Ⅲ
初めに取り戻した感覚は、寒気だった。冷たい滴が顔に落ちる。目は見えないが、雨が降っているのかと錯覚するほど濃い霧が一帯を包んでいるのが分かった。暗闇の向こう、細い水流が絶え間なく音を立て、岩の間を滑っている──。
「う……」
呻きはほとんど声にならず、苦しげな息となって口から零れた。ぶつけた額が痛い。頭蓋骨が割れそうだ。まるで自分の手ではないような億劫さを味わいながら、額を触ってみる。
ざらり、と砂のような感触。土で汚れたのか、出血があった末に傷口が固まったのか、定かではない。とにかく、そこから脳みそがはみ出していないことは幸いと言えよう。
瞼を上げてから視覚が戻ってくるのにしばらく掛かった。どうやら脳震盪を起こしたようだ。地面に倒れているだけで酷い頭痛と眩暈に襲われ、視界がぶれる。お陰で起き上がることすら出来ない。
辺りは不気味なほど静まり返っていた。濃霧が自然の音すら吸い込んで、草木も何もかも息を殺している。
俺はこの惨事を引き起こした馬のことを考えていた。近く、少なくとも俺の意識が及ぶ範囲に、生きているものの気配はない。一体、どこへ行ってしまったのだろう。
そして三光鳥のことも考えた。人に転じた彼の姿を思い出すと、今も心臓が早鐘を打った。あのとき俺を襲った違和感は何だったのか。まるで生きた人ではないような──そう、彼はまるで時の止まった“死体”のようだった。だから、年齢という概念を失っているのだ。
あの灰毛の老馬は、俺よりも遥かに敏感にその違和感に勘付いたのかもしれない。神経質な馬のこと、目の前の現象にパニックを起こして逃げ出してしまったのだろう。
結果的にあの予言者から逃げ出す格好となってしまったことを思い出し、恐怖にも似た後ろめたさを覚えると同時に、どこか安堵している自分がいた。
俺は、あの三光鳥が突如として訳の分からない何かになったように思えた。いや、冷静になってみれば彼は出会ったときから既に未知の生物ではあったのだが──今まで曖昧な中立という立場を保ってきた彼がいきなり素の感情を見せ、俺は怖くなったのかもしれない。
とにかく、皇帝からの文は奪われずに済んだ。俺は投げ出された右手に例の紙が握られたままになっているのを確認し、短く息をつく。そしてようやく、自分は今どこにいるのかという疑問に意識が向いた。
「……くっ」
両腕に力を籠め、上体を起こそうとする。そんな簡単な動作もままならない。全身の筋肉に力が入らないのは、怪我のせいか、寒さのせいか、或いはこの場所のせいなのか。
肘の関節ががくんと脱力して倒れかけるのを支え、幾度となくバランスを崩しながら俺はどうにか上半身を浮かす──が、脳の重心が動く度、眼球が飛び出そうな眩暈に見舞われる。
仕方なく再び仰向けに倒れ、頭痛が鎮まるのを待った。このまま死んだら、誰も俺の死を知らないままなのだろうな、という妄想が現実味を帯びた。
それから数十分は、顔を上向けて倒れていたと思う。頭を強打した時は安静にしなければならない。下手をすれば内部の出血が数週間続き、死に至る。ここには脳神経外科もない。最早、傷が浅いことを祈ることしかできなかった。
ようやく俺がまともに立ち上がれるようになったのは、意識を取り戻してから三十分は経っていた。老馬がどこかへと逃げてしまったのなら、もう取り戻すのは絶望的なように思われた。
それよりも、今俺がいるこの場所の方が問題である。
ゆっくりと周囲を見回す。慎重に足を踏み出し、空気の匂いを嗅ぐ。音がないばかりか、自然界でこんなにも無臭な空間というのは不自然だった。
大粒の霧が立ち込め、ほとんど何も見えない。どこまでも無彩色の景色が続いている。地面はやや勾配があるようだ。じっと目を凝らすと、濃霧の向こうに切り立った岩壁があるのが分かった。
ほぼ垂直に反り立つ断崖絶壁。その反対には枯れかけた水の流れがあるようで、唯一といってもいいか細い音を立てている。
壁の高さを確かめようと数歩足を踏み出した俺は、足元がおろそかになっていたらしい。何か弾力のあるものを踏みつけた感触があった。足首がぐり、と軽く捻じれ、慌てて後ろに引っ込める。
嫌な予感がした。
次の瞬間、俺は悲鳴を上げた。恐怖心が喉の薄い皮膚を突き破ったかのようだった。怪我の痛みも忘れて飛び上がり、ほとんど腰を抜かして後方へ逃げる。自分で踏みつけたものから出来る限り離れようと。
それは人間だった。否、かつて人間だったもの、だった。
無造作に投げ出された、手。その先には腕があり、肩があり──まるで折り重なるように、人間の死体が土の上に投げ出されている。そして、嗚呼、俺は最早声もない。その死骸には、頭がないのである。
まるで信じられないほどの怪力で首を掴まれ、捩じ切られたかのような断面。組織も肉も皮膚も血痕も黒ずみ、数センチ飛び出た骨だけが妙に白い。生ごみの腐ったような悪臭が鼻腔を貫き、俺はようやく鈍っていた嗅覚を取り戻した。
一度気がつくと、どうして今まで失っていたのかと思うほど、明瞭な腐臭が身の毛もよだつ惨状を見せる。
谷筋に沿う細い道に、無数に転がる人間の骸──ひとつ、ふたつなんてものではない。夥しい数の死体が地面に放り投げられ、積み重なり、頭部を失っている。
いっそ律儀だと感心するほど、全て首と頭が切り離され、無力となった胴体ばかりが残されているのだ。
血の気の引いた俺は、声も出せず、浅い息をするのがやっとだった。地面に腰を抜かし、そのまま動けない。
死の恐怖が首回りをじわじわ侵食し、やがて頭だけがころりと腐り落ちる──そんな幻覚が生々しく過った。咄嗟に己の首筋を触る。体温がない。しかし、まだ繋がっている。
まだ、生きている。
知らずのうちに、俺の目元は濡れていた。眼球を覆う涙が瞬きの度に弾け、瞼をびしゃびしゃにしている。泣くというより、受け入れがたい惨事を前にした時に起こる生理現象に近かった。
枯れかけた水の流れが峡谷を縫う谷筋に沿い、白霧の向こうへとずっと続いている。まるで大地の裂け目に落下してしまったような、果てしなく深い谷底。霧霞が日夜関係なく雲のように地底に満ち、その先に足を踏み入れた者は生きて帰ることがない。
──ここが、雲上渓谷か。
首を目一杯仰向けて頭上を見上げても、目が眩むほど空が遠かった。地獄の底から天を仰いだら、こんな遠近感なのか、と思うほどに。
恐る恐る、視線を周囲に戻す。心なしか目前の霧が薄れたため、死屍累々の光景は幻などではないと、俺は脳髄が痺れるような感覚とともに実感した。
実に、酷い有様だった。死体のほとんどは男のもののようだ。腐臭が鼻を突き、口許を覆いながらじっと観察する。
谷筋の緩い斜面に、点々と散らばる首なしの死骸。仰向け、俯せ、身体を丸めている者、庇うよう折り重なっている者。どれも倒れている方向は一様に同じ。まるで、背後から迫りくる死から逃げようとしているかのように。
そう、彼らは確かに逃げ出そうとしたのだろう。後ろから追いかけてくる何者かに怯え、霧深い坂道を必死に走って、首なし渓谷の出口を目指した。そしてそこに辿り着く前に──追いつかれた。
「──……」
ふと、予感を覚えて見下ろした、一体の男の遺体。地面に倒れ伏し、千切れた首からは大量の血痕を残すのみで、頭はない。皺の寄った右腕はまるで何かを掴もうとしているかのように真っ直ぐ伸ばされている。
首なしの屍を凝視するのは気が引けたが、何となく目が離せない。頭部以外は特に外傷もないようだ。その輪郭を一周なぞったとき、ようやくこの男に惹かれた理由が分かった。
袖口から覗く手首に、翡翠を通した紐飾りが結ばれていたのだ。
ああ、と遣り切れないため息が漏れる。脳裏を過ったのは、あの宿の娘の顔だ。
気弱そうな彼女が拙い言葉で話してくれた兄の話。兄の話をしているとき、はにかみ、ささやかな幸せに頬を染めていた彼女のことを。
実際、この男が彼女の兄である確証はない。しかし、そんなことはさして重要ではなかった。
例えあの宿の娘の兄ではなかったとしても、吉祥の紐にはそれを結んだ姉か妹の愛情があり──思いやりがあったはずなのだ。この男にも、帰りを待っている誰かがいたはずなのだ。
俺は初めて、名も知らない誰かのために祈った。二度と帰りを待つ人と会うことのない男のために。誰にも知られず、こんな辺鄙な谷で虚しく沈黙することになった彼らのために。
生前何の関係もない俺でも、その死を知っている者が一人でもいることが彼らの魂の救いになれば、と。
──直後。全く唐突に、時間が止まる。水の流れも消え、空間が音もなく凍りつく。目には見えない気迫が、静かに俺を飲み込んだ。
背筋を駆け抜けたのは、悪寒なんて生易しいものではない。ぞわり、全身が総毛立ち、皮膚が浮く。凍った空気に呑まれ、指一本動かせない。胸が圧迫され、肺に空気が届かなくなる。
このままでは窒息死する、という現実的な恐怖が生々しい冷や汗となって毛穴から滲んだ。ほぼすべての感覚が停止し、ただ研ぎ澄まされた聴覚に甲高い耳鳴りだけが響いている。
駄目だ、と本能が叫んだ。脳裏で閃いたのは、脊髄を貫くような確信。これはまずい。俺は背面に異様な冷たさを感じながら、首なし渓谷の言い伝えを思い出す。
この雲上渓谷には、〈羊守〉と呼ばれる土着の羊飼いがいる。彼らは皇国統一間近の制圧戦争で月辰族に敗れた“異民族”の生き残りで、辺境である雲上渓谷に落ち延びたという。或る人は、それは蛮族の亡霊だとも言う。
──違う。そんな生半可なものではない。
真っ黒な深淵を覗き込んだような戦慄。足元が竦み、全身が縮み上がる。それは己よりも遥かに地位の高いものを前にしたときの、その絶対的な迫力に圧倒される戦慄きだった。
俺はあの娘から教えてもらった“おまじない”を思い出し、血の気が引いていくのを感じた。
雲上渓谷では、絶対に立ち止まってはいけない。振り返ってはいけない。
背後から忍び寄る冷ややかな息遣いを肩口に感じながら、俺は金縛りに遭ったよう一歩も動けなかった。




