰惨で沈鬱な気持ちが胸を蝕む。気分が落ち込み、生きる意欲が途絶え、この場で倒れて永遠に動けなくなっても構わない、と。

 幻影が脳裏をちらつき、立ち止まりそうになるのを必死に堪え、俺は懸命に進んだ。俺の脚を動かしているのは、ここで死ねばもう二度と誰にも会えないという恐怖だった。あの首なし死体が累々と転がる光景だけが、俺の気力を辛うじて繋ぎ止めていた。

 どのくらい歩いたのか分からない。霊域とは、人の感覚では理解できない、物理法則の崩壊した異界。そしてこの雲上渓谷は、今まで感じたことのない並外れた遠大さが広がっている。上手くは言えないが、時間と空間が果てしなく薄く引き延ばされ、そこに終わりがないのだ。

 俺は確信した。雲上渓谷は、谷というごく狭い地形を占める霊域ではない。これは、言うなれば外に広がる霊域だ。そこに“果て”という概念は存在しない。底なし沼のように、延々と続いている。

 ──そう、きっとここは、冥府なのだ。

 であれば、皇国民から〈羊守〉と畏れられているものは何だろう。蛮族の亡霊? そんな可愛らしいものではない。

 神だ。かつて俺が南の平原で出会った土地神と同じ──否、それとは違う性質をもつもの。しかし、既存の言語では「神」としか形容しようのない“何者か”。一切の述語、いかなる観念にも当てはまらない人類の思惟を超えたもの。

 最早、人間に許された語彙は指示語と否定語しか残されていない。〈羊守〉は沈黙の中でこそ語られる。そしてその沈黙は「死」に他ならず、ゆえにこの渓谷に足を踏み入れた者は生きて帰ることがないのだ。


 俺は徐々に、自分が生きているのか死んでいるのかという意識すら失いつつあった。異様なまでに心身が疲労し、今までの労苦の全てが背中に圧し掛かってきているかのようだ。

 一歩足を踏み出すごとに、元来薄い生への願望が削ぎ落とされていく。このまま地面に横になって目を閉じたいと思った。そうすれば、楽になれると本気で信じた。

 そんな朦朧とした意識を叩き起こすよう、再び俺は電撃的な幻覚を視る。


 突然悲鳴が耳を劈いた。人のものではなかった。はっと顔を上に向ける。何か大きなものが落下してきた。

 崖の上から放り投げられたかのよう、無力な四つの蹄で空を掻き──やがて目を覆いたくなるような痛々しい音を立て、斜面になった岩壁にぶつかって転がった。

 馬だった。

 あの灰毛の老馬かと思ったが、どうやら違うらしい。どうにか止まり、地面に横たわっている。素人目にも、もう助からないだろうというのはすぐに分かった。

 見知らぬ馬は弱々しく首を伸ばそうとし、折れた四つの脚をぴくぴく震わせている。上空からぱらぱらと小石や枝が降ってきて、その巨体は束の間、霰に打たれているかのようだった。

 俺は目の前で起こったことが信じられず、呆気に取られていた。いきなり馬が落ちきたら、誰もが同じ反応をするだろう。

 そして奇妙なことに、俺は“こんな記憶”を持っていないのである。少なくとも俺の知りうる限り、この幻覚は俺の記憶が生み出した産物ではない──しかし、そんなことはどうでも良かった。俺は咄嗟に、その倒れている瀕死の馬に駆け寄る。


 何も考えずに取った行動だった。死にかけている馬は、目も当てられない凄惨な状態だった。こういうとき人間が取れる手段は限られている。助けられない馬は、頸椎を折って安楽死させるのだ。

 生き物を楽に逝かせる方法は知っている。冬の間、長遐の山岳で翔とともに獣を狩猟し、半矢で仕留めきれなかった鹿の首を折ったことが幾度かあった。

 出血などで死を待つよりその方がずっと苦しみが少ないのだと、翔が語っていたのを覚えている。翔は命の尊さを口にすることこそなかったが、その慣れた手つきだけが全てを物語っていた。

 何が正しくて、間違っているかは誰にも分からない。ただ、それが俺たちにとっての“精一杯”であることに変わりないのだ。人間は万物を統べる神になど成れないのだから。

 地面に膝をつき、馬の顔を覗き込む。毛並みは薄い栗色で、若い牡馬だった。きっと大事にされていたのだろう。立派な鞍は使い込まれ──そして俺は決定的に見落としていたのだが──それは既に東大陸で使われなくなって久しい古い形の馬具が付けられていた。

 馬の黒い瞳と視線が合う。馬は確かに、俺を見た。怯えたような表情をして、息絶え絶えに歯を剥いた。

 途端に俺は、無性にこの馬に謝りたくなった。助けられない無力感か、命を奪う罪深さに打ちひしがれたのか。否、もっと根本的で個人的な懺悔だ。

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 頭が混乱した。誰かの記憶が俺の脳と繋がり、凄まじい勢いで飲み込まれていく。首を振って思考を払い、ただ目の前で倒れている馬に向かって訳も分からず「ごめん」と謝った。そして馬の首の付け根に膝を乗せ、その顎と後頭部を手で固定する。

 やるなら躊躇いなく、一瞬で。どこかで翔が耳元で俺を励ました。そして角度をつけた両手に力を籠め──しかしいつまで経っても固いものが捻り折れる手応えはない。

 それどころか、手の平にあった馬の毛並みも温もりも消え、俺はただ一人で何もない地面に膝をついていた。


「……?」


 ここはどこだ。本気で分からない。しばらくその場でぼうっとして、自分が雲上渓谷にいること、そして一連の出来事が夢であったことを理解する。その証拠に、横たわって痙攣していた馬の姿はどこにもない。

 嫌に生々しい幻だった。冷や汗をかいた己の手を確認し、息をつく。そして恐る恐る周囲を見回した。

 相変わらず霧は上から下まで真っ白で、視界は不明瞭なばかり。何より不思議なことは、あの〈羊守〉の冷たい気配が、影も形もなく忽然と消えていたことだ。

 まるで、何かに満足して立ち去ったかのように──実のところ、俺は数千年前の罪を赦されたのだった。己の記憶にないほど、遥か昔に犯した些細で赦され難い禁忌を。

 それを理解したのはずっと先の話だったが。

 ともあれ、背中に掛けられていた圧力がなくなり、俺は身が軽い。あの死の幻影ももう視えない。であれば、あとは進むだけだ。出口を目指し、この冥府に通ずる陰惨な谷から脱出するのだ。

 俺は耳をそば立て、周囲に注意を配った。心なしか、先程よりも水の音が近い。意識すればするほど、岩の間を滑る渓流の音色が大きく感じる。


 ほっと息を吐く。〈羊守〉の追跡がなくなり、気が抜けたのだろう。不意に俺は喉の渇きを覚えた。思えば、最後に食べ物を口にしたのはもう随分昔のことに感じる。少しくらい休んでも罰は当たるまい。

 静かな霧の谷間。吸い寄せられるよう、水際へ歩み寄る。そして苔むした岩石の厳つい表面を慎重に踏み、流れからやや逸れた窪みの前に屈みこんでみた。

 透明な水がゆらゆらと緩く波打っていた。深い川底が透けるほど澄んだ水──不思議なことに、影も光も映らない。そこに水があるのは分かるのに、感覚的にひどく捉えにくい。

 俺はさして気にも留めなかった。ただ貼りついたように乾燥した喉をどうにか潤したくて、掌に掬った川水を口許に運び、浅はかにも一口で呷った。


「……」


 するり、と。冷たい液体が唇に触れ、口腔を、喉を滑ってゆく。酢のように僅かな酸味のある水で、後味に不思議な甘さが残った。一言で言えば美味いが、それだけでは済まない違和を感じる。

 透き通ったあの水が胃に届くのが分かった。それにつれ、体内の様子が変わっていく。まるで肉体の持つ質量が消えていくような、自分自身が透明な水になるような──。

 俺は顔色を変える。口元を押さえた、その右手は既に生き物としてあるべき質感や体温が消えつつあった。

 まずい、“よもつへぐい”だ。やってしまった。




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